自民党


にかい


小説 二階俊博


■もくじ
□T部 自由党結成〜自自連立合意
 ・ 新進党解党と再出発

 ・ 自由党、和歌山からの躍進

 ・ 国対連携が連立へ

□U部 二階運輸大臣の半生
 ・ 政治家というのは忙しい仕事なんだな

 ・ 甲子園の応援団長

 ・ 高校時代、生徒会長

 ・ 大学時代

 ・ 遠藤三郎代議士秘書時代

 ・ 遠藤代議士の死

 ・ 帰郷、県議選出馬

 ・ 清新自民党県議団結成

 ・ 亡父の意思を継いで

 ・ 衆議院選出馬を決意

 ・ 田中派(木曜クラブ)から出馬

 ・ 初陣を飾る

 ・ 竹下派経世会発足

 ・ 空飛ぶシルクロード

 ・ 運輸政務次官に就任

 ・ 新生党を結成、104,600票を獲得しトップ当選

 ・ 非自民連立細川政権の誕生

 ・ 『明日の内閣』国土・交通政策担当

 ・ 新進党阪神大震災現地特別対策本部長

 ・ 小沢一郎君を党首にする会

V部 運輸大臣・北海道開発庁長官に就任
 ・ 自・自連立の歴史的判断

 ・ ガイドラインで大奮戦

 ・ 自自公「三兄弟」の活躍

 ・ 薄氷の定数削減合意

 ・ 入閣!運輸相兼北海道開発庁長官の重責

 ・ 鉄道非常事態に檄

 ・ 未来に向けて!空港、港湾整備

 ・ ゆとりと優しさの二階運輸行政

 ・ 心のバリアフリーを

 ・ 中国訪問、世界への飛躍

 ・ 観光振興をライフワークに

 ・ 自・公・保連立政権へ


■ 「近ごろ思うこと」 − 二階俊博



■もくじ
□T部 自由党結成〜自自連立合意
 ・ 新進党解党と再出発

 平成九年十二月二十七日、新進党の解党が決まった。十二月二十九日には、六つの政党に分かれることになった。
 二階俊博は小沢一郎率いる自由党に参画した。二階は、新進党の解党が残念でならなかった。 〈新進党の結党が、少し早すぎたのかもしれない……〉
 二階は、平成五年六月二十二日、同志四四人と共に自民党を離党し、翌二十三日、新生党を結党した。総選挙で二階らは、選挙区の人々に演説会で意気込みを訴えた。 「われわれは、政治改革を実現したいという志をもって自民党を飛び出した。決して野党に成り下がるつもりはない」  七月の総選挙の結果、自民党は過半数を割り、非自民、非共産の八党派による細川連立政権が誕生した。自民党離党後わずか一か月後で与党となったのである。
 しかし、非自民連立政権は長くは続かなかった。一年後の六月、自民党、社会党、さきがけ三党による村山連立政権が誕生した。
 二階は反省した。 〈もう少し鍛練をし、政策を練りに練って、坂道を這い上がるような、壁に爪を立てて登っていくような努力が必要だったのかもしれない〉
