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 平成九年十二月二十七日、新進党の解党が決まった。十二月二十九日には、六つの政党に分かれることになった。
 二階俊博は小沢一郎率いる自由党に参画した。二階は、新進党の解党が残念でならなかった。 〈新進党の結党が、少し早すぎたのかもしれない……〉
 二階は、平成五年六月二十二日、同志四四人と共に自民党を離党し、翌二十三日、新生党を結党した。総選挙で二階らは、選挙区の人々に演説会で意気込みを訴えた。 「われわれは、政治改革を実現したいという志をもって自民党を飛び出した。決して野党に成り下がるつもりはない」  七月の総選挙の結果、自民党は過半数を割り、非自民、非共産の八党派による細川連立政権が誕生した。自民党離党後わずか一か月後で与党となったのである。
 しかし、非自民連立政権は長くは続かなかった。一年後の六月、自民党、社会党、さきがけ三党による村山連立政権が誕生した。
 二階は反省した。 〈もう少し鍛練をし、政策を練りに練って、坂道を這い上がるような、壁に爪を立てて登っていくような努力が必要だったのかもしれない〉
 平成六年九月十一日、参議院愛知選挙区の再選挙が行なわれることになった。旧連立は、都築譲を当選させるため、渾然一体となってエネルギーを集中させた。
 演説会には、なんと六〇人もの国会議員が集結した。まるで壇上はオーケストラのような光景であった。
 投・開票の結果、みごと都築は当選を果たした。そのエネルギーが、新党結成の気運を一層高めた。その年の暮れには、小さく分かれていた八党派がひとつに集まり新党を結成することになった。結党にあたっては、各党の代表者が集まり、延べ三〇〇時間に亘って協議を重ねた。  事務局を担当していた二階は、座長を務めていた小沢一郎と、ときたまトイレでぱったり会った。小沢は、連日、朝から夕方の六時までのぶっ続けの議論を忍耐強く、耳を傾けていた。
 二階は声をかけた。 「国会議員というのは議論が好きなんですね」
 小沢は苦笑した。 「朝からぶっ続けだからね」
 二階はその姿が印象的であった。
 議論を練り上げ、十二月十日、ようやく新進党を結党した。
 多くの国会議員は、こう期待したに違いない。 「今度も、簡単に政権が取れるだろう。小沢さんが采配をふるえば、選挙を勝たせてくれる。小沢神話によって当選させてくれるのではないか」  しかし、二階らはそう簡単に政権を取れるとは考えていなかった。 〈新進党は茨の道を歩んでいく。小沢さんと一緒に、敢えて選んだ苦難の道を共にしよう〉
 平成七年七月、参院選が行なわれた。
 新進党は、改選議席を倍増し、比例区では自民党の得票数を上回った。
 が、その後、小沢代表幹事の党運営について不満の声があがった。マスコミに不協和音が報じられるようになった。
 二階は、評論家の会合で説明した。 「新進党結党前は、八党派もあった。各党派には、八人の党首、八人の幹事長、八人の政調会長がいた。学校に例えるなら、かれらはみな小学校の野球チームのレギュラーだった。しかし、中学校に進むとさまざまな地域の生徒が野球部に入部する。当然、レギュラー争いが熾烈になる。ことによっては小学校時代にエースで四番だった選手も、補欠になってしまう。二〇〇人を越す国会議員のいる新進党は、まさにそんな状態だ。しかし、レギュラーになったからといって、威張ってはいけない。みんなが少しづつ譲り合い、辛抱をすることも大切だ」  二階は、政界を去った大先輩からも言われていた。 「いまは、我慢の時だ。新進党は、辛抱がたりないぞ」
 平成八年十月、総選挙が行なわれた。新進党は、一五六議席と伸び悩んだ。新進党の将来に不安を抱いたのか、離党者が相次いだ。小沢党首への不満は、高まる一方であった。
 そして平成九年十二月、ついに解党という結末を迎えたのである。
 二階は思った。 〈振り返ってみると、そういう辛抱や訓練が足りなかった。エネルギーを結集できなかったことが残念でならない〉

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