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  平成十一年三月十二日、新しい日米防衛協力のための指針、いわゆるガイドライン法案の審議が衆議院本会議で始まった。
 三月十八日には、衆議院ガイドライン特別委員会が開かれ、本格的な論戦がスタートした。だが、自由党は「周辺事態」の定義の明確化にこだわり、自民党との協議は難航した。小沢党首は、連立離脱も辞さずという強硬な姿勢を見せていた。
 自由党の二階俊博国対委員長は、思った。
〈自自連立の際には、三つの重要課題があった。一つは、政府委員制度の廃止、閣僚の削減、公務員の二五%削減、国会議員の五〇名定員を減員などの政治行政改革。二つは、国の安全保障問題。三つは、経済の回復についての提言。他党からは、「情報公開法について議論が行なわれないのはけしからん」という批判も浴びた。が、この短期間に隅から隅まで議論ができないのは当然のこと。現在置かれている日本の危機的状況、いわば日本有事の状況を打開するための政策は、その三点に絞られる。
 安全保障問題については、自自連立を構築する中で意見交換を精力的にやってきた。小沢党首は、小渕首相や野中官房長官と再三にわたって話し合い、ある程度の意見の一致、合意を見い出し、最終的に自自連立に踏み切った。従って、ガイドラインの問題で決裂するということは、自民党政権を支えていくという重要な根拠を失う。そうなれば、いわずもがな連立の解消に進んでいく。が、そこまでいくということは小渕政権にとっても大変なことだ。同じように自由党にとっても重大な局面を迎えることになる。しかし、たとえその重要な局面であろうとも自由党は政策を中心にまとまっている政党だ。初志貫徹ということならば、自由党は全員一丸で突っ込んでいくことになるだろう。だが、そうなれば、自民党のため、あるいは自由党のためというのではなく、この国のためにいいことではない。国民が期待していることでもない。徹底的に話し合えば、合意点は見い出せる。また、見い出す努力をしなければいけない。それぞれの主張を徹底的にぶつけるということは当然だが、同時に自自連立を守り、大きく拡大していく。そのために、われわれはなにをなさなければいけないのか。これは二つの相反する道ではない。同じ方向だ。必ず一致点が出てくる〉
 しかし政府・自民党は、自由党ではなく公明党との協議を重視しはじめた。
 さらに、衆議院ガイドライン特別委員会の山崎拓委員長は、「安全保障問題は幅広い国民的基盤が大切だ」として、公明党だけでなく、民主党の賛成を取りつけて自自公民の枠組みでの法成立を目指していた。YKKの一人である山崎は、加藤らと自自連立には消極的な立場をとっている。
 二階は苛立った。
〈自自公民では政治にならない。民主党がまとまってガイドライン関連法案に賛成してくれるというのは、一年、二年待っても無理な話だ。山崎さんの動きは、自由党外しじゃないか。古賀誠(自民党国対委員長)さんに、文句をつけてやろう〉
 二階は自自両党の衆参国対委員長会談の席で古賀に迫った。この会談は毎週月曜日の午後三時から定期的に開かれている。
「"自公""自公"という言葉がさかんに報道で踊っておるが、これは、まことにおかしいではないか。自自でまとまったものを、公と折衝するならわかる。しかし、自自でまとまったものを、自公の協議で引っ繰り返し、相反する取決めをするのなら、自自連立の解消が先じゃないか」
 古賀は素直に頭を下げた。
「まったくその通りだ。申し訳ない。さっそく、執行部およびそのことを推進している筋に、自由党から厳重抗議があった、ということを伝えておく」
 それでも山崎委員長は、自自公民による合意づくりを進めた。四月二十五日午後、森幹事長に電話で伝えた。
「自自で突っ走れば、採決をしない」
 山崎は、委員長辞任をちらつかせながら民主党の折衝に執念を見せた。
 一方、池田行彦政調会長は、自由党との連立維持を最優先させた。
 この日午前十一時三十分から自自の国対委員長会談が開かれた。
 午後零時には、自公の国対委員長会談。
 午後一時、自自・公の国対委員長会談。
