自民党


にかい


明日への挑戦


第二部 二階俊博県政報告集 (新しい息吹を求めて)

■海外視察レポート >韓国遠征の旅

   団長をおうけして
   さあ出発へ
   大阪−釜山へ
   師弟愛なお続く
   来てよかった、なごやかに歓談
   校旗先頭堂々入場行進
   日本語で歓迎
   御坊商工チームよく健闘
   韓社長と対談
   感激の初試合ソウルの名門龍山高
   善戦空しく敗退、親善の役割果たす
   大邱地方切っての進学校達城高校



・団長をおうけして

二月の定例県議会最中の十一日の午前中に、御坊商工の寒川校長先生から電話というメモが本会議中の私のもとに届けられました。
 今ごろ先生から用事とは何のことかな、心配されていた御坊商工の改築のことも、見通しがついたことだし、見当もつかないまま電話口に出ますと、寒川先生のはずんだ声は「御坊商工ホッケー部が韓国の全国高校ホッケー大会に日本代表で招待されることになった。何とか協力を頼みたい」とのことでした。
 私は「それは結構なことで何でも協力します」と答えました。
 かつて私が高校時代に日高高校でお世話になったことのある恩師寒川先生の言われることでもあり、本当に何でも出来ることは協力させて頂くというつもりでした。しかし次いで先生は「誠に申訳ないことだが今度の派遣団の団長になって、韓国へ行ってくれないか」とのことです。
 私にとっては全く予期しないことで「これは、校長先生が行かれるのが一番いいのではないですか」と申し上げたところ「始業式、入学式にぶつかるので校長としては都合がつかない。しかも、韓国の大会準備の都合上、メンバー表を送る期限が明日の午前中ということになっている。時間もないので適当な人が見つからないので思い余ってお願いする」 とのことです。私は余りにも突然のことなので一寸考えさせてほしい。まず私がお引き受けするのがいいのかとうかについても考えさせてほしい
―――とお願いしました。
 「それはその通りだが、考えて断られて、こちらは時間がないので、イエスの返事でなければ困る」と寒川先生も後へ引かない様子、私は、適当な人を二、三名前を挙げて申し上げてみましたが、「直ちに返事」と「一週問留守をする」ということを言うと誰に言っても断られると言われるのです。
 いくら先生のお話でも、即答は一寸困るから、もう一度後で電話してほしいと申し上げたら、昼の休みに二回目の電話が入り、事情を伺っているうちに今、自分は県会で、文教常任委員長をつとめており、その中にスポーツ振興小委員会まで設けて、スポーツ振興を主張しているのに、こんなとき、日頃の言っていることと、することを一致させなければならない。もう一つはかつて、私たちが日高高校の頃、野球部が甲子園に出場したとき、私は応援団長をやらせて頂いた。その時多くの周囲の皆さんにお世話になった。そんなことを思うと、今、すぐに適当な人が見つからないというなら、「私でもよろしかったら、先生にお任せします。」と申し上げるより仕方がないという気持ちに傾き、ついにこれをお引き受けすることになりました。
 早速、高橋県教育長や仮谷知事、日韓親善の県議会の議員連盟の世話人代表の藁科県議に協力をお願いし、出発への準備にかかることになりました。在日大韓民国居留民団の県本部を、松本監督と共に訪ね、側面から協力をお願いすると同時に通訳を1人同行願えるよう配慮を依頼しました。
  また、日本の代表チームとして、韓国で試合をしたり、パーティーの席等で、日本の高校生は一言も韓国語をしゃべらなかったとしたら、これは親善にならない。せめて「おはよう」「こんにちは」「ありがとう」「さようなら」ぐらいは覚えて行けるようにするため一度、韓国語の先生を御坊商工へ来てもらえないかとお願いしました。
 民団の県本部も何れも快くこれに協力を約束してくれて、準備の一歩がはじまりました。



