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一、歴史の教訓は生かされているか

@阪神・淡路大震災直前の三陸はるか沖地震

A中華航空機事故の経験

B関東大震災と先人達

C静岡県における地震対策と山本敬三郎知事の県議会答弁

@阪神・淡路大震災直前の三陸はるか沖地震

 一月十七日の阪神・淡路大震災は、未曾有の、まさに悪夢のような大惨事でした。あの大震災を振り返って、私たちは果たして歴史の教訓を政治や行政が生かしてきたのかどうか、具体的に検証していく必要があると思います。
 村山内閣になって、平成六年暮れの十二月二十八日に三陸はるか沖地震が発生しました。新進党は「明日の内閣」というものを作っておりまして、私は国土・交通政策担当の責任者です。これは早く言えば、建設省、国土庁、運輸省等の大臣の仕事を担当するということです。発令を受けましたのが十二月二十七日で、まさにその翌日の夜九時過ぎに三陸はるか沖地震が発生したわけです。私のもとに西岡総合調整担当 (官房長官)から連絡があって、この青森の地震にどう対応するか、ということを二人で話し合いました。
早速翌日(十二月二十九日早朝)、院内に海部党首、小沢幹事長、西岡総合調整担当、国土・交通担当の私の四人が集まり、協議の上、「新進党三陸はるか沖地震対策本部」を設置しました。すでに御用納めの済んだ国土庁から有岡宏防災企画課補佐を招いて、状況報告を受けた後、直ちに現地調査を行うことになり、私が派遣されました。
 年の暮れの二十九日のことですから帰省客で飛行機の切符を確保するのも大変でしたが、ようやく四席だけ確保できましたので、昼過ぎ羽田からJASで常森県の三沢空港に向かいました。あたり一面は真っ白な雪で、空港は白いシートで覆われているような姿でした。出迎えてくれた木村守男代議士(現青森県知事)、新進党青森県連の役員や田名部匡省代議士秘書などの案内で直ちに現地に向かいました。
 まず最初に、八戸市役所で中里信男八戸市長さんらから状況の説明を受けました。八戸市とその周辺を若干合わせて、七百五十億円以上の被告を被った大地震でした。
 半壊した市役所でも、大きな市役所の金庫がひっくり返っており、もしこれが勤務中の地震であった時のことを想うと、背筋の寒くなる思いでした。特に寒冷地だけに、市役所の中には石油ストーブがあちらこちらに置かれており、これがひっくり返り、逃げ惑う市民や市役所職員が階段に殺到する姿など、想像するだけでも恐ろしいことでした。夜中で、しかも御用納めの後の地震だったことが不幸中の幸いだったと思います。
 県立八戸東高等学校も大きな被害を受けていました。勿論学校はすでに休みに入っており、先生にも生徒にも被害はありませんでした。正月明けの新学期の授業もやりくりすれば何とかできるという大沢憲一校長のお話を聞いて安心しました。
 学校の近くのお寺の墓地もひっくり返っていました。木村代議士と、心配そうにお寺に集まっておられる檀家の人たちに、お見舞いを述べ、激励を申し上げながら、狭い墓地の中ですから、大きな機械を入れるわけにもいかず、傾いたお墓を全部元に直すのは大変なことだなと思いました。
 テレビに何度も出ておりました、ぺしゃんこになってしまったパチンコ店のある商店街にも参りました。大きな銀行の支店だとか大会社の支店は、さすがに応急の復旧はできていましたが、割れたガラス戸や、傾いた家が、このままの姿で年を越して正月を迎えるのかと思うと、何とかして国が応援して一日でも早く復旧、復興を為し遂げなければならない、と木村代議士や同行のメンバーと誓い合いました。
 人身事故は、確かに御用納めの後であったり、夜中であったため助かった面があります。しかし、御用納めの後であり、市も県も国も幹部が出払っており、休日や夜の緊急時の指揮、命令が十分機能していたかどうかを考えると、次々と不安な気持ちが湧いてきました。政府はもとよりですが、このような時には与党も野党も一体となって国民が安心して生活を送ることができるように早急な対策を果敢に打ち出していかなければなりません。法律や制度や過去の慣例を並べ立てるだけでは問題の解決にはならないのです。したがって、従来の政府の役人にだけ任せておくというやり方では、早急な対策が迫られている災害の場合には間に合いません。政治が前面に出て、自らの責任において指揮命令を行い任務を全うすることの重要性を、私はジャンパーと長靴に身を固め、師走の夕暮れ時の被災地を歩きながら痛感したものです。