 午後二時、二回目の自自・公の国対委員長会談。これらの会談は、院内の公明党役員室で行なわれた。
 二階が顔を出すと、すでに自民党の古賀国対委員長、公明党の冬柴鉄三幹事長が顔をそろえていた。
 一方、ホテルニューオータニでは自民党の池田政調会長、自由党の藤井幹事長が会談を行なっていた。それに古賀国対委員長と二階国対委員長が加わった。さらに、その席に、公明党の冬柴幹事長と草川昭三国対委員長が加わった。
 その会談で、『船舶検査活動に関する条項は削除し、今国会中にも別途、立法措置をとることとし、直ちに、自民、自由及び公明・改革の三会派間で、これについての協議を開始する』という覚書がまとまった。
 このときすでに自自公の合意がなされていたのだ。
 午後八時、ホテルニューオータニで自由党の小沢党首、藤井幹事長、二階国対委員長の三人が自自公の合意について話し合った。
 午後八時半、小沢党首はオーケーを出した。
 午後八時四十五分、自自・公の幹事長・政調会長会談が開かれた。二階は、藤井幹事長に言われた。
「国対委員長も来て下さい」
 二階は古賀、草川と共に出席した。
 この会談で、自民党の森幹事長、自由党の藤井幹事長、公明党の冬柴幹事長は、覚書にサインを書き入れた。ガイドライン関連法案が、ついにまとまった瞬間である。
 四月二十六日午後、衆議院ガイドライン特別委員会が開かれた。自民、自由、公明三党は、「原則事前、緊急時事後」の国会承認規定や周辺事態の定義に「そのまま放置すれば、わが国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等」という例示を加えた周辺事態法案の共同修正案を提出。三党の賛成多数で可決された。
 翌二十七日午後、衆議院本会議が開かれた。ガイドライン関連法案は、自民、自由、公明三党などの賛成多数で可決。参議院に送られた。
 二階は胸をなでおろした。
〈ガイドライン関連法案は、これまで三国会で棚ざらしにされた。ようやく今国会で本格的に審議し、成立させることができる〉
自自公「三兄弟」の活躍
平成十一年六月四日早朝、自由党の二階俊博国対委員長は、いつものように朝刊各紙に眼を通していた。
 二階は朝日新聞の政治面をめくった。そこには、「自由党『自公』の海に沈むか」との大見出しが踊っている。自由党の存在感が薄れ、与党に埋没しかかっている、という内容の記事であった。ここ数日、他紙にも同じような記事が掲載されている。
 しかも、自自両党の詰めが終わっていないのにもかかわらず、自公の合意により住民基本台帳法改正案は成立する、との記事も掲載されていた。
 住民基本台帳法改正案とは、すべての国民にコード番号をつけ、住所や氏名などの情報を全国の市区町村を結ぶコンピューター網に入力して一元的に管理するものである。
 二階は憤った。
〈これは、おかしい〉
 この日午前、自由党の国対会議が行なわれた。出席者から、それらの問題に対して指摘された。
 二階はその場から直ちに自民党の古賀誠国対委員長に抗議の電話を入れた。
「住民基本台帳法改正案の合意の経過に異議があります。自自公で一致したから、というなら話はわかる。しかし、自民党と公明党で一致したからといって、しゃあしゃあとやるのなら、どうぞこれからすべてその調子でおやりください。そのかわり、近く自由党の党大会が行なわれますが、その前に連立を解消します」
 二階はこれまで一度も「連立解消」などと言ったことがなかった。その二階が「連立解消」を口にしたのである。小沢一郎党首や藤井裕久幹事長と相談したわけではない。あくまでも、二階個人の決意を伝えたのであった。
 それからまもなく、古賀は大島理森国対委員長代理を連れて院内の第十六控室、つまり自由党の国対委員長室にやってきた。
 二階は新聞のコピーに赤いボールペンで線を引っ張り、厳しい口調で言った。
「赤線を引いた部分を読んでください。国民の眼にはこういうふうに映っている。いくらあなたがたの説明を受けても、北海道から沖縄までの国民にどうしてこのことを説明できるんですか。みんな自民党と公明党の意見が一致すれば、なんでも通ると思っている。公明党が何かを主張する。自民党がオーケーすれば法律はすべて成立する。こんなことがあっていいんですか」
