ホーム プロフィール 著書など ニュース ライブラリ 明日のふるさとを考える青年の会

 

 

戻る 上へ 進む

 昭和五十年十月四日、大橋和歌山県知事が死去した。和歌山県議会議員であった二階俊博は、「清新クラブ」の仲間たちと今後の対応について協議した。
 そもそも、「清新クラブ」は、この年四月の県議選で初当選した若手議員十二人と共に結成された。
 和歌山県会は、三期、四期、五期と当選を重ね、経験を積んだ古参議員でないと、役職がまわってこない、意見が通らないという閉塞社会にあった。そのような閉塞社会を打破するために結成したものであった。現在自民党代議士の岸本光造も、名を連ねていた。すでに議長を経験し、今や県政界の重鎮である馬頭哲弥、門三佐博、西本長弘らが中心メンバーであった。
 二階らは、意見を交換した。
「われわれは、大橋知事の死を悲しんでばかりもいられない。知事選に、どう対応すべきだろうか」
「新しい知事を選ぶには、どうしても自民党公認が重要な要素になってくる。放っておくと、自民党県議団の幹部たちが勝手に自分たちの都合のいい知事をつくるぞ」
「そうさせないためにも、われわれは、自民党に入党しようじゃないか」
 協議の末、「清新クラブ」は、この日、自民党に入党した。「清新クラブ」の「清新」をとり、「清新自民党県議団」が結成された。
 当時、和歌山県議会には、自民党、社会党、公明党、民社党、共産党、県民クラブ、そして「清新クラブ」の七会派があった。
 自民党は中央政界では政権党であるにもかかわらず、定数四十六の過半数を占めていなかった。自民党をのぞく六党派の議席数の合計は、過半数を上回っていた。
 自民党は、「清新クラブ」の一二人が加わったため、ようやく過半数を維持することができた。そのため、二階らは一期生でありながら、議長選挙や首長選挙などをはじめ、あらゆることにキャスティングボードを握ることになった。
 二階らはまず政治献金問題について訴えた。
「われわれ清新自民党県議団は、特別な企業や偏った団体から政治資金を集めるのはやめにしましょう。広く多くのひとから支持を受けるべきです」
 その主張が受け入れられ、各選挙区で一万円会費の資金集めパーティーが行なわれることになった。ホスト役となる議員は、それぞれゲストを呼ぶことにした。
 二階は考えた。
〈私の選挙区には、どなたにおいで頂こうか‥‥‥‥〉
 二階はピンとひらめいた。
〈そうだ、小沢一郎先生にお願いしよう〉
 小沢は昭和五十一年十二月、福田内閣発足と共に建設政務次官に就任していた。
 じつは、二階は、小沢とは、小沢が代議士になる前から顔見知りであった。
 昭和四十三年五月八日、小沢の父親の佐重喜が死去した。佐重喜は、二階が秘書として十一年間仕えた遠藤三郎とともに藤山派の重鎮であった。遠藤は佐重喜の地元岩手県で行なわれた葬儀に出席するため、飛行機で岩手県入りした。脳血で倒れ、療養中の身であった遠藤が、その生涯を終えるまでの十年間の間、飛行機に乗ったのは、その一回だけであった。
 数日後、小沢と小沢の母親のみちが議員会館の遠藤の自室にやってきた。佐重喜の葬儀に出席してくれたことへのお礼の挨拶をするためである。しかし、あいにく遠藤は外出中で不在であった。遠藤に代わって、二階が挨拶を受けた。
 小沢は言った。
「先日はお忙しいところ、遠藤先生に父親の葬儀に出席して頂き、誠にありがとうございました」
 二階は眼を丸くした。
〈この方が、ご子息なのか‥‥‥‥。ずいぶんと若いんだな〉
 これまでにも、政治家の不幸に際し、その子息がお礼の挨拶にやって来られることが、しばしばあった。が、子息といっても、良くいえば円熟味を増し、悪くいえば峠を越しているひとがほとんどであった。
 しかし、小沢は極端に若かった。話を聞いてみると、日本大学の大学院に通っている大学院生だという。二階より三歳年下の二十六歳であった。小沢は、それから一年半後の昭和四十四年十二月の総選挙でみごと初当選を果たした。
 二階は、そのとき、江ア真澄に言われた。
「今度、小沢佐重喜さんの息子さんが当選した。きみは、かれを知っていたかな」
 二階は答えた。
「ええ。一度、議員会館のほうにご挨拶に見えられました」
「そうか。小沢君ときみは、歳もそう違わない。なにかのときには、お手伝いをしてあげてくれ」
「はい。わかりました」
 二階は同年代という親しみもあり、小沢と急速に親しくなっていく。
 さて、二階が小沢に連絡をとると、和歌山県議会の清新クラブのパーティーのゲストとして出席してくれるとの承諾を得た。二階はどのような形でパーティーを開くかを思案した。
 二階は県議選出馬の際、「3ラブ・キャンペーン」という公約を掲げていた。「3ラブ」とは、スポーツを愛する「ラブ・スポーツ」、花を愛する「ラブ・フラワー」、そして川を愛する「ラブ・リバー」である。
 その「3ラブ」のなかの「ラブ・リバー」キャンペーンの一環として、安珍清姫で有名な日高川の支流に鯉などの稚魚を放流することにした。安珍清姫とは、僧侶に恋をした女が愛を拒絶されたのを怨み、蛇身となって男を追い、日高川を泳ぎ渡り、道成寺の鐘に巻きついて、その中に隠れていた男をいぶり殺してしまう、すさまじい恋の物語の主人公二人につけられた名前である。
 当日、二階は小沢を稚魚の放流場所に案内した。稚魚は、県の稚魚養殖センターで購入していた。
 放流場所には、すでに数百人の子供たちが詰めかけていた。放流の模様を映そうとテレビ局もやってきた。大変な盛り上がりを見せた。小沢は二階の出身地である御坊市島の善明寺橋の畔に記念植樹をしてくれた。なお、この記念植樹は、現在も大きく成長している。
 昭和五十四年四月、二階は県議選で再選をはたした。この県議選は、対立候補が出馬せず、無投票であった。が、それにもかかわらず、五〇〇〇人の後援者を集めて行なわれた選挙前の決起集会にも、初当選の時と同様に小沢は出席してくれた。
 二階は小沢に感謝した。
〈いつか、小沢さんの友情に報いなければいけない‥‥‥‥〉
 現在、二階は小沢党首の側近、あるいは直近と呼ばれている。二階はそのことについて、
「そういわれることは光栄なことだが、私は、そのことについて否定も肯定もしていない。しかし、小沢さんが実力者になったからといって、急に擦り寄っていくようなことは一度もしたわけではない。信頼関係というのは、ひとつひとつ階段の積み重ねである。私は代議士になる以前から、小沢党首と友情関係があった」

戻る 上へ 進む

検索語   検索ガイド