 その翌日(十二月三十日)、新進党「明日の内閣」の国土・交通政策チーム副担当の泉信也参議院議員、同政務補佐官の工藤堅太郎衆議院議員と協議し、災害復旧について新進党から政府への七項目にわたる要望事項をまとめました。(194ページ参照)
 早速、海部党首、小沢幹事長、西岡総合調整担当に報告し、了承を得た上で、十二月三十日の午後四時、泉、工藤両議員と共に政府へ申し入れを行うことになりました。しかし、官邸は御用納めの後で誰も対応できるものがいませんでした。総理や官房長官が常時、官邸や東京にいる必要は当然ありません。しかし、一朝有事の際は、官邸に誰かがいて、出張先の総理や官房長官と連絡をとって、非常事態に対応できる体制ができていなければなりません。一年に一回の正月休みだということもあるでしょうが外国は日本ほど正月だといって特別な行事があるわけでもありません。正月であろうと夜であろうと、国民の生命財産を守る最も大きな義務を持つべき内閣総理大臣官邸が、年の駆れで、全く機能を停止している現実を前にして、驚くと同時に、この無責任な体制に対して大きな怒りがこみ上げてくるのを禁じえませんでした。
 ようやく国土庁と連絡が取れ、私たちは国土庁を訪れ、西川防災局担当審議官に申し入れを行いました。その夜遅く、小澤潔国土庁長官より私宛に電話があり、ご要望の趣旨は十分承ったということでした。
 私はここで、政府は何もしなかったというつもりはありません。政府の各省の担当者約二十二名が災害発生の翌日の夕刻、新幹線で東京を出発し青森へ向かいました。年末で飛行機の切符が取れなくて、新幹線で出かけたというわけです。
 しかし、高いレベルで指揮命令できる立場の人が一人いれば、政府には専用機もあります。自衛隊にも運輸省、警察庁、消防庁にも、飛行機でもヘリコプターでもいくらでもあるのです。調査団が課長だから、課長補佐だからダメだというのではなく、的確な判断を早急に必要とする初動の現地調査において、二十二人分の飛行機の切符が確保できなかったので新幹線で行きました、そのために現地到着が夜遅くなったので調査は翌朝からにしました、というのではいかがなものでしょうか。
 暮れの二十九日や三十日に急に呼び出しを受けて、青森まで出かけてくれた担当官のご苦労に文句をつけるつもりはありませんが、我々野党の議員が政府よりも早く現地調査を行い、その日のうちに帰京し、翌日対策をまとめて政府に申し入れを行う時に、まだ政府の調査団は東京に帰っていないという、全てワンポイントずつズレている対応については、非常事態に対する政府の対応がいかにも、のんびりしており、被災地の現場の皆さんの期待感との間に、説明のしようのないほどの大きな隔たりがあることを率直に感じました。
 私はそれでも気がかりで、正月明けの四日に政府と新進党国土・交通政策チームとの間で会議を開くことを申し入れましたが、九日にしてもらいたいとの政府側の要望で、一月九日、新進党の国土・交通政策チームと政府の各省庁の担当者との間で、「三陸はるか沖地震」の復旧復興計画について協議を行いました。
 私はその際、「特に、政府の危機管理が十分機能しているのかどうか不安でならない」ということを改めて強く指摘しておきました。政府は法律や、制度を持ち出して、万全であるかのような説明をくり返すのみで、危機管理の重要性について認識がまるでできていないことを残念に思いました。
 しかし、その中でも会議の終わりの時、二、三の役人が「危機管理の問題は役人からは持ち出せない。政治の側からやってください」と私に述べて帰りました。私が後の国会審議の際、「政府の心ある役人は」と述べているのは、この人たちのことを思い出したからです。
 これは、新進党が結党されて、まだ一カ月にもなっていない日のことでありました。