 住民基本台帳法改正案は、各党の政調・政審レベルで進められてきた。古賀にしてみれば、自分の眼が届かないところであったのかもしれない。あるいは、自由党の野田毅自治相が担当している法案であり、いわずもがな一致すると理解していたのかもしれない。しかし、古賀は謙虚に答えた。
「まったくその通りだ」
 古賀は直ちに自民党の関係者を招集し、自自で協議を行なうよう要請した。同時に古賀は、付則の文章に新たに「速やかに」を加えることを二階に提案した。二階は、直ちにこれを受け入れた。
 自自両党の地方行政委員会理事は、自公両党の修正協議で合意した付則修正をめぐって与党としての対応を協議した。古賀委員長提案が了承された。そのほかについては、そのまま自公合意を受け入れることを決めた。
 午後四時から自自公の幹事長会談が開かれた。その席で、公明党が改正案賛成の条件としていた包括的な個人情報保護法(仮称)の制定に向けて、今国会会期中に三党で検討会を設け、三年以内に法制化をはかることで合意した。
 二階は思った。
〈住民基本台帳法改正案は、野田毅自治相が提出している法案だ。わが党としても、大変大きな責任を担っている。しかし、なんでもかんでも自公で決まるわけではない。これから自自公連立に進んでいくことを念頭に入れながら、そんなことではいっしょにやれないぞ、というシグナルを送ることができた〉
 なお、改正住民基本台帳法は八月十二日に成立する。
 一方、政府・与党は、日の丸と君が代の法制化にも取り組んだ。
 毎月一回、政府・与党連絡会議が開かれており、政府側から、官房長官、官房副長官、与党側からは自自の幹事長、衆参の国対委員長が出席している。
 野中官房長官が提案した。
「日の丸、君が代の法制化について、閣法で提案させて頂きたい」
 自自両党とも賛成した。
 が、のちに消極的な対応になった。
「法案を出したはいいけども、通らなかった場合はどうするか」
「審議が停滞して前に進まないで、継続審議となっているという姿になってもいいのか」
「それならば提案しないほうがいいじゃないか」
 二階は自自国対の席で古賀に訴えた。
「これはすでに政府も与党両党も決意を内外に表明している。一日も早く国会に提出して審議をすべきだ」
 その様子はNHKのニュースにも取り上げられた。
 二階の主張により、日の丸・君が代の法制化が現実味を帯びてきた。
 二階は思った。
〈公明党も、当初は元気よく賛成の反応があった。だが、支援団体や支持者の意見を聞き、慎重にならざるをえないという雰囲気になった。しかし、この問題は国民にもわかりやすい。国民レベルで定着している国旗、国家の問題に反対するということは、有権者も、『日の丸にも、君が代にも反対した人だ』と投票行為に影響するのではないか。この問題は、各党とも党議拘束など外し、一人ひとりの国会議員の見識に問うべきだと思う〉
 自由党は、率先して国歌、国旗の制定を主張していた。
 二階は思った。
〈象徴天皇と憲法にも規定されている。皇室の方々が各地方へ行幸されると、国民はだれに強制されたわけでもないのに自然に日の丸の旗を手に歓迎している。その様子を見れば、まさに国民のなかに定着していると見るべきだ。卒業式や入学式で国旗を上げる、君が代を歌うということが職員会議で何時間も議論しないといけないという現場が全国にたくさんある。だからこそ日教組は反対することを明らかに表明した。われわれもときどき地方に出かける。君が代を歌う場合もあるが、小学生や中学生はほとんど歌えない。子供は歌を知っていたら歌う。つまり学校で教えてないということだ。国歌、国旗を法で制定する必要はないという主張は、現実の世界では通らない。やはり国歌、国旗をきちんと法律で制定しなければいけない〉
 この問題は、日本の国の在り方を考え直すいいチャンスだと思った。