・さあ出発へ

 これからというものは、仮谷知事に記念タオルへの揮毫をお願いしたり、交換用のバッチやペナント、学校や選手の紹介のパンフレットの作製、お土産の準備等、寒川校長、監督の松本先生、コーチの中尾先生等と、お互いに夫々の仕事の合間に打ち合わせて、目のまわるような忙しさ、監督がこんなことに時間が割かれていると、練習の方が進まない。しかしホッケーのこととなると、この地方でも松本先生をおいて他に詳しい人はいないとなると、当然松本先生に比重がかかってくる。しかし幸いなことに、私も松本先生とは四、五年前からすでにホッケーの国体出場について、ご相談を受けたことがあり、それ以来、気心の知れた仲であり、中尾先生もよく存じ上げていたので、お互いに気合をかけ合いながら準備をすすめた。
 遠征費の問題も頭の痛い問題であり、地域の多くの方々のご厚意や、学校の先生方、父兄会、卒業生の方々、数えきれない位多くの皆さんのお気持ちを頂いて出発への準備が進められて行きました。御坊駅頭壮行記念写真
 四月二日、僚友箕島高校を迎えて、壮行試合が行われた。ホッケーの試合を観るのは、私はこの時がはじめてで、松本監督の解説を聞きながら一試合、観戦させて頂いた。
 その後、結団式が寒川校長、塚原教頭、選手ならびにご父兄が参加して行われた。そして、いよいよ四月七日出発の朝がやって来ました。御坊商工ホッケー部韓国遠征の壮行会が同校体育館前で盛大に開かれました。玉置市長や地元の県会議員、県事務所長、市町村議会代表先生方、ご父兄、生徒の皆さん等多くのご関係の方々が早朝より集まって下さり、力強く激励して下さいました。
 出発に至るまで、大勢の皆さまにお世話になり、こんなに多くの郷土の方々に激励を頂いて選手たちはもとより、団員一同、心から感謝の気持ちを胸に車中の人となり、御坊駅を出発致しました。
 天王寺からバスで伊丹空港に向かい、空港で昼食をしたり、電話をかけたりしている間に出発の時間がやって来ました。
 空港まで送って下さった寒川校長先生と固い握手を交わして、しばしの別れを惜しみ、みんなでしっかり頑張って参りますと誓いを込めて、タラップに向かいました。
 はじめての海外遠征で選手達もいくらか緊張している様子でしたが、松本監督の下、きびきびした動作で若さがみなぎっている感じで、実にさわやかな遠征へのスタートとなりました。




・大阪−釜山へ

 大阪から一時間と十七分で釜山空港に到着しました。丁度、大阪から東京までの時間で、白浜から東京よりは早い時間であり、まさに隣国にやって来たという感じです。
 飛行機の窓から見える釜山の郊外は、きれいに整地された畑が並んで、土地改良や区画整理が行届いている感じがしました。
 私も韓国への旅行は今度がはじめてで、前々から韓国の山々は赤茶色で、木が育ちにくいと聞いていましたが山地は樹林が少なく花崗岩質の赤茶けた山肌が続いており、ああやはりその通りだなあ−そんなことを思いながら到着した空港には、軍の飛行機が所々に見えて、警備に当たる人たちの姿にも、国際緊張が何となく私たちに伝わってくるような第一歩でした。
 空港で早速記念撮影をしようとしていたアメリカの観光客らしい人達は、写真を撮ってはいけないと注意されている様子でした。
 空港を出ると、すぐに若いお嬢さんが「二階さんですか」と尋ねてくれました。韓国ホッケー協会の張会長のお嬢さんがソウルから一行の出迎えに来て下きったということでした。
 MBC放送のマイクロバスで、高速道路に乗って一路大邱の宿舎へ向かいました。バスの中の話では、会長のお嬢さんは、日本の大阪の高等学校で勉強し、会長は慶応大学に学んだということで、日本のことは言葉も何もかも承知しておられて、我々に韓国のいろいろのことを話ししてくれました。
 韓国の学生たちは、仕事につくために一生懸命に勉強しているとのことでした。とにかく国を挙げて頑張っている様子が分かるような気がしました。韓国の学校制度は、六年制の国民学校、三年制の中学校、三年制の高等学校、四年制の大学から成っている。このうち義務教育は国民学校の六年間であり、教育熱が日本と同じように盛んですが、日本の生徒より、韓国の生徒の方がよく勉強するし、英語なんか日本で習って韓国へ来るとついていけないとも話していました。



