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 二階俊博は昭和十四年二月十七日、和歌山県御坊市新町で生まれた。
 父親の俊太郎は和歌山県の県会議員であった。政治に関して特別な背景があったわけではない。東洋汽船の太平洋航路船の乗務員を皮切りに、筏流し、農蚕業、母校の安居小学校の代用教員、紀伊民報社の記者、活版印刷業と紆余曲折の人生を歩み、二階が生まれる前年の昭和十三年三月に三十九歳で県会議員となった苦労人であった。
 俊太郎は温厚誠実な性格で、争いを好まなかった。人望も厚く、昭和十五年九月、県会議員でありながら、争いの絶えなかった日高郡稲原村村長に請われて就任。昭和十八年四月には広瀬永造知事の推薦で新設の御坊造船社長に就任した。
 俊太郎は多忙を極めた。なにしろ県会議員、稲原村村長、御坊造船社長の三役を兼務することになったのである。
 県会では生涯の仕事と心身を賭けて努力を重ねた、日高川三井堰(若野、野口、六郷)の統合施設を完成させ、日高平野農政史に大いなる功績を残した。
 御坊造船社長業では、戦時の海上輸送力増強の推進に努め、最盛期には従業員六〇〇人を越える大企業に成長させた。
 そのため、二階は物心がついたころから父親といっしょに遊んだ経験がなかった。父親がたまに家にいるときでも、関係者が仕事の打ち合わせにくる。かれらは、食事時でも平気でやってきた。自宅はまるで小さな公民館のようであった。
 外に出かけるといっても、いっしょに電車に乗るくらいである。父親は、そのまま仕事に向かってしまう。他の家庭のように、日曜日に父親に肩車されて遊びにいくことなどなかった。
 あるとき、家族そろって白浜温泉に旅行に出かけることがあった。が、それは御坊造船の社員旅行に参加しただけで、家族旅行といえるものではなかった。
 二階は子供心に思った。
〈政治家というのは、忙しい仕事なんだな〉
 昭和二十一年三月、戦後初の衆議院議員選挙が行なわれた。俊太郎は、周囲から推されて出馬した。和歌山全県区は、定数六であったが、そこに、なんと四八人もの候補者が立候補した。投票の結果、一六位で落選、捲土重来を期することになった。
 ところが、その年の十一月、思いもよらぬことが起こった。GHQ(連合国総司令部)から、公職追放を受けたのである。戦時中、村長職は自動的に大政翼賛会の支部長とされた。稲原村村長を務めていた俊太郎も、その罪を問われたのである。
 俊太郎は、やむなく県会議員、稲原村村長を離任した。公職追放者は、寄り合いの世話役にもなれない。学校のPTAの役員すらできない。まるで、格子なき牢獄であった。
 そのうえ、さらに追い打ちをかけるように木造船の時代が終わりを告げ、御坊造船の業績が低下した。従業員を縮小することになった。
 俊太郎は雌伏のときを過ごすことになった。
 俊太郎は毎朝、朝刊が配達されると同時に起床した。朝刊を開くと、まず追放解除者の欄を確認した。国会議員などの大政治家であれば、追放解除は事前に知らされる。しかし、多くの公職追放組は、新聞によって確認する以外、術はなかった。
 稲原小学校に入学、終戦後御坊小学校に転入した二階は、毎朝、そんな父親の姿を見ながら育った。
 一方、母親の菊枝は、当時としてはめずらしい女医であった。医師である父親のあとを継ぐため、東京女子医学専門学校(現東京女子医科大学)を卒業後、御坊市新町で医院を開業していた。
 そのため、夫と同様、忙しい日々を送っていた。ときには、深夜遅く、「子供が四〇度の熱を出した」と患者の母親が髪を振り乱してやってくる。車などない時代である。菊枝は、暗い夜道を自転車の荷物台や文化車という人力車のようなものに乗せられ、時には歩いて往診に出かけることもあった。それでも嫌な顔ひとつ見せなかった。
 菊枝は、家庭にあっては特に強い主張はしなかった。が、一家の支柱のような存在であった。人望も厚く、夫が公職追放中、その身代わりとして、何度も県議選に出馬するよう勧められた。が、菊枝は、固辞し続けた。早合点した新聞社が、「立候補予定者の写真を撮りにきました」と自宅にやってくることもあった。
 二階は、母親によく言われた。
「一生懸命頑張れば、それなりに世間が認めてくれる。それに見合う生活が自然に与えられる。努力すれば、かならず結果が出る。勉強して、頑張りなさい」
 御坊中学校に進学した二階は、あるとき、外郭団体の主催する弁論大会のメンバーに選ばれた。二階は、差別問題を主題とする島崎藤村の社会小説「破戒」を引用し、人権問題について演説した。
 二階は弁が立った。これは、父親の影響によるものであった。稲原村村長であった父親は、戦争中、戦死した英霊が帰ってくるたびに、慰霊祭の代表として演説を行なった。終戦が近づくと、それこそ毎週のように慰霊祭が行なわれる。二階は毎回欠かさず父親の演説を聞かされた。しかし、終戦のとき、二階はまだ小学校一年生である。話の内容については、よくわからなかった。だが、演説で重要なメリハリを知らず知らずのうちに訓練されていたのである。

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