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 暮れも押し迫った昭和四十六年十二月二十六日、藤山派のメンバーが会合を開いた。
 翌二十七日には、党政調会長、通産相、蔵相を歴任した水田三喜男が、村上派、藤山派を吸収して水田派を結成することになっていた。
 藤山派は、この日の会合でそろって水田派に参加することを申し合わせた。遠藤は、あまり積極的ではなかった。が、最終的には参加を了承した。
 昼間はホテルで会議をし、夜は宴会となった。遠藤は、早々に帰宅することにした。
「寒気もするし、今日は帰る」
 その日、二階は遠藤から電話を受けた。
「今夜、水田派の結成会がある。ぼくは体の具合が思わしくないので、きみが代わりに出てくれないか」
 二階は、困惑した。
〈国会議員が集まって酒を飲む席に、秘書である自分など出席できない。しかし、それにしても、だいぶ具合が悪そうだな〉
 その電話のやりとりが十一年間仕えた遠藤との最後の会話になった。午後七時過ぎ、遠藤は突然、発作に襲われ、そのまま帰らぬひととなった。
 昭和四十七年一月十一日、静岡県沼津市公会堂において、しめやかに葬儀が行なわれた。葬儀委員長は、藤山愛一郎、友人代表の挨拶は、江ア真澄が行なった。
 その数日前、二階は江アに頼まれた。
「きみが自分の思いを書いてくれて結構だから、原稿の下書きをつくってみてくれ。そのうえで、ぼくが直すから‥‥‥‥」
 二階は、いざ弔辞の原稿を書く段階になると、遠藤との思い出が脳裏に蘇り、知らず知らず涙が溢れてきた。
〈先生は、脳血をみごとに克服し、現職の政治家として、その使命をまっとうされた。私も、微力ながら先生のためにベストを尽くした。悔いはないが、寂しい‥‥‥‥〉
 数日後、二階は元旧制浦和高校の教授や地元の裾野市長を務めた遠藤の兄佐市郎のもとに挨拶に出向いた。佐市郎は白内障で、ほとんど眼が見えなくなっていた。
 佐市郎が言った。
「残念なことに、私にはあなたの姿がもう見えません。しかし、あなたの様子は、声を聞いていてわかります。あなたは三郎のために、じつによく尽くしてくれました。大変な苦労をかけたと思います。政治の世界には、いろいろあると思いますが、やはりあなたが三郎の跡を継いでくれるのが一番いいと思ってます」
 佐市郎は、遠藤の後継者として総選挙に出馬しないかというのである。
 二階はきっぱりと断った。
「いえ、私は、そのようなことは夢にも思っておりません。これまで期待もしてこなかった。しかし、私が遠藤先生に十一年間務めたことは、佐市郎さんのその一言で、十分に報われました。郷里には、ぼくの帰りを待ってくれているひとたちがいます。私は、郷里に帰ります」
 二階はこのとき、昭和四十二年の県議選で落選の憂き目にあった父親のあとを継ぎ、県議選に出馬する肚を固めていた。

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