・師弟愛なお続く

 そんな話をしている間に大邱の韓道旅館に着きました。荷物を置いて、近くの食堂で用意してくれている食事にみんなで出かけました。
 大韓ホッケー協会の張会長、慶北ホッケー協会の徐会長等大会のお世話を頂く方々の心づくしの夕食をご馳走になりながら、明日の打ち合わせを致しました。
 またその食事のメンバーの中に、韓元福さんという藁科義清県議がかつて、若かりし日に韓国国民学校の青年教師として教壇に立っておられたころの教え子の方が友達を連れて来ていました。
 出発の際、藁料先生から「実は前にも話したことがある私の韓国の教え子に、昨晩電話をしておいた。ホッケー大会が行われることも、日本の高校が来ることもすでに知っておったが、宿舎にあなたを訪ねるように話しておいた。日本語も電話の最初のうちはややこしかったがだんだんはっきりして、終わり頃は、よく分かった。会ったらよろしく」とのことでした。
 その韓元福さんが、今私の目の前におられる。四十年という歳月の流れ、それは、平和と友愛のうちに流れた四十年ではなく、恐らく、重苦しい複雑な思いの星霜であったことでしょう。しかし、海を超え、時代を超え、境遇は異なっても、そこに変わらぬ恩師と教え子の信抑のきずなが、あらゆる障害を乗り越えて、なおしっかりと存在することを私に教えてくれた一瞬でした。韓さんの目をふれば分かります。態度を見れば分かります。ポケットから紙を取り出して、読みはじめてくれました。
「長い間使わなかった日本語です。ご挨拶を申し上げるのに、もし敬語等の使い方に誤りがあって、失礼をしてはいけないと思い原稿に書いて来ました」と言って、次のような挨拶をしてくれました。
 『遠い旅路で皆様ご苦労さまでした。皆さまは韓日友好の役目で韓国の大邱へ来て下さいまして、ホッケー大会に参加される栄光の機会にお目にかかれてとてもうれしく思います。
 私は貴国和歌山県議会議員藁科義清先生が今より、四十三年前、北韓国で国民学校先生をされていた当時の弟子「韓元福」です。遠く時代は流れましたけれど、国民学校当時の純情な真実の心は、四十年余りの年月が過ぎた今でも恩師のお蔭様であるということを忘れたことがございません。国家と民族は違っても師弟の間の崇高なる情は永遠不朽のものです。
 人生、たそがれの六十に近い私ですが、貴国の恩師藁科先生が此の世を離れられる時まで、私の心から忘れることが出来ません。
 皆さまはこの度、韓国の高等学校との親善試合において最善の努力されるようお祈りします。そうして隣の韓国に対して、いつまでも善隣友好の情をお願いします。皆さまのご健勝をお祈りします。』
 と、いう意味の原稿を手に挨拶して下さいました。
 韓元福さんのお気持ちを日本人のひとりとして大変うれしく思いました。同時に、韓さんも立派な方ですが、青年教師の時代に、一人の教え子にこれだけの印象を刻みつけた藁科義清先生に、あらためて敬意を表した次第であります。
 韓さんは、現在、大韓地籍公社の慶尚北道支社の業務次長をされているとのことで、十二歳の頃、藁科先生に教えて頂いたということでした。
 国と国とがどうあろうとも、人と人、恩師と子弟の素晴らしい絆なに、大きな感動を覚えたものでした。