〈憲法問題も、大いに国民の間で議論すればいい。平和憲法だから後生大事に守り続けないといけないと言っているだけでは、憲法論議にならない。日本国憲法はどういう経緯で誕生したか、日本がどんな状態におかれているときにできたかということを振り返って検証してみる必要がある。われわれの世代がこのことに関してきちんとした将来の展望を示しておくことが大事だ。憲法を明日改正する、明後日改正すると、そこまで急がなくてもいい。が、ここで国の在り方について、すべての国民が議論しあえる土壌というものをつくっていく〉
 国旗・国歌法案は、八月九日に成立する。
 自自連立政権は公明党の協力を得て、次々に法案を成立させていった。マスコミは、自自公三党の国対委員長を"談合三兄弟"と皮肉っていた。
 二階は思った。
〈某新聞には、大ヒットした『だんご3兄弟』にひっかけて、マンガつきで『談合三兄弟』と紹介された。しかし、われわれもこの国のためにお役にたつならば大いに汗を流して頑張ろうと考えている。『談合』と言われようとも、なんと言われようとも、そんなことは意に介さない。大いにやろうと、ときどき意見交換をしているが、相手の立場もあることだし、法案に賛成するのか、反対するのかというきわどい話はお互いにしない。だが、長い付き合いだけに、話をして顔色を見ていればわかる〉
 公明党は、自自連立政権がスタートして以来、政治を安定させるために自自政権に協力を惜しまなかった。
 三月十七日には、戦後史上最速のスピードで予算案を成立させた。これは、とてつもないことであった。
 渡部恒三(現衆議院副議長)は、よく言っていた。
「竹下登さんが総理になったとき、『おまえ国対委員長をやれ。そのかわり予算を年度内にあげろ。年度内にあげたら、ここにある平山郁夫さんの絵をご褒美としてあげる』と言われた。平山さんの絵は、時価一億円はするといわれている。その言葉に発奮し、しゃかりきになってやったが、年度内に成立させることはできなかった」
 予算案を年度内に成立させるのは、それほど難しいことなのである。
 さらに、自自公路線は、ガイドライン、通信傍受法案、国旗・国家法案、改正住民基本台帳法など、次々と重要法案を成立させていった。
 その間、公明党の草川昭三国対委員長は、古賀、二階の両国対委員長とひんぱんに会っては国会の運営についてとことん話し合った。
 古賀は、考え方にブレがなかった。肚も座っている。党内で反発を受けても、足元がふらつくこともなかった。
 草川は、古賀に大きな信頼を寄せた。
〈古賀さんは、平気で泥をかぶることができる。公家集団といわれる宏池会の議員にしては、めずらしいタイプだ。感覚も鋭いし、先を見通す力もある。与野党を通じて信頼されている。いうなれば、明治維新の立役者の一人である岩倉具視だな〉   
 岩倉は、幕末・明治時代前期の政治家で旧公家では三条実美とともに明治政府の中心人物であった。
 草川は、古賀、二階のいわゆる「だんご3兄弟」について言う。
「われわれは、俗にいう五五年体制のような関係ではない。本当に裸と裸でぶつかりあっている。仮に、五五年体制のようなことをしていれば、どこかでばれて足元をみられる。
 国対委員長は、自自公路線の窓口だ。それだけに、信頼関係が必要だ。表では仲良く見せて、裏で悪口を言いあっていたら潰れてしまう。しかし、三人には、まったくそういうことがなかった。包み隠さず、素直にいろいろなことを言いあった。それゆえ、マスコミが三人の関係を揺るがすような中傷を報じても、だれも動じなかった。いちいち確かめるという気もなかった。不思議な関係だったと思う」
 草川は、二階との信頼関係についても言う。
「二階さんは、自民党時代、渡部恒三さんと親しかった。渡部さんが予算委員長をしていたとき、私は公明党の予算委員会理事をつとめた。そのとき、公明党担当の自民党理事が二階さんだった。私は、二階さんに宣言した。
『悪いけども、表では喧嘩をしながら、裏では仲良くするということは、いっさいやらないから』
 その後、二階さんとは新進党で同じ釜の飯を食べた。私は、小沢一郎さんの政治手法を批判していた。
 二階さんは後にこう言っていた。
『あのとき、草川さんに、『いい加減にしろ』と言わなければいけなかったけども、湾岸戦争の追加支援の際お世話になった草川さんに言えなかったよ』
