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 平成四年八月二十二日、この日、政界を揺るがすにたる一つのスクープ記事が報道された。朝日新聞朝刊の一面に「東京佐川急便の渡辺元社長『金丸氏側に五億円』と供述」と大きな見出しが踊ったのである。
 八月二十七日午後三時四十分過ぎ、竹下派経世会の金丸信会長は、佐藤守良事務総長と共に自民党本部四階に設けられた記者会見場に姿を現し、その事実を認めた。
 その後、金丸は、港区元赤坂にある自宅に閉じ籠もってしまった。閥務は、会長代行の小沢一郎が取り仕切ることになった。
 しかし、この日を境に激しい派内抗争が勃発した。小沢を支持するグループと小沢の対応に猛烈に反発する反小沢グループに真っ二つに割れた。政界の首領として君臨した金丸も、十月十四日、政界を引退した。
 経世会は、さかのぼること六年前の昭和六十二年七月に旗揚げした。所属議員は、会長の竹下登を総理大臣にしよう、竹下政権を樹立しようと燃えていた。竹下自身も、総理大臣になることを目指し、先頭に立って頑張ってきた。そこに大きな求心力が働いた。
 昭和六十二年十一月六日、竹下は、念願の総理大臣に就任した。が、就任からわずか一年七か月、リクルート事件の責任を取り、退陣に追い込まれた。
 党内最大派閥である経世会は、その後、宇野政権、海部政権、宮沢政権と、時の政権に多大な影響力をおよぼした。が、総理大臣候補を擁立している集団でなければ、やはり経世会とて求心力は失われていく。そのような状況のなかで、金丸が引退……経世会は、一挙に分裂していった。
 十月二十一日――この日は、金丸の議員辞職が正式に決定する日であり、経世会の後継会長が選出されるタイムリミットの日でもあった。小沢グループは、羽田孜を会長の座に推した。いっぽうの反小沢グループは、小渕恵三を推していた。
 小沢は正式に羽田擁立を決めるため、いわゆる小沢系の議員を午前八時に招集した。場所は、千代田区紀尾井町のホテルニューオータニ「桂の間」であった。
 午前七時半過ぎ、二階は「桂の間」に入った。すでに、「桂の間」は、異様な雰囲気に包まれていた。反小沢グループの多数派工作にもかかわらず、経世会の全衆議院議員六十七名のうち、代理出席を含め三五人が集まった。
 二階は小沢を支持することに何の迷いもなかった。
〈小沢さんは、国際社会のなかにおける日本の果たすべき役割を考え、政治家が国民に対して何をなさなければならないのかという主張など、しっかりした哲学と政策的基盤をもっている。あるいは政治的な手法においても、優れた政治家である。私は、小沢さんの主張する政治改革の道をいっしょに歩んでいこう〉
 小沢が挨拶に立った。まず、金丸の献金問題に触れた。そして、羽田を会長に推す理由を説明し、最後に言った。
「私は、同志の羽田孜さんを新会長に推挙いたします」
 集まった同志から、いっせいに拍手が沸き起こった。
 やがて、羽田が「桂の間」に姿をあらわした。羽田は会長職を引き受ける決意を述べた。
 しかし、十月二十九日、反小沢グループの推す小渕が、経世会の第三代会長に就任した。
 小沢グループも新政策集団「改革フォーラム21」の旗揚げを発表した。経世会は事実上、分裂した。「改革フォーラム21」は、のちに自民党を離党し、新生党を結成することになるが、若手議員のほとんどは、このとき、そこまで発展していくことになるとは思ってもいなかった……。
 平成五年六月十七日午前、社会、公明、民社三党の党首が、この国会での選挙制度改革法案の成立を断念した宮沢総理に対し、内閣不信任決議案を提出し、衆議院の解散を求めた。
 翌六月十八日午後八時過ぎ、宮沢内閣不信任決議案の採決が行なわれた。「改革フォーラム21」のメンバーの衆議院議員三十四人が賛成にまわり、内閣不信任決議案は可決した。宮沢首相は、衆議院を解散。七月四日公示、七月十八日投票の総選挙に突入した。
 自民党を離党した「改革フォーラム21」のメンバー衆・参合わせて四四人は、六月二十三日に新生党を結成。党首には羽田孜、代表幹事には小沢一郎が就任した。
 二階は、同志の議員たちと話し合い、熱っぽく、訴えかけた。