・来てよかった、なごやかに歓談

 オンドル―言葉として耳にしたことは何回かあっても直接みるのははじめてで、私たちの最初の宿泊先は、韓国式旅館で、韓国独得の暖をとるための設備がしてある部屋で、説明によると、今から千三百年前からこの国の独特のものだそうで、いろいろ改良が加えられて、現在の型になったとの事でした。
 まず、床下に数条の火坑を築き、その上に花崗岩の石板を並べて床にし、さらにその上に土とセメントで平らに固め数枚の下紙を張っているそうで、床の表面には特殊な油紙を張っているが、床下から熱くなって暖をとる方法で、省エネルギー時代にはもって来いですが、慣れないと床に直かに座ったり、直かに布団を敷くこと等これは選手達も一寸戸惑ったようでした。
 郷に入っては郷に従えで全ていい経験と思いました。
 翌朝、選手達を集めて、通訳の民団県本部の山本さんにも傍で聞いてもらって、日本と韓国の歴史的ないきさつについて話をして、諸君には、直接関係のないことかもしれないが、日の丸をつけてJAPANというユニフォームを着ている以上は、日本代表チームとして全ての韓国の人々に接するべきであり、過去の不幸な時代のことも、よく承知をして言動をすべきであるという意味のことを話しました。
 選手たちもよく分かりましたということで、みんなで近くの食堂へ朝食に出かけました。
 食卓に料理が運ばれるまでの間、韓国語の勉強をしました。少しずつ上手に発音が出来るようになりました。私は、早速、今日の開会式に挨拶の中で、人の名前と「ありがとう」位は、韓国語で話すのが礼儀でもありますので、通訳の特訓を受けて、二、三回やると大丈夫というお墨付をもらったので、開会式に一言韓国語を混じえてやることにしました。
 選手の一人一人に韓国で一夜明けた感想を求めると、
「来てよかった」「タベはよく眠れた」という選手もあれば、早速故郷が恋しくて「早く帰りたい」というのもいる。しかし、全員元気で何よりで、やや緊張して過ごす位で丁度いいと思いました。
 食事が終わって、私と松本監督が張大韓ホッケー協会長と徐慶北ホッケー協会長のご案内で、MBC(大邱文化放送梶jの社長に表敬訪問することになり、出かけました。ここは、韓国三大テレビラジオ放送局の一つで、立派なビルに「第三回MBC社長旗争奪全国高校ホッケー大会」のたれ幕が掲げられており、大会への意気込みが感じられました。
 社長室では、おだやかな感じのしかもエネルギッシュな韓社長が待ってくれていて、なごやかな歓談が続きました。
 大会主催の幹部の方々と共に今夜の食事にお招き頂き、「また開会式で会いましょう」ということで一足先にグラウンドを松本監督と見に行くことにしました。
 センターポールに韓国旗と共に日章旗が澄み切った春の青空を背景に、仲良く磨いている姿をみて、ああ来てよかったと言っていた選手達の顔が浮かんで来るのでした。
 フェンスには、今度は大きな横幕が「歓迎!日本和歌山県立御坊商工高等学校」と張り出されています。本大会における私たちのチームの位置づけをしてくれているようでした。



・校旗先頭堂々入場行進

 宿舎に帰って、昼食の後、十二時半からの開会式に参加するため、選手たちと共に再び大邱市民グランドに着いたときは、金モールで飾った真赤なユニホーム姿に身を囲めたバトンガールを先頭にブラスバンドが隊列を組んで行進の準備をしているところでした。参加各学校も校旗を先頭に入場行進の準備が整い、しんがりの御坊商工も準備完了で、いよいよ入場行進がはじまった。
 ユニフォーム姿の高校生は体格も顔の型もほとんど日本と変わらない。ただ軍事教練を受けていて厳しく教育されているだけに、入場行進はなかなか堂々たるもので気合いが入っているという感じがしました。しかし、御坊商工も元気に入場行進を行い、本部席からもスタンドからも憎しみない柏手が送られました。
 大会会長の韓MBC社長、張大韓ホッケー協会長、徐慶北ホッケー協会長等の挨拶のあと、私が選手団を代表して、仮谷和歌山県知事の次のようなメッセージを代読しました。


二階団長挨拶
(メッセージ)
 この度、第三回大邱M・B・C社長旗争奪全国高校ホッケー大会に、和歌山県立御坊商工高等学校チームが招待されましたことは、日本の高等学校ホッケー界はもとより和歌山県にとりましても大変名誉なことであり、喜びに堪えない次第であります。
 一昨年には、貴国より提川高等学校チームをお招きしまた本県から紀陽銀行女子チームが貴国に招待されましたようにその交流を年々深めてまいりました。今回の御坊商工高等学校チームの貴国訪問が、日韓の友好親善にさらに大きく貢献することを念じてやみません。
今回の遠征に際し、心のこもったお世話を頂いております大邱文化放送株式会社社長韓俊愚(ハン チュンウー)先生、大韓ホッケー協会会長張昌寿(ナヤン チャンスー)先生、慶北ホッケー協会会長徐祥圭(ソウ サンキゥ)先生に対し、喪心より感謝と敬意を表する次第であります。
 最後に、大韓ホッケー協会発展と第三回大邱M・B・C社長旗争奪全国高等学校ホッケー大会のご盛会を祈念しましてごあいさつといたします。
 和歌山県知事 仮谷志良 代行
 御坊商工ホッケー部訪韓選手団団長、二階俊博(カムサ ハンミダ)


