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 さて、二階は元県会議員であった亡き父親俊太郎の遺志を継ぐべく、日高川上流の椿山多目的ダム建設に尽力した。
 さらに、高速道路の紀南までの延長を提唱した。和歌山県には、阪和自動車道と通じる海南市から湯浅町までの海南湯浅道路だけしか高速道路がなかった。紀南の県民は、不便な生活を送っていた。その海南湯浅道路を御坊までつないで、さらに紀伊半島を一周しようというのである。
 二階は高速道路紀南延長促進議員連盟を結成し、自ら初代の事務局長に就任した。与野党問わず、全県会議員が会員になってくれた。高速道路を開通させるためには、十数年の歳月が必要とされる。二階は紀南延長に精力的に取り組んだ。県民に訴え、粘り強く県議会に、建設省に、国会に働きかけた。
 そのときの建設省における若手技官として二階のよき相談相手となってくれたのが、元日本道路公団総裁の鈴木道雄、現首都高速道路公団理事長の三谷浩、元関西国際空港柾務の本山蓊、元建設次官の藤井治芳、元建設技監の佐藤信彦らであった。
 平成八年三月三十日、その苦労がようやく報われた。二階の地元日高郡や御坊市に湯浅御坊道路が開通した。
 二階は日高港湾の建設も提唱した。御坊市や日高郡は、紀伊水道に面している。それにもかかわらず、港らしい港がなかった。
 二階は考えた。
〈過疎化を防ぎ、地域を発展させるためにも日高港湾を建設しよう〉
 しかし、漁業補償がまとまらないため、なかなか着工できなかっので二階は何度も運輸省の港湾局長に働きかけた。そのおかげで、歴代の港湾局長と顔見知りになった。
 平成十一年十一月五日、立場がかわり、二階は運輸大臣として和歌山県西口知事に対し公有水面埋め立てを認可し、現在、平成十六年完成に向け工事が進められている。
 昭和五十四年十月八日、総選挙が行なわれた。自民党の獲得議席は、前回の二四九議席を割り、二四八議席となった。その後直ちに保守系無所属一〇名の入党が決められ、二五八議席に達し、かろうじて過半数を確保した。
 三木武夫、福田赳夫、中曾根康弘らは、総選挙敗北の責任を求め、大平正芳首相に辞任を迫ったが、田中角栄の後押しを受けている大平首相は、頑として突っぱね、自民党は大混乱に陥った。いわゆる「四十日抗争」である。
 昭和五十三年十一月に行なわれた自民党総裁予備選挙で、現職絶対優勢といわれながら敗れ去った福田は、首相の座への未練が鎌首をもたげ、大平首相と激しくぶつかった。そのあまりの激しさゆえ「福田派が自民党を飛び出すのではないか」という動きがあった。
 このとき、のちに二階の選挙区になる和歌山二区の自民党国会議員は、早川崇、正示啓次郎の二人であり、偶然、二人とも福田派であった。もし、福田派が自民党を離党でもすれば、和歌山県二区は自民党空白区になってしまう。自民党主流派である大平派、田中派は、万が一のことを考え、立候補予定者の準備を始めた。
 二階は個人事務所で自らが協会長を務める御坊市バレーボール協会の打ち合わせをしていた。そこに、江ア真澄から連絡が入った。江アは水田派を経て、昭和五十年に田中派木曜クラブに入会していた。
 江アは唐突に言ってきた。
「こんな状態だから、いつ解散になるかわからない。どうだ、次期総選挙に出馬しないか。角さんとも話をしたし、伊東(正義)官房長官にも話を通してある」
 二階は突然の誘いに、内心驚きを隠せなかった。が、きっぱりと答えた。
「今回は、出るつもりはありません。私は小さな町の県会議員です。まだ、顔も名前も知られておりません」
 二階は、自分にはまだ国政に挑む条件が整っているとは思えなかった。それに、早川、正示とも、それぞれ深いつながりがあり、不意打ちのような形で出馬することは避けたかった。
 しかし、江アは、さらに勧めてきた。
「選挙ともなれば、東京から有力な幹部や閣僚たちをどんどん応援にいかせる。一週間もすれば、県下全域に名前が知れ渡るよ。そんなことを気にしないで、決意しないか」
 しかし、二階は首を縦に振らなかった。
 やがて、何の前触れもなく後援者が続々と集まってきた。
 二階は首をひねった。
〈いったい、なんだろう‥‥‥‥〉
 かれらは、口々に訴えかけてきた。
「解散になるかもしれません。ぜひ、総選挙に出馬してくだざい」
 しかし、二階には出るつもりはなかった。
 きっぱりと断わった。
「いや、今回は出るつもりはありません」
 ところで、この出馬要請の話が、どこから漏れたのであろう。「二階が出馬するらしい」と噂が広まってしまった。
 二階は頭をかかえこんだ。
〈まいったな‥‥‥‥〉
 数日後、二階はわざわざ不出馬宣言を行なった。

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