 平成六年九月十一日、参議院愛知選挙区の再選挙が行なわれることになった。旧連立は、都築譲を当選させるため、渾然一体となってエネルギーを集中させた。
 演説会には、なんと六〇人もの国会議員が集結した。まるで壇上はオーケストラのような光景であった。
 投・開票の結果、みごと都築は当選を果たした。そのエネルギーが、新党結成の気運を一層高めた。その年の暮れには、小さく分かれていた八党派がひとつに集まり新党を結成することになった。結党にあたっては、各党の代表者が集まり、延べ三〇〇時間に亘って協議を重ねた。  事務局を担当していた二階は、座長を務めていた小沢一郎と、ときたまトイレでぱったり会った。小沢は、連日、朝から夕方の六時までのぶっ続けの議論を忍耐強く、耳を傾けていた。
 二階は声をかけた。 「国会議員というのは議論が好きなんですね」
 小沢は苦笑した。 「朝からぶっ続けだからね」
 二階はその姿が印象的であった。
 議論を練り上げ、十二月十日、ようやく新進党を結党した。
 多くの国会議員は、こう期待したに違いない。 「今度も、簡単に政権が取れるだろう。小沢さんが采配をふるえば、選挙を勝たせてくれる。小沢神話によって当選させてくれるのではないか」  しかし、二階らはそう簡単に政権を取れるとは考えていなかった。 〈新進党は茨の道を歩んでいく。小沢さんと一緒に、敢えて選んだ苦難の道を共にしよう〉
 平成七年七月、参院選が行なわれた。
 新進党は、改選議席を倍増し、比例区では自民党の得票数を上回った。
 が、その後、小沢代表幹事の党運営について不満の声があがった。マスコミに不協和音が報じられるようになった。
 二階は、評論家の会合で説明した。 「新進党結党前は、八党派もあった。各党派には、八人の党首、八人の幹事長、八人の政調会長がいた。学校に例えるなら、かれらはみな小学校の野球チームのレギュラーだった。しかし、中学校に進むとさまざまな地域の生徒が野球部に入部する。当然、レギュラー争いが熾烈になる。ことによっては小学校時代にエースで四番だった選手も、補欠になってしまう。二〇〇人を越す国会議員のいる新進党は、まさにそんな状態だ。しかし、レギュラーになったからといって、威張ってはいけない。みんなが少しづつ譲り合い、辛抱をすることも大切だ」  二階は、政界を去った大先輩からも言われていた。 「いまは、我慢の時だ。新進党は、辛抱がたりないぞ」
 平成八年十月、総選挙が行なわれた。新進党は、一五六議席と伸び悩んだ。新進党の将来に不安を抱いたのか、離党者が相次いだ。小沢党首への不満は、高まる一方であった。
 そして平成九年十二月、ついに解党という結末を迎えたのである。
 二階は思った。 〈振り返ってみると、そういう辛抱や訓練が足りなかった。エネルギーを結集できなかったことが残念でならない〉