 カムサ ハンミダ―ありがとう―これは、私が出発の前に松本先生や中尾先生を通じて、選手達に約束していた一言でもいいから「ありがとう」位は言えるようにと言っておりましたのを、今度は自分が韓国の大会役員や参加校の高校生や観覧席の多くの観衆の前で言わなければならない羽目になったわけです。開会式のスピーチを終えたときは正直、私も役目の一つが無事に済んだとほっとしたものでした。そして場内のあたたかい柏手と通訳の山本さんから「実にきれいに聞こえた」とささやかれて、やれやれ恥をかかなくて済んだと胸をなでおろしました。



・日本語で歓迎

 本部席には左側に韓国大会会長その隣に張大韓ホッケー協会長、徐慶北ホッケー協会長が並んで私の右隣には主催者の金教育長、孫慶尚北道学務局長、呂MBC放送総務局長等とつぎつぎに挨拶を交わし何れも大会関係者は「遠いところをご苦労さま、よく来てくれました」と、はっきりした日本語で歓迎の気持ちを語ってくれました。開会式の終わりに私たち日本側の役員一行が紹介され、さらに選手に村し、大会会長から花束と記念品が贈られこれまたスタンドからも大きな柏手が続きました。
 前年度の優勝校の優勝旗返還や選手宣誓等、開会式の運びも、日本のそれと全く同じやり方で、よく似ています。始球式が終わって大会第一戦がはじまり、好プレーに場内が沸きます。
 大会会長の挨拶の中にホッケーは非人気種目だと言われておりましたが、さすが大邱文化放送の主催だけあって、韓国高校ホッケーの代表的な大会と言われるだけに観衆もかなり多く、なかなかどうして大変な人気です。
 韓国高校ホッケーのレベルの高いのもうなづけそうです。前にもすでに告白した通り、私は、ホッケーについては何も知らない。幸い今度のことで、ご縁が出来て、観戦しているとなかなか素晴しいスポーツであることが分かって来ました。
 団体競技で、チームプレーが最優先であり、野球で言うと「常にセカンドとショートが交互にベースカバーに入っているような状況と外野からのパックホームに備える内野手のカットプレイのような連携動作が最も大切なことでキメの細かい動きが必要なスポーツ」だなと思いました。
 局面を打開するためのダイナミックな動きと激しい闘志と緻密な頭脳的プレイと、勝負にかけてはねばり強い体力がなければならない。そんなことを素人ながら考えつつ韓国の高校生の真剣そのものの試合を見せて頂きました。



・御坊商工チームよく健闘

 公式試合が終わったところで御坊商工対達城高校の親善試合が行われることになっており、韓国での勿論第一戦であり、御坊商工の選手達はグラウンドの片すみで、先ほどから気合のかかった最後のウォームアップに余念がない。松本監督の試合前の細かい注意にうなづきながら耳を傾けている。
 高校野球で夏の甲子園が終わると全日本選抜チームが、よくハワイや韓国に遠征することが新聞に報ぜられていますが、今、御坊商工は、単独チームで海外遠征の機会に恵まれ、選手たちが夢にまでみた国際試合のはじまりを告げるホイッスルが間もなく鳴ろうとしています。
 出発のときは、一回位は勝ってほしいという気持ちが強かったのが、ここまでくるといいゲームをしてほしい、日本代表として恥ずかしくないゲームを展開してほしいと願うのみです。
 試合内容については、松本監督のレポートに譲って、ここでは省略しておきます。しかし、選手たちはよく健闘して、旅の疲れも見せず、いい試合をしたと大会役員の方たちは盛んに言ってくれます。実際によくやったと思います。
 試合中も、達城高校の朴校長といろいろ話しているうちに「一度先生の学校を見学させてほしい」と頼みました。「明日のゲームが終わってから選手達も連れて来て下きい。大歓迎だ」ということで、翌日訪問させて頂く約束を致しました。
 本部席には、昨晩の藁科先生の教え子の韓元福さんもカメラを持って応接に来て下さいました。異国の地を感じさせないなごやかな雰囲気です。
 試合は両軍譲らず遂に時間切れで一対一で引き分けました。まさに親善試合のスコアとなりました。その日の夜は、大会主催者であるMBC放送の社長の招待で、大緯ホッケー協会長、慶北ホッケー協会長、教育長等と共に私と監督が夕食を共にしながら歓談させて頂きました。