A中華航空機事故の経験

 先の「三陸はるか沖地震」での新進党申し入れの七項目でも指摘していますが、過去の災害の事例を見ますと、大きな災害は皮肉にも必ずといっていいほど、休日や選挙の最中、内閣の交代期、あるいは総理やハイレベルの責任者が在京していない、つまり司令塔不在の時に発生していることが多いのです。
 例えば自衛艦なだしお事故の当時は竹下内閣でした。この時も総理大臣、防衛庁長官が東京に不在で連絡を取るのにずいぶん手間取りました。北海道南西沖地震は宮沢内閣の時ですが、衆議院が解散され、選挙の真っ最中でした。中筆航空機事故の将は、細川内閣が終わり、羽田内閣が出発するという、丁度狭間で発生しました。
 私は細川内閣の当時、運輸政務次官としてこの中華航空機事故の対応を運輸省で指揮した一人ですが、その際、法律的に内閣総理大臣たる細川首相に連絡を取るとともに、政治的には既に羽田内閣に政権が移っているわけですから、羽田内閣総理大臣候補にも連絡を取った次第です。
 いずれにしても、責任が曖昧な状況の中において中華航空機事故が発生し、これは外国と関係のある問題でもあり、特に慎重を期さなければなりませんでした。この程度の事故の場合、運輸省では対策本部の本部長を航空局長にするのが常のようですが、私は外国との関係もあることから事務次官が対応すべきだと考え、直ちに対策を講じたことを覚えています。夜間でしたが、伊藤茂運輸大臣(当時)がヘリコプターで名古屋に向かわれました。
 大震災の直前に発生した三陸はるか沖地震の際も、十二月二十八日といえば御用納めの後であり、内閣総理大臣や官房長官がおいでにならずとも、せめて他の、例えば国土庁の幹部とか、責任者と思われる人たちが東京にいれば、まだ何らかの対応ができたわけですが、ほとんどの皆さんはもう既に国に帰っていて、その対応にも大変戸惑ったことを覚えています。
 外国での例を挙げますと、丁度阪神・淡路大震災の一年前、アメリカのロサンゼルスのノースリッジ地区において地震が発生しました。奇しくも一月十七日、まさに阪神・淡路大震災の一年前ですが、都市のライフラインのもろさ、電気、ガス、水道が不通になった都市型の災害に対しての教訓を我々に与えてくれました。米国はこの日、故マーティン・ルーサー・キング牧師の誕生日を記念する振替休日であったために交通は通常の半分程度であったということが不幸中の幸いでしたが、交通渋滞という問題に対しても大きな教訓が示されました。しかしながら、今回の大震災においては、残念ながらこれらの教訓が全く生かされておりませんでした。
 いくつかの調査団がロサンゼルスまで出かけましたが、都市型地震がライフラインや交通機関等に与える影響についても「日本ならこんなことにはならない」などと報告しており、まさに一年前のアメリカでの大震災の教訓がほとんど生かされていないというのでは、政府の危機管理に対する日頃の怠慢を指摘されても弁解のしようがありません。しかしこのことは極めて残念なことです。