 ・ 自由党、和歌山からの躍進

 平成十年三月、二階は、自由党和歌山県連の中西啓介、西博義らと参院選の候補者選定について協議した。
 前回三年前の参院選では、新進党新人の井脇ノブ子が、当選四回の実力者である自民党の世耕政隆に挑戦した。落選したものの告示一か月前に出馬を表明したにもかかわらず、世耕を四万票差まで追い詰めた。
 平成八年十月の総選挙では、新進党の得票数が自民党の得票数を上回った。比例区の得票数も、自民党に負けはしたものの、わずか二〇〇票差であった。
 それらを総合的に判断すると、自由党の候補者が当選できる下地は十分にある。
 二階らは話し合った。
「できるだけ知名度のある人、あるいは社会的な信用のある人を候補者に立てれば通るのではないか」
「いや、時代は若い人を求めている。フレッシュな候補がいいのではないか。自民党側からも、若い候補を立てられると厳しいという話も聞こえてくる」
 二階らは候補者を若手に絞り、三十一歳の鶴保庸介に白羽の矢を立てた。鶴保は、東大法学部卒業後、日本経済研究会主任研究員を経て小沢一郎の秘書を務めた。前回の総選挙では、新進党公認候補として和歌山二区から出馬。落選はしたものの、四万八〇四八票を得ていた。
 鶴保も出馬に意欲を見せ、三月末に公認となった。鶴保は、直ちに選挙運動を始めた。最大の強敵は自民党の前田勲男(元法相)であった。前田は、父親の佳都男から地盤を譲り受け、親子二代、五〇年に亘って自民党支持者に「前田」の名前を書かせてきた。その前田に挑戦するのである。鶴保は、懸命に県内を駆けずり回った。
 六月二十五日、参院選が公示された。
 報道機関の予想では、鶴保が勝つと報じたのは地方紙の一紙だけであった。中央紙やテレビ、ラジオはこぞって前田優位を報じていた。
 が、二階らは、そんな予想は一向に気にならなかった。中西の地盤である和歌山一区、二階の地盤である和歌山三区、そして前回の総選挙で比例区にまわった西博義のそれぞれの後援会が一丸となって戦った。まさに地を這うような選挙運動であった。
 小沢党首も、懸命に応援してくれた。都合三回、鶴保支援のため和歌山入りした。終盤の三日間は、和歌山に張り付いた。まさに、党をあげての選挙戦であった。全国各地にある宣伝カーも和歌山県に結集した。
 小沢は二階らに言った。
「ボクが入ったからといって、各国会議員の日程を動かしてはならん。計画通りにやってくれ。私は私の計画でいく」
 小沢は、その言葉どおり、新宮から紀伊半島を一周した。
 小沢いわく、「これだけマイクを握ったのは、二〇年ぶりだ。自分の若かりしころの選挙運動を、ふと思い出した」というほどの徹底ぶりであった。
 二階ら国会議員も、それぞれ別々のコースで選挙運動を展開した。小沢を含め四人が一か所に集まることは皆無であった。
 二階は情勢を分析した。
〈中西さんの地元和歌山一区は、県都でもあり、前回の参院選の実績からも、間違いなく勝てる。しかし、自民党現職のいる二区は負けるだろう。一区のプラスと二区のマイナスを合わせるとチャラになる。問題は、私の地盤の三区だ。三区で一票でも上回れば、勝てる〉
 二階は、後援会に檄を飛ばした。
「三区は、過疎地も多く、町や村の数も多い。従って自民党が強い。しかし、三区で一票でも多く取れれば勝てる。みんな、頑張ってほしい」
 七月十二日、投・開票が行なわれた。
 二階のもとに、出口調査の情報が途切れることなく入ってきた。勝てそうだ、という話を聞いたが、まだ信じられない。とにかく和歌山市に出向き、お世話になった創価学会の和歌山本部に立ち寄った。堀副会長を始め、学会幹部たちは勝利を確信している様子だ。二階は「徒手空挙で戦った鶴保君を誠心誠意、応援して下さった皆さんに、結果はどうであれ、心から御礼を申し上げたい」、続いて鶴保の選対本部に顔を出した。
 じつは、二階は、東京のテレビ局から討論会の出席を求められていた。が、勝っても負けても、応援してくれた支持者に挨拶しなければいけないと考え、和歌山に残っていたのである。
 選対本部は、勝利を確信し、沸き上がっていた。が、二階は、心から喜ぶわけにはいかなかった。
〈開票が確定するまでは、何が起こるかわからない〉
 和歌山県は保守王国である。九年前の参院選では社会党の土井たか子委員長のブームがわき起こり、自民党は二六の一人区で三勝二三敗と大惨敗した。自民党が勝った三選挙区とは、富山、佐賀、そして和歌山であった。もっともその当時、中西も二階も自民党に所属していた。しかし、予断は許されない。
 午後十一時、和歌山選挙区の開票が確定した。鶴保は、二二万一五九二票を得てみごと当選を果たした。前田との差は二万票余りであった。