・韓社長と対談

 MBC放送の社長は「私は何故ホッケーに力を入れるか、これは非人気種目だからだんだん盛んになるように応援をしている」
 傍から金教育長が「テレビ会社としては、人気のある野球でもやった方が営業としてはプラスになるのが分かっているがホッケーに力を入れてくれている」とのことでした。
 韓社長は 「しかし、将来、東洋人がオリンピックで西洋とやって勝って、金メダルがとれる可能性のある種目は、限られてくる。ホッケーは東洋人の体力、気質にも合ったゲームで、東洋人にも金メダルのチャンスがある。だからその時、韓国が勝っても、日本が勝っても、どちらが勝ってもいいじゃないですか。そういう意味でこれから大いに高校ホッケーチームの親善交流を深めて、技術の向上と両国の若い世代のためにやろうじゃありませんか!」という積極的な提案を頂きました。
 二階「非人気種目のホッケーに対する情熱を注いで頂く社長のお気持ちをうれしく思います。私達の国でもまだまだホッケーは一般的ではありません。私たちの県でも公立私立併せて四十校ほどありますが、箕島高校と御坊商工の二校しかやっておりません。全国でも男女併せて二百校程度です。スポーツは素晴らしいし、非人気種目に力を入れるという会長のお考えに全く同感で、私がこの遠征団の団長をお引き受けしたときもそんな気持ちも少しありましたが、ホッケーのお蔭で韓国訪問の機会を与えられ、韓国に多くの友人を得て、今後もご交誼願えることになり喜んでおります。国に帰ったら、関係者と相談をして、韓大会会長のご厚意とご提案に出来る限りお応えしたい」と申し上げ、さらに「あなたは韓国を代表するようなテレビ、ラジオ、新聞のオーナーとして大きな影響力を持っておられるが、私は小さい力しかない。しかし、努力することが大事だ」とつけ加えると、韓社長は「和歌山県を中心としたローカルな形でいいじゃないですか。私は静岡放送の大石社長と意気投合して毎年静岡と韓国のサッカーの交流をやっている。昨年は萩野静岡市長が団長として選手団が来てくれた。今年の八月に私が静岡に行くことになっている」と言われるのです。
 二階「静岡には、多少の縁があって、あちらの山本知事にも親しくして頂いているので、この次、静岡で会って、ホッケーの交流の計画をさらに進めようじゃありませんか。それとローカルな形でもいいからやろうというご提案ですが、今日本では、一九八○年代は地方の時代と言っております。丁度、スポーツも国際親善も『地方の時代』に入って行っていいわけで、知事や教育関係者、ホッケー協会、報道関係、県議会の日韓親書議員連盟、在日韓国民団の方々等と協議して努力する」ことを約束して参りました。
 韓社長は「静岡で再会出来ることもうれしいが、それよりも、私は、和歌山県を、紀州を訪ねたい。国と国とのことは政府の偉い人たちに任せて、我々はローカルな形で、スポーツの振興……何でもいいと思う、ホッケーでもサッカーでも、野球でも柔道でもいいと思う大いにやろうじゃありませんか′和歌山県から毎年韓国の全国高校ホッケー大会に選手団を招待したら来れるでしょうか」とも言ってくれました。
 つまり日本代表チームのほかに、もう一校和歌山代表を加えることを考えてもいいという意味の発言でした。
 二階「和歌山にお出かけ願えるのなら大変有難いことで、心から歓迎申し上げる」旨を話して、さらに「選手団の派遣についても、やはり、日本でも経済的な問題もあります。応援団も必要だし、和歌山の場合二校あるので、一年交代というやり方もあるでしょうし、しかし、また校内的にも他のクラブとの関係もありますし、いろいろなことについて韓国側と日本側というか、和歌山側に、夫々、仮称『日韓高校ホッケー親善大会選手団派遣委貝会』のようなものをつくって、相談をする。まず、今日のところは、韓国側の責任者を韓社長に引き受けて頂く、日本側は、日本に帰って相談をさせて頂く、というように致しては如何か」と提案しましたら、満場一致でその方法でやろうということになりました。
 二階「ここまで話が弾むと、私の市の市長は韓国で生まれました。県会議員の中には、こちらで先生をやった方もおるし、郡の町村長さんの中には韓国で働いた人もいる。随分韓国贔屓の人が多いので、MBCの社長とホッケーのとりもつ縁で、御地と姉妹都市ということにもなるわけですが、私の市は人口三万、周辺を入れて十万というわけですから大邱は聞くところによると人口百六十万人ということで、一寸これでは、姉妹都市ということは言い出せない」(実は、出発の前日、岸元御坊市議会議長から、出発の当日、中野副議長から姉妹都市でも話が出たら、話のきっかけでもつくって来たらどうかと盛んにハッパをかけられておりました)
 韓社長「それは、人口のことは関係ないと思う。シベリアに二億の人が住んでおります。しかし私の心が通じる人は恐らく一人もいないかもしれない。しかし、人口三万の御坊市には御坊商工があります。二階団長が、松本監督がおります。仲良くすることに人口は関係ありません」
 スポーツが結んだ緑で、私たちは、共通の課題と共通の心をもって、相互の信頼と友情がだんだんと芽生えて行くのでした。
お互いに話題は尽きることなく語り合いました。
 戦争中のことも、戦後のことも 日本と韓国との不幸な時代のことも話し合いました。
「赤い靴をお土産に買って来てあげると言い残して彼は出かけた。いつまで待っても彼は帰って来ない。彼は今日本の工場で働かされている。彼は私に嘘をついて行ってしまった」という意味の、つまり「日本を恨む歌」−を歌って聴かせてくれました。お互いに、何もかも話し合った証であります。
「荒域の月」も一番も二番も歌ってくれました。
 歴史的な、不幸な時代を超えて、明日に向かって羽ばたく、若い学生諸君にかける期待についても意見を交わしました。別れ際には「あなたは私を興奮させた、お互いに生涯のつき合いをしようじゃないか」と大きな手で力強く握手をされ、私もまた、カをこめて握りかえして、日本での再会を約束しました。