B関東大震災と先人達

 関束大震災のことは今更説明の必要もありませんが、あの当時、実務官僚の手腕と独得の政治哲学の持主である後藤新平先生(一八三七年〜一九二九年)が、いわゆる大風呂敷といわれた復興構想を内外に明らかにし、これに対して積極的な対応をされたことは余りにも有名です。また物理学者であり、随筆家の寺田寅彦先生(一八七八年〜一九三五年)は大正九年に、「文明が進めば進むほど天然の猛威による災害がその激烈の度を増す」と書かれて、文明が進み、経済的にも発展する度に災害はより大きく、激しくなることに警鐘を鳴らしています。
 関東大震災では、実は私の亡くなった母、菊枝が東京女子医専(東京女子医科大学の前身)の学生時代、丁度卒業の年に、麹町の下宿でこの大震災に遭ったようです。部屋の中の裸電球が天井の左右に何回もたたきつけられるのを見たということ、間もなく火災に襲われ、辺りが焼け野原になってしまったこと等、関東大震災の話をする度に母から聞かされており、子供心にも関東大震災がいかに大きな災害であったかを知ることができました。
 焼け野原になってしまった東京の街をさまよいながら、公園で母の弟の亀麿に出会い、どちらかが持っていた二つのおむすびを一つずつ食べたと、後に兄弟たちに語っていたそうです。和歌山の郷里では、恐らく二人とも死んだかもしれないということで、近所の人も加わって、神社に無事を祈る千度参りを始めている最中に、「キク、カメブジ」という電報が届けられ、小躍りして喜んだということを、当時十二歳だった叔母から最近、聞かされました。
 東京大学の地震研究所の玄関に掲げられている銅板の文章は、寺田寅彦先生が書いたものだそうですが、この「本所」というのは勿論、地震研究所のことです。
 「本所永遠の使命とする所は地震に関する諸現象の研鑚研究と直接又は間接に地震に起因する災害の予防並びに軽減方策の探求とである。この使命こそは本所の門に出入りする者の日夜心肝に命じて忘れるべからざるものである。昭和十年十一月十三日地震研究所」。こう書かれています。
 また、社会運動家の賀川豊彦先生(一八八八年〜一九六〇年)は、あの災害発生は大正十二年九月一日の十一時五十八分でしたが、大震災の発生を知るや当日の午後四時、既に神戸港に浮かぶ山城丸に乗り込んで、救援ボランティア活動のために、同士と共に神戸を出発して東京に向かっています。
 歴史に残る先人の当時の活躍は、ボランティア活動、災害の救援救助に対して、我々に貴重なお手本を既にその当時示してくれているわけです。
 しかし、こうした先人達が残してくれた崇高な教訓が、政府の危機管理や防災対策にほとんど生かされていないという現実には、全く言葉につまる思いであります。

C静岡県における地震対策と山本敬三郎知事の県議会答弁

 東海地震に備え、積極的な地震対策を講ずべきであるとの信念に燃える山本敬三郎知事(昭和四十九年七月より昭和六十一年七月まで在任)は、昭和五十一年六月の県議会等において、地方行政の責任者として極めて示唆に富む発言をされております。
 