 二階さんは嘘をつかない。一言でいえば、いぶし銀のようなところがある。海千山千の政界のなかで、とにかく信頼できる」
 いっぽう、野中広務は「談合三兄弟」といわれることに眉をしかめた。
〈古賀、二階、草川のこの三人は、月曜日から金曜日まで朝七時半なり八時から朝食をともにし、夜遅くまで法案を通すためにはどうすればいいかを真剣に議論している。そういう苦労が、あまり世間には見えていない〉
 なかでも気の毒なのは、古賀であった。自自連立、さらには自自公連立を推し進めていた古賀は、あろうことか出身派閥の宏池会から批判されていたのである。加藤会長も、自自公連立路線に否定的であった。
 野中は憤りさえ感じた。
〈われわれは、国家国民のため自自公路線を推し進めているのだ。この思いは、あの異常な金融国会を経験したものでなければわからない。あのとき、自由党、公明党の協力を得なければ、日本の金融機関は外資に抑えられ、日本は滅びていたかもしれない。加藤さんも、山崎(拓)さんも、あの一番困難な状況を経験していない。だから、まるで評論家みたいなことを言えるんだ。そんな生易しい状況ではなかった〉
 しかし、古賀は割り切っているようであった。野中にこう言っていた。
「派内で、どう思われようといいんです。国対委員長というポストをこなすのが、いまの自分の仕事なんですよ」
 野中は思った。
〈これだけの仕事をし、泥を被ることも厭わない。加藤紘一は、古賀誠なくして政権にたどりつくことはできないな〉
 また、野中と二階は、田中派、竹下派時代の同志であった。昭和五十八年十二月に初当選した二階は、国会議員の秘書、県会議員を経験し、地方行政だけでなく、あらゆる分野についてバランスの取れた政策マンであった。
 さらに、信義に厚い、人情豊かな政治家であった。野中は、非常にいい仲間ができたと思い、喜んだ。
 時まさに地方財政が厳しい時であった。二階の呼びかけで、地方議員出身者二十数名の若手議員が集まり、「地方自治を愁うる会」を結成した。野中は、代表役、二階が幹事長を務めた。
「地方自治を愁うる会」は、自治省や都道府県、市町村とともに財政対策に取り組むこととなった。それによって、二階の優れた政治手腕に助けられ、地方自治の基盤整備をすることができた。
 その後、経世会は分裂し、野中と二階は道を別にしたが、ふたりは、折りに触れて言葉を交わし、立場は異なるけれども友情を分かち合うことができた。
 野中は言う。
「特に、参院選挙敗北後の小渕内閣スタートにあたり、私も官房長官として、小渕総理、小渕内閣を支えることになった。自由党の二階国対委員長は、自民党の古賀誠国対委員長、公明党の草川昭三国対委員長と"三だんご""三兄弟"と言われるような間柄で毎日、毎日、困難な国会運営をやっていただいた。そして、経済不況を乗り切り、政局を安定させた。私も、二階さんと本当に苦楽を共にした。生涯忘れることができない良い友人を持ったと実感している」
 さて、平成十一年六月、自由党国対副委員長の西川太一郎は二階に勧められた。
「きみの地元のだんご屋は有名だったな。今度、会費一〇〇〇円くらい取って『だんごの会』をやったらどうか」
 二階の言うだんご屋とは、荒川区東日暮里にある「羽二重だんご」のことである。夏目漱石や田山花袋が愛用し、元NHKアナウンサーの鈴木健二いわく「日本一うまいだんご」として有名であった。
 そこで二階は、「談合三兄弟」といわれる自分たちが、そのだんごを食べながら国政を語る会を開いたらどうか、というのだ。アイデアマンの二階らしい、じつにユニークな発想であった。
 西川は訊いた。
「しかし、あの店のだんごは甘いのとか辛いのとか、四つついていますよ。三兄弟じゃありません」
 二階はいたずらっぽく笑った。
「馬鹿いえ。一つはきみだ、といえばいいじゃないか。だから、四兄弟だな」
 西川はその企画に飛びついた。三人に日程を調整してもらい、日時を八月八日午後七時に決めた。
 西川は思案した。
〈問題は、会場だな……〉