・感激の初試合ソウルの名門龍山高

 大会第二日日、いよいよ日本代表御坊商工と対する相手はソウルの名門、龍山高校。
 御坊商工の選手も、前日一試合をやっており、韓国にやって来て、三日目であり、少しは、生活にも慣れて、落ち着いた感じで試合開始を待っている様子。観覧席には、今日もあの韓元福さんの姿が見えます。不思議なもので、藁料先生の教え子と言うだけで、もう昔からの知人のような感じがしてならないのです。
 「今夜招待したいので時間を空けてもらえないか」とのことです。「大変ありがたいことですが、こちらのホッケー協会からも言われており、大韓ホッケー協会からも招待を頂いているのですが、明日は私は一足先にソウルヘ向かうので、今夜は、関係者みんなが集まって食事をしようとお誘いするつもりでいますから貴方も是非それに出て下さい」とお招きしました。
 そんな会話をしていると、またお二人のご婦人が訪ねてくれました.藁料先生が小学校の先生をしておられた当時の、校長先生の奥様とそのお嬢さまでした。校長先生はすでに八十歳を超えておられるので、応接に来れなかったかと言って、韓国円で十万円の陣中見舞を持って応援にかけつけて下きったのです。
 センターポールに仲良くはためく日章旗と韓国旗、目をグラウンドに転じると日本と韓国の高校生が白球を追って、懸命に走る、打つ―、この両国の平和な時代。人と人、国と国が仲良くすることがどんなに大切なことか、ふとそんなことを思わずには居られない気持ちが致しました。老校長先生は、今は第一線を引退されて、ビルの管理人をされていると言われる。しかし、これまた四十年程前の部下の関係の日本のホッケーチームがやって来たというので、このお心遣いに心から感謝しながら宿舎に帰って、選手たちにこのことを伝え、「今回の遠征では感謝するという気持ちをしっかり抱いて帰ってほしい」と話しました。