山本敬三郎静岡県知事答弁

 「地震対策につきましては、国の地震予知連絡会は、東海地方を観測強化地域に指定いたしましたが、先般、伊豆中東部に異常現象が観測されましたことから、五月二十五日、地震予知研究推進連絡会議におきまして、今後、伊豆中東部の観測をさらに強化することといたしました。しかし、現段階においては、地震発生を正確に予知することはきわめてむずかしい問題とされております。本県は過去の地震歴、地震活動空白地域のあることからして要注意地域であるので、一昨年、地震対策基礎調査を行い、従来の地震対策、災害対策計画を修正して対処することといたしております。
 また、市町村に対しても、地震災害に対処できるよう市町村地域防災計画の整備を強力に指導いたし、万一地震の発生した場合でも、県、市町村、関係機関が一体となって対処できるように措置いたしました。御案内のとおり、五月二十四日、地震予知連絡会において、伊豆中東部の異常現象について検討し、これら異常現象が観測されたことを重視して、直ちに地震活動と結びつけることには問題があるといたしましても、将来地震の発生も考えられるという前提で、情報の迅速な伝達方法、職員の動員、配置計画、関係機関の応援計画等を検討いたしますとともに、関係市町村、防災関係機関に対しまして、以下の事項について整備点検を指示いたしたところであります。一、地震が発生した場合、通信、交通の遮断が予想されるので、情報の伝達・収集手段について検討 二、山・がけ崩れ危険個所の再点検と整備 三、住民の避難場所、避難路の再点検 四、地域自主防災組織の指導育成、避難訓練の実施と住民の心構えに対する指導等、特に、地震発生直後にあっては消防、警察、自衛隊による救援、救護の初動活動を期待することは、諸情勢からして非常に困難と思われますので、地域の隣保互助精神に基づく自主防災組織を育成することによって、被害の軽減を図るよう指導をいたしているところであります。」
 「地震の際の非常の食糧その他の問題についてでございますけれども、これは現在、たとえば応急食糧については百七十四カ所に供託予定先を求めておりますし、給水車はどう、医療はどう、こういうようなやり方をとっておりますけれども、その応急食糧は、ミルク、蔬菜類、副食糧、米穀類等という状況でございますので、こういった点も巨大地震の場合に備えるための対策として、私は県下のスーパーなり、デパートなり、そういったところに、通常のランニング・ストックは幾ら持っているかと、そのうちひとつそういう非常の際、地域住民の要請もあるかもしれないけれども、地震対策地のためになんばか割愛していただきたい、こういうようなことを予約することによって充足するような道を講じたい。
 また、非常な巨大地震で、県下全般ということになりました場合、静岡県でそういう体制ができれば、神奈川県、愛知県にも呼びかけて協力をしていただくということにもいたしたいと思います。また巨大地震の場合、道路交通が全く途絶する、そういう際にどういうふうに備えるかというような問題についても、対策班にひとつ十分検討させてみたいと思います。
パニック、暴動、災害時の群集心理というようなことについての御指摘でございます。こういった点にも、このたびの県議会を通じて、議員さん方の御指摘、御批判、あるいは御注意等も十分伺いまして、対策班でそういったものに備える対策をこれから十分検討してまいりたいと思っております。したがって、予備費に五千万円計上してございますけれども、もし必要あれば議会にお諮りして、さらに増額する場合があっても、事、地震に関してはいいのではないか、こういう考え方を持っている次第であります。」
 「地震対策における職員の動員計画、あるいは備品、医療品その他についての御指摘でございますけれども、巨大地震の場合、当然、通信、交通等が途絶することが考えられるのでありまして、職員の動員計画につきましては、職員が最寄りの県の機関に登庁し、所属長の指示により、情報の収集、救援、救出等の応急対策に従事することになっておりまして、昨年はその予行演習もやったわけであります。各職員一人一人がそういった場合どこへ出るということを徹底させるようにいたしてまいりたいと想います。しかし、職員といえども家族も抱えておりますので、予行演習でやったような完璧は期せられないかもしれませんが、できるだけそういった問題に対処するような訓練をも、今後対策班を通じて検討させてまいりたいと思います。
 また、住民指導につきましも、自主的防災組織の育成を指導してまいってきておりますが、すでに全町的に組織されて活動を開始している市町村もありますけれども、不熱心なといいますか、消極的な市町村もございます。何よりも住民の自衛組織ということが優先いたしますので、こういった点も十分努力を重ねてまいるつもりでございます。」
 「このたびの地震予知連絡会のコメント等によりまして明らかになりましたものは、伊豆の群発地震につきましては微小群発地震活動も次第に静穏化しつつある、隆起の中心付近の地下水の水位、水温、ラドン濃度等にほとんど変化が認められない等の事情から、現在のところ、今後静穏に推移する可能性が大きいと思われるけれども、簡単に結論を下せる段階ではないので、さらに諸観測を継続していくということでありまして、明日あっても不思議ではないという非常にショッキングな表現で、県民に非常な不安と動揺を来たしたわけでありますけれども、それについては、このコメントは鎮静化の方向をとらせるような結果となったわけであります。また、いわゆる東海地震にいたしましても、発生時期を推定できる前兆現象と思われるものは、現在のところ見い出されていないということでございます。したがって県としては、もう、明日というような差し迫った問題ではありませんけれども。次に日本列島に巨大地震があるとすれば、それは東海地方であるということがほとんど大半の研究者、学者の意見でもございますし、それは二、三年後であるかもしれないし、さらには二、三十年後であるかもしれないという点を考えまして、こういった時点においても地震対策は積極的にやっていくべきではないかと、二、三十年後の問題であってもやっておくべきではないかと、基本的にはこのように考えているわけであります。地震対策につきましては、十月一日、消防防災課に地震対策班を設置し、予知資料の収集、国の予知観測に対する協力、地震災害対策の再検討等を目下進めているところであります。」
 今から約二十年前に、すでに、静岡県において、これだけの地震対策を検討され、有事に備えておられることに対し、あらためて敬意を表する次第であります。
 最近は阪神大震災以来、各地方自治体においても「災害に強い県づくり」を目指して、防災訓練等が、ようやく、活発に行われるようになっています。
 倒壊家屋からの負傷者の救助作業、消防機関と自衛隊との連携訓練、ヘリコプターによる空中活動、初動時の避難や消火、津波避難、通信訓練、仮設橋の設置訓練等がまさに真剣味を帯びて各地で、行われております。
 私たちは、国、県、市町村、町内会等あらゆるレベルにおいて常に防災について積極的なチャレンジが重要なことを山本知事の議会答弁が、今も、私たちに語りかけてくれている思いであります。

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