 一〇〇〇円の会費で参加者を二〇〇人とする。羽二重だんご一本の値段は、五〇〇円だ。会場費用は、残り五〇〇円で埋めなければならない。八月八日といえば、夏真っ盛りである。冷房設備も必要だ。費用を考えるとホテルでの開催は不可能であった。
 西川はふとひらめいた。
〈結婚式場を借りよう〉
 JR西日暮里駅前にある結婚式場「セレス千代田」の社長に交渉し、割安で借りることができた。
 いっぽう、ポスターづくりにも余念がなかった。小沢一郎党首がワイシャツ姿で「日本を変える力」と訴えている党の統一ポスターに、「だんご三兄弟 自自公国政を語る」という文字を入れ、大々的に宣伝した。
 西川は一安心した。
〈これで準備は、整った〉
 ところが、八月十三日の会期末が近づくにつれ、不穏な空気が漂いはじめた。自自連立の合意事項である衆議院比例定数五〇削減法案の採決が見送られる公算が強く、小沢党首が「この法案が通らなければ連立離脱」と口にしたのである。
 西川は神妙な表情になった。
〈政権を離脱したら、「だんごの会」どころではなくなるな〉
 しかし、ここは開き直るしかない。
〈離脱なら、離脱でもいい。そのときは、古賀さん、草川さんに謝ろう〉
 なお、古賀は、森派の幹部からクレームをつけられた。
「自民党の国対委員長が、なぜ、自由党の西川が主催する会合に出席するのか」
 西川と選挙を戦うことになる自民党新人の松島みどりが泣きを入れたのだ。松島は、森派が抱えていた。
 そのとき、古賀は眉一つ動かさず、こう答えたと言う。
「西川さんは、二階国対委員長のもとで国対副委員長として本当によくがんばってくれている。その人のところに応援にいくのは、当然のことだ。これは、おれと西川さんの友情の証だ」
 西川は、その話を人づてに聞かされた。涙が出るほどうれしかった。
〈私が古賀さんと同じ立場に立ったとき、同じようなことが言えるだろうか。古賀さんは、将来のある身だ。幹事長派閥に文句をつけられるような行動は、自分の得にはならない。それでも、本気で私を応援するといってくださった。古賀さんに、足を向けて寝られないな〉
 八月八日午後七時、予定どおり集会が開かれ、会場は大盛況であった。二〇〇人収容の会場に、なんと四〇〇人が参加した。
 自自公三党の国対委員長の揃い踏みは、マスコミの注目を集めた。あるテレビ局は、会場の様子を生放送で伝えたほどであった。
 古賀は挨拶した。
「自自連立健在なり。公明党がくわわることで、より政治を安定させたい」
 二階も挨拶した。
「三党の国対委員長が、一人の議員の集会にくるなんて聞いたことがない」
 草川も挨拶した。
「古賀さんは、本気で連立に懸けている」
 会場は、大いに盛り上がり、「だんごの会」は大成功をおさめた。
 集会後、西川は古賀に言われた。
「西川ちゃん、小腹すいたんだけど、お寿司でも食べるところある」
 西川は答えた。
「そういうこともあるだろうと思い、用意してありますよ」
 西川は、前もって予約していた「寿司玉」に三人を案内した。三人の番記者も、社用車で追いかけてきた。「寿司玉」の周囲にある道路は、待機している番記者の車で大混雑となった。近所の住人が交番に苦情を入れたほどである。
 四人は、寿司をつまみながら談笑した。
 ただし、古賀、二階、草川の三人は、席を温める暇がなかった。どこからか、ひんぱんに電話がかかってくるのである。
 西川は気をきかせた。
「私、席を外しましょう」
 三人は、三、四十分ほど話し合った。話がまとまったのであろう。やがて、三人が玄関先に姿を現した。狭い道で三か所に分かれてブリーフィングをし、車上の人となった。
 この夜の集会の模様は、テレビ各局で放映された。翌朝、新聞各紙もそろってこの話題を取り上げた。
 西川は肚を決めた。
〈連立離脱で揺れている時期に、こんなことをして、小沢党首や藤井幹事長に怒鳴り上げられるかもしれないな〉
 しかし、お咎めはなかった。
 それから五日後、自由党は、連立残留を決めた。
 西川は思った。
〈見方を変えれば、「だんごの会」で自自公の親密さがアピールされ、政局をつくったのかもしれない〉

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