・善戦空しく敗退、親善の役割果たす

 話をグラウンドにもどして、試合は韓国の一点先行で、早くも追う立場に立ちましたが、すぐに御坊商工も一点を返して、一対一、観覧席も、本部席もみんなで応援してくれる。特に大会会長は「日本が勝って優勝すれば、勿論優勝旗を持って帰ってもらう、そして、来年の大会には、もう一度それを持って来てもらう、だから御坊商工が勝てばいいのに」と言って盛んに力を入れてくれる。しかし、また韓国に一点、次ぎ次ぎに巧みなシュートを決められ、善戦空しく四対一で敗れてしまいました。御坊商工チームよく健闘
 「一対一の同点したところで踏んばればよかったのに、追加点を許してしまって残念だった」
 「やはり、ニンニクとカラシ喰べていないから体力的にもう一つ弱いのではないか」といろいろ言って役員の方達がなぐさめてくれます。
 選手も監督もコーチもベストを早くして戦った結果だし、残念だが仕方がない。
 さすが、どの顔も現代っ子で、涙を見せる者はいない。両校選手が、お互いにペナントやバッヂの交換をして握手をしながら、健闘を称え合う姿は、新しい時代の日韓関係の将来を象徴しているようで、ほほえましく思いました。
 御坊商工の選手たちはキビキビした動作で大会役員席や対戦校のベンチやグラウンドに向かって、一札の後、声援をしてくれた観覧席に向かって、あいさつをしたときは、健闘を称える惜しみない柏手が、ひときわ大きく大邱の市民グラウンドに鳴り渡って、選手たちがまさに国際親善の役割を果たしてくれた一瞬でした。




・大邱地方切っての進学校達城高校

 一行は、MBC放送のマイクロバスで、達城高校の見学に出かけました。
 達城高校は、グラウンドから約十分程走ったところにある大邱の地元の高校でした。教育長に就任する前まで、校長をしておったと言われる金龍甲氏も一緒に案内してくれることになりました。
 はじめに校長室に案内頂き、朴校長の歓迎を受けて、学校内容についてお話を伺いました。生徒数は二千六百名のマンモス校ですが、大邱地方切っての進学校で全員進学するそうで、韓国では日本の東大に当たるソウル大学に三十数名人って一番で合格した人も、やはり、本校の一番の生徒だったと校長先生は胸を張って話してくれました。生徒ホールのようなところにホッケー部の選手と、御坊商工の選手が、互いに向かい合って座って待ってくれていました。
 「大邱はリンゴの里で、リンゴを用意したから喰べて下さい」とジュースやケーキも山盛りに準備して、選手たちを迎えてくれました。校長先生の丁重な歓迎のあいさつに続いて、私からも、学校の先生方と選手の皆さんにお礼を述べました。
 学校からは記念のペナントが贈られ、記念撮影等をやっているうちに、だんだん選手達もお互いに手まねや片言の英語で話し合いが出来るようになって来ました。むつかしいことは通訳の山本さんに助けてもらって、会話が続きました。お互に同じ世代であり、隣国であり、民族の歴史は誰が何と言っても顔に書いているという感じで選手たちはユニホームを変えれば分からない位そっくりな頗をしています。達城高校の一番背の高い選手と、御坊商工の一番背の高い原君と並んで高さ比べをしたり、お互いに持っているコインの交換がはじまったり、思いがけない楽しい場となりました。
 達城の校長先生からは「よかったら、御坊商工と姉妹校になってはどうか」という申し出を頂きました。
 「早速帰って、関係者にそのことを伝えます」と話して来ました。
 崔校監(教頭先生)をはじめ、ホッケー部の先生がみんな、その席に出席してくれていろいろ親切に説明してくれました。日本の学校とほとんど変わらない学校の様子ですが、一歩校庭に出ると、兵隊さんが、朝礼台の上に立って、生徒が整列して、軍事教練を受けているのに出喰わしました。
 戦時中の日本の学校と同じようにやっているのです。
 はじめて釜山の空港に着いた時、そしてこの達城高校であらためて、戦時体制の韓国を訪れている実感が沸いて来ました。三十八度線を境に同じ国民が、抜き差しならない対決が続いている現状は、人々の言葉の端々に、何とも言えない緊張を感じるのでした。先生方やホッケー部の皆さんに見送られ別れを惜しみつつ選手たちはバスに乗って宿舎に向かいました。
 我々を乗せたジープは、住宅街を走って程なく金教育長のお宅の前に止まりました。居間に通され、いかにも品のよさそうな、教育長の奥さんらしいご婦人がにこやかに迎えてくれました。タンスの上に飾ってある一枚の家族写真を私たちに見せて、この長男が今大学を出て、三十八度線の戦線へ参加しています。勇敢に任務を果してくれると思っていますとキッパリと言われました。親子です。我が子の無事を朝夕祈っているに違いありません。しかし女々しいことは言わずに、立派に任務を果してくれるであろうと言い切る金教育長の姿に、自らの国を自らの手で守ろうとする意気込みを感じた次第です。
(この視察レポートは、昭和五十五年五月紀州新聞に掲載されたものに加筆、資料を添付したものです。)