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 七月二十二日夕方、二階は千代田区紀尾井町の戸田紀尾井町ビル内にある新生党本部に向かった。ビルの入口でばったり小沢代表幹事とすれちがった。小沢はどこかに出かける様子であった。
 小沢から声をかけられた。
「これから細川さんに会ってくる」
 二階は答えた。
「そうですか。いってらっしゃい」
 二階は小沢の後ろ姿を見送りながら思った。
〈小沢さんは、細川さんに、総理の座を要請するつもりだな……〉
 自民党が過半数を割ったため、政界は自民連立政権か非自民連立政権かで混沌としていた。そのキャスティングボートを握っていたのは、自民か非自民かで曖昧な態度をとっていた日本新党であった。小沢は日本新党代表の細川護煕を口説き落とし、なんとか非自民側に引き込もうとしていた。
 二階はこのとき、細川は間違いなく総理の座を引き受けると確信していた。
〈細川さんは、日本新党の代表として強烈な風を巻き起こし、たったひとりでたちあげた日本新党の議員を三五人も誕生させた。行政改革や規制緩和を断行しようと意欲にみちあふれ、気力も充実しているはずだ。普通の常識では、衆議院議員一年生が総理になるのは、なかなか容易でない。しかし、今日、政治は大きな変革を遂げている。細川さんが登場するバックグランドがあり、ステージも整っている〉
 果たして、細川は、小沢の要請を受け入れた。平成五年八月九日、非自民七党一会派による細川内閣が成立した。三十八年ぶりの非自民連立政権の誕生に国民は沸き返った。支持率は、なんと七〇%を超えた。
 しかし、細川政権は長くは続かなかった。細川総理は、自民党から執拗に、いわゆる佐川急便スキャンダルを追及され、耐えきれずに就任からわずか八か月の平成六年四月八日、退陣を表明した。
 代わって四月二十五日、今度は、新生党党首の羽田孜を首班とする非自民連立政権が誕生した。が、統一会派「改新」騒動で、社会党が政権を離脱。羽田政権は、少数与党となってしまった。
 社会党が政権を離脱した理由のひとつに、小沢一郎新生党代表幹事、市川雄一公明党書記長の、いわゆる一・一ラインの強権的な発言、政治手法に耐えきれなくなったのだと世評されている。
 しかし、二階はそれは大きな誤りだと思っている。なぜなら、羽田政権の誕生以前から、すでに社会党と自民党は裏でつながっていたのである。両党は、とりあえず非自民連立政権であっても、自民党と社会党中心の政権をつくろうという綿密な準備を進めていたのだ。
 それが証拠に、羽田内閣が総辞職すると社会党の村山富市委員長を首班とする自社さきがけ連立政権が誕生した。社会党は総選挙で非自民連立政権をつくることを公約に掲げて戦った。これまで自民党の政策に真っ向から反対し、日米安保反対、日の丸反対、自衛隊違憲を唱えてきた。その社会党が、選挙の洗礼を経ずして選挙民の了解を得ることなく、自民党と連立政権を組むことなど考えられない。
 この形の変わった組み合せの政権を正当化し、批判をカモフラージュするために一・一ラインに対する反発を巧みに利用して、非自民連立政権を離脱したのである。
 二階は思っている。
〈自社さきがけ連立政権は、社会党の村山委員長と自民党の梶山静六(元官房長官)が中心となって誕生した。村山さんと梶山さんは、かつて国対委員長同士として仲がいい。それに、この政権は、自民党が政権に戻れるなら、たとえ共産党とも悪魔とも手を組むことを辞さないという気迫、執念で政権返り咲きを狙っていたグループの手練手管の結晶だ。そんなことは、心ある国民が決して認めているわけがない。
 われわれ新進党が、いま、また社会党やさきがけとくっついても、党内でしょっちゅうゴタゴタが起こるだろう。小沢が右足を上げれば左足を上げたほうがいいだの、小沢が右にいこうと思えば、左にいったほうがいいだの、いろいろなかけ声が後ろからかかる。それでは、とても国際社会において信頼や尊敬を得られる外交や政治にはならない。やがて新進党も総選挙の洗礼を受けるが、この姿がいいのかどうか、国民に認知されるかどうか、その結果でおのずから明らかになるだろう〉

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