「みんな、必ず当選して国会に帰ってこよう。思い切り戦って、死んでもいいくらいの気概があれば、なんとかなる。『身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ』の心境で、頑張ろうじゃないか」
 解散後、二階はしばらく東京にいた。新生党から出馬したいという新人候補の相談を受けていたためである。が、知り合いの議員と顔を合わすたびに言われた。
「二階さんまだ東京にいるの?」
 じつは、これまで二階の選挙区・和歌山二区は定数三で、あった。しかも、自民党独占区であった。が、定数が是正され、三から二に減っていた。保守同士の厳しい戦いが予想され、そのことを心配してくれたのである。
 二階はふと思った。
〈皆さんが心配してくれているように、私は東京にいてはいけないんだな〉
 二階は新人候補の相談事を小沢代表幹事にお願いし、羽田空港から南紀白浜空港に向かった。
 南紀白浜空港には、一四、五人の支援者が出迎えていた。二階は眉をひそめた。
〈あーぁ、怒られるのか……。『なんで、自民党を飛び出したんだ!』と責められるんじゃないかな〉
 二階は支援者たちに取り囲まれた。一人の支援者が、二階のもとに歩み寄り、肩をポンと叩いた。
「二階さん、われわれは、どこまでも、あなたについていくよ……」
 二階はうつむきかげんであった顔をぱっと上げた。支援者たちの顔を見回すと、かれらはみな同調するように、うなずきながら笑みを浮かべている。二階は思いもよらぬ温かい出迎えに目頭が熱くなった。
〈われわれの政治改革に取り組む姿勢が認められたんだ。ありがたい、ほんとうにありがたいことだ……〉
 七月四日、総選挙が公示された。
 二階は選挙事務所での出陣式を終え、さっそく街頭に飛び出した。有権者に懸命に訴えかけた。
「いま、日本には、改革の風が吹いています。この紀伊半島からも、ぜひ改革の狼煙をあげさせて頂きたい。羽田先生、小沢先生を中心に、われわれ新生党は、この国の政治を変えるという気概で立ち上がった。いま国会議員として当選させて頂いて、東京に帰れなければ、いっしょに立ち上がった同志に対して申しわけない。私は過去三回、皆さんに当選させて頂きました。しかし、なんとしても、この戦だけは勝たせて頂きたい」
 反応は上々であった。今回、はからずも自民党を飛び出たことに対して、だれひとりからも中傷や非難めいた言葉を浴びせられなかった。後援会もひどく燃えてくれた。
 二階はうれしくなった。
〈われわれの非自民の政権をつくるということを歓迎し、理解してくれている〉
 選挙中盤には、党首の羽田孜、渡部恒三、奥田敬和、愛知和男ら幹部が応援に駆けつけてくれた。かれらの話では、全国を回っていると現職議員はもちろんのこと、新人候補も善戦しているという。それだけではない。日本新党の候補者が台風の目となり、自民党が苦戦しているという。
 二階は意を強くした。
〈自民党の議席は必ず減る。過半数は取れない。非自民連立政権も夢ではない〉
 七月十八日、投票が行なわれた。
 二階はなんと一〇万四六〇〇票を獲得し、堂々のトップ当選をはたした。前回平成二年二月の総選挙での獲得した票のほぼ倍の数字であった。しかも、一〇万票を越えたのは和歌山二区における戦前、戦後を通じてのレコードである。
 ちなみに、和歌山一区の新生党現職候補の中西啓介も九万二二七〇票を獲得し、トップ当選をはたした。二人の獲得票を合わせると、羽田の地元長野県、さらに小沢の地元岩手県よりも新生党の支持率が高く、全国一であった。
 二階はこのときの感激をいまでも忘れていない。
「このとき、和歌山県民は、われわれの改革の精神をもっとも理解してくれたと思っている。その感激、感動は、いまでも思い起こすと心にズシンとひびく。いま、時移って、新生党は解党し、新進党を経て自由党として頑張っている。いかなる苦労があっても、泥まみれになっても、そのときに改革の道を支持してくれた人たちのことを思えば、安易な道を選ぶのではなく、あえて苦難の道を選ぶ。やはり、どんなことをしてでも国民や県民の皆さんの期待に応えないといけない」
 総選挙の結果は、自民党二二三、社会党七〇、新生党五五、公明党五一、日本新党三五、共産党一五、さきがけ一三、社民連四、無所属三〇であった。

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