 二階はようやく胸をなでおろした。
〈鶴保は二世ではない。全くの徒手空拳で、百円玉のカンパで選挙を戦い抜いた。推薦を頂いた民主党、公明党の応援、さらに鶴保を応援してくれた勝手連の動きが勝利につながったのではないか〉
 さらに二階は、勇気づけられた。
〈自由党は小所帯だが、懸命に頑張れば勝てるということが実証された。次期総選挙には、多くの方が自由党から立候補してくれるだろう。選挙は、立候補しないで当選する方法はない。まず、立候補することだ〉
 なお、鶴保は翌朝さっそく魚市場や青物市場に顔を出して挨拶した。
「選挙では、お世話になりました」
 そこにいた魚市場のおやじさんが、こう言ったという。
「選挙の応援を頼みにくる人はいっぱいいるけれども、当選してから、翌朝、こんなに朝早くお礼の挨拶にみえたのはあなたが初めてだよ」
 さらに駅前で街頭演説を行なった。
 出馬を表明してから毎日駅前に立っていたことで顔見知りになったサラリーマンや学生に声をかけられたという。
「当選してよかったね」
 二階はそれらの話を耳にし、確信した。
〈鶴保は全国最年少議員に恥じない活躍をしてくれるに違いない〉
 さて、自由党は、今回の参院選で五二〇万票を得た。選挙区一人、比例区で五人の当選と、合わせて六人を当選させた。
 二階は驚きを隠せなかった。
〈組織もまだ整備されていない状況で迎えた選挙にもかかわらず、よくこれだけの票が集まったものだ。国民の皆さんは、自由党=小沢一郎、小沢一郎=改革と認識し、期待できるのは小沢率いる自由党だという思いがあるのだろう。自由党は、これで蘇った〉
 二階はさらに分析した。
〈自民党の政策に対して不満をもち、苛立ちをもっている中小企業やサラリーマンなどのレベルの高い知識層に評価をされたのではないか。選挙運動で働きかけて得た票ではなく、黙って投票してくれた。新聞の愛読者の統計では、レベルの高い新聞の読者は、自由党支持者が圧倒的に多いというデータがある。世間の人は政治の舞台を観客席からしっかり見ている。それが、いま自由党の国会議員や地方の党員の大きな励みになっている。来年、統一地方選が行なわれる。堂々と自由党を名乗って戦おうという候補者がこれから出てくる政治環境が整いつつある。結党してわずか半年、よくぞここまでという気持ちだ〉
 二階は、国民の期待に応えていかなければならないと思った。
〈国民の皆さんが、われわれ自由党に大きなチャンスを与えてくれた。天は、小沢一郎を見放さなかった。媚を売ったり、へつらったり、相手の意見に口先だけ合わせたりする人が横行する永田町において、小沢さんはひとりまっしぐらに突き進んできた。その姿勢を好きだという人もいるが、嫌いだとアレルギーを起こす人もいる。しかし、正しいバランス感覚をもって、この国の未来を考えている人、この国の現実を考えて下さっている多くの人たちから支持を受けた。われわれは、その感謝の気持ちを政治の場にあらわしていく。真剣に汗をかいて努力していかねばならない。われわれは、大変な決意をして自民党を離党し、総選挙には新生党を名乗って当選してきた。だれかと話をつけて、提灯や懐中電灯で照らしてもらいながら、こそこそと川を渡ってきたわけではない。堂々と選挙の洗礼を受け、新生党の公認候補として自民党を相手に勝利して、再び国政に戻ってきたという自負心がある。われわれはこれまでの主張どおり改革の努力をしていく。日本国全体の改革を成し遂げるには、半年や一年という短期間では不可能だ。世界のために、わが国の政治がどうあるべきかということを真剣に考えないといけない時がきている。それだけに、責任の重大さを痛感する〉
 八月二十六日、小沢党首は、インターネットに個人のホームページ「一郎のネットでGO!」を開いた。小沢の唱える理念や政策を親しみやすい形でアピールするのが狙いである。
 ホームページを開くと、小沢が厳しい表情で両手を広げ、「今そこにある危機 自民、与党政治で日本はいいのか!?」と訴えている。その下にAからKまでのキーが並び、たとえばEの「一郎の政策ルーム」を選ぶと自由党と自民党の政策比較が出てくる。Fは「一郎のやさしい政治教室」。Kの「総理を目指せ」はゲーム仕立てになっており、Fで学んだ知識を三択回答方式で復習する。初級編に始まってレベルを徐々に上げ、全問正解すると「総理大臣」として回答者の氏名が登録される。
 開設から二、三日で、なんと一万六〇〇〇件ほどアクセスがあった。演説会に来ない人、投票に参加されなかった人の意見もどんどん寄せられている。自由党は、その意見のなかで政策として取り上げられるもの、取り上げるべきものというものがあれば、活用していきたいとしている。



