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 翌年に県会議員選挙をひかえた昭和四十九年春、二階は東京での生活に別れを告げた。地元にどっかりと根をおろし、選挙活動に本腰を入れることになった。
 このとき、後援会の中心となってくれたのが日高高校時代の野球部や応援団を中心とした仲間たち、特に力になってくれたのが小学校や中学校の同級生たちであり、さらに父俊太郎の古くからの熱心な支持者たちであった。
 昭和五十年四月、和歌山県議選が行なわれた。満を持して出馬した二階は、ベテランの有力県議とぶつかった。
 選挙は定数一名を争うまさに小選挙区であり、和歌山県政史上に残るような大激戦を演じた。この時、衆議院当選二回の若き日の小沢一郎や、静岡県知事の山本敬三郎、沼津市長の原精一、さらに鹿児島県選出の中馬辰猪代議士、のちの建設大臣や、日本道路公団副総裁を務めた佐藤寛政らの豪華メンバーが応援に駆けつけた。大接戦の結果、二階は初陣を飾った。
 投票率九一、六%、わずか一一〇票の差であった。
 その年、九月の県議会で、二階は日高川上流の椿山多目的ダム建設問題などについて初質問することになった。
 二階は事前に過去の県会議事録を調べてみた。複数の議員が議場でダム問題について質問演説をしている。しかし、一番はじめにダムの必要性を訴えたのは、なんと父親の俊太郎であった。
 二階は不思議な因縁を感じた。
〈奇しくも、父子二代にわたって県政壇上で、まったく同じ問題をとらえて演説するのか〉
 二階は自分の考えをまとめると、椿山ダムの問題について先輩である父親のもとを訪ねた。約一時間ばかり意見を交わした。
 二階の説明に、父親が答えた。
「いきさつや考えは、その通りだ。しかし、あの七・一八水害当時の御坊周辺のひとたちの水害の悲惨な姿をもっと強く訴えて、ダム建設を遅らせてはならないということを当局に迫るべきだ」
「わかりました」
 このとき、二階はこれが父親と語り合った最後の会話になるとは夢にも思わなかった‥‥‥‥。
 十月三日、二階はある式典に出席していた。その最中、自宅から連絡が入った。
「お父さんの様子が、おかしい」
 二階は式典を終えると、急いで駆けつけた。
 父親は布団で寝ていた。
 二階は声をかけた。
「今日は、これから県庁に行くことになっているが、行ってもいいですか」
 父親は、小さいながらも、はっきりした口調で答えた。
「だいじょうぶだ」
 二階は父親の病状を気にかけながら県庁に出向いた。
 その夜、県の当時の財政課長涌井洋治(元大蔵省主計局長)や砂防利水課長の中村堅(故人)ら当局との打ち合わせで遅くなった。二階は和歌山市のホテルに宿泊した。深夜二時、電話のベルで叩き起こされた。先輩県議の笹野勇からの電話であった。
「大橋知事の病状が、急変したぞ」
 二階は直ちに和歌山医大に駆けつけた。先輩や同僚議員と朝まで病院で過ごした。
 だが、大橋知事はその翌朝に亡くなった。二階は大橋知事の遺体を公舎にお見送りし、県庁に戻った。二階ら同志の県議は、知事急逝後の県政について打ち合わせをするため、場所をかえて会合を持つことになった。
 ところが、夕方、父親の容体が急変した。連絡を受けた二階は、急いで自宅に戻った。が、父親の最後には立ち会えなかった。
 二階は県政の父大橋知事と、実の父を同じ日に失うという二重の悲しみと衝撃を受け、このときほど人生の無常を感じたことはなかった。

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