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 さて、二階は当選早々、竹下に言われた。
「今度、大蔵省の役人と勉強会をつくってみないか」
「といいますと‥‥‥‥」
「おれの経験からいうと、県議出身の国会議員と大蔵官僚が激突することが多い。しかし、この両者が力を合わせれば、ものすごい力になる。各派にちらばっている昭和五十八年初当選組のなかの県議出身者の有志と大蔵官僚とで勉強会をつくり、親交を深めればいい」
 こうして、竹下のはからいで大島理森、額賀福志郎らと勉強会を発足させた。勉強会の名称は、大蔵省の「大」と昭和五十八年初当選組の「八」をとって、「大八会」と命名された。以来、定期的に「大八会」の勉強会は続けられ、二階にとってかけがえのない財産のひとつとなった。今、その時のメンバーが大蔵省の幹部として重要なポストを占めている。
 昭和六十三年七月二日、金丸信を団長とする「日本・トルコ友好親善使節団」、いわゆる「空飛ぶシルクロード」がトルコを訪問することになった。
 この使節団は、「日本・トルコ航空路線開設に関する委員会(渡部恒三委員長)」が主催し、日本トルコ友好議員連盟の後援により計画されたものであった。国会議員三〇人を含む総勢三〇〇人という異例の大使節団となった。
 じつは、全日空の若狭会長の全面的な協力を取りつけ、チャーター便でキャンペーン・ツアーを実現させたのは、「日本・トルコ友好親善使節団」の事務局長の二階であった。
 二階は、昭和六十二年七月、スポーツ文化交流使節団の団長として、アフリカのチュニジア、カメルーン、コードジボワール各国を訪問した。その後、金丸の親書を携えてトルコを訪問した。小松宮殿下訪土百年記念事業として、バレーボールの親善試合、マンドリンコンサート、生け花のデモンストレーションなどを行ない、同時に多くの要人と接してきた。
 二階はトルコと浅からぬ縁で結ばれていた。明治二十三年九月十六日、二階の地元和歌山県西牟婁郡串本町の大島の沖(樫野崎)で、当時のオスマントルコ帝国から派遣され、サルタンの親書と最高勲章を明治天皇に捧呈して帰途についたトルコ軍艦・エルトゥールル号が、台風に遭遇し、沈没した。乗員六五〇名のうち五八一名が死亡するという大事故であった。
 そのとき、串本町の旧大島村の住人が深い人道的立場から助かった六九名の介護にあたった。そのことが、トルコ国民の胸に焼きついていた。串本町には「トルコ軍艦遭難記念碑」が建立され、以来、毎年慰霊祭を行なっている。これが、日本とトルコの友好の原点ともいわれていた。
 そのような関係もあり、二階は、ケマル・オル土日友好議員連盟会長をはじめ、多くの政府および議会の有力者から、強い要望を受けた。
「日本とトルコの航空路開設の促進と共に、第二ボスポラス橋の開通式に合わせて使節団を派遣してください」
 第二ボスポラス橋とは、アジアとヨーロッパを結ぶ二つ目の橋で、日本の企業共同体が中心になって建設されたものであった。
 二階はトルコ側の要望に応えるため、関係者に呼びかけ、日本・トルコ航空路開設に関する委員会(渡部恒三委員長)を結成し、自ら事務局長として活動してきた。
 七月三日に行なわれた第二ボスポラス橋の式典には、オザール首相ほかトルコ政府要人、外国高官ら多数が出席し、日本政府代表として越智伊平建設大臣、三谷建設省道路局長(現首都高速道路公団理事長)らが出席した。
 七月四日には、両国の宿願となっていた日本・トルコ航空路開設について、「来年の六月頃から、週二便、トルコ航空が成田へ乗り入れる」ことで合意し、さらに日本側も定期便開設の準備を行なうことに最大限の努力を約束した。
 二階は多くのトルコの人々に接し、温かい歓迎を受けながら、しみじみと思った。
〈中東平和に重要な役割を担うトルコとの友好の輪を広げることは、日本にとって重要な外交課題となっている。その意味で、民間の人々が多数参加した今回の使節団訪問の役割は大きい〉

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