 ・ 国対連携が連立へ

 平成十年七月三十日、小渕恵三内閣が発足した。それからまもなくのことである。院内の自由党国対委員長室にいた二階俊博国対委員長のもとに、自民党国対委員長に就任した古賀誠が挨拶にやってきた。
 二階と古賀は、かつて梶山静六国対委員長のもとで、共に副委員長として汗を流した仲である。二階は竹下派、古賀は宮沢派と派閥こそ違ったが、仕事に取り組むうちに親しくなった。
 その後、二階は、新生党を経て新進党に参画。袂をわかったため、付き合いはいっさいなかった。
 平成九年、全国旅行業協会の会長を務める二階は、この年の六月に行なわれる年次総会を前に一計を案じた。
〈これまで、運輸大臣が総会に出席したことはない。総会を盛り上げるためにも、今回は古賀大臣に出席してもらおう〉
 野党第一党の新進党は、自民党と激しく対立している。常識的に考えれば、自民党の古賀大臣が新進党の二階が会長を務める全国旅行業協会の総会に出席するのはむずかしい。
 しかし、二階には自信があった。
〈古賀大臣ならば、党派の壁を乗り越えてくれるはずだ。全国五七〇〇社の会員を擁する旅行業協会の総会に、交通行政の総元締めとして出席をお願いしても、そうつれないことはいうまい〉
 二階は案内状をもって運輸大臣室に古賀を訪ねた。
 二階は頭を下げた。
「ごぶさたしております」
 古賀はにこやかに出迎えてくれた。
「久しぶりですね」
 二階は用件を申し出た。
「全国旅行業協会の総会に、ご出席頂けませんか」
 古賀は二つ返事で快諾した。
「必ず、私が伺います」
 二階は意外であった。引き受けてくれるとは信じていたが、「日程を調整して、お返事します」というのが、大臣として精一杯の返答である。が、古賀は、蹄躇なく「出席する」というのだ。
 二階は感心した。
〈古賀さんは、懐が深い〉
 当日、古賀は挨拶した。
「私は、役人が書いてくれた祝辞を巻紙にしてもってきております。しかし、今日は読みません。祝辞の内容は、会報の偶にでも載せて頂ければ結構です。私はこれから、二階会長との友情の挨拶をさせて頂きます」
 与野党に分かれたふたりは、表面上は川を隔てた両岸で対峙していた。が、この総会以降、ふたたび気持ちがつながったように二階には思えた。
 さて、話は自由党国対委員長室にもどる。
 古賀は二階に言った。
「生意気なことをいうようだけど、法案をいついつあげるとか、委員会の審議をどうやって進めていくだとか、そんなことは時間がたてば誰だってできる。おれは、政治を安定させるという意味で、ひとつの枠組みをつくりたい。そういうことをやろうよ」
 二階は答えた。
「おれもそう思う」
 二階の反応を見た古賀は、思った。
〈いける……〉
 古賀は、その後も自由党の国対委員長室にひんぱんにやってきては、二階をかき口説き続けた。
「お互い、この国のために何とか協力しようよ。自民党がどうだ、自由党がどうだなんていう前に、この国のことを考えようじゃないか」
 二階は、古賀の熱意に感服した。
〈古賀さんは、本気で自由党に協力を求めている〉
 九月十一日、小渕首相は、政府が国会に提出予定の対人地雷全面禁止条約の批准承認案についての作業を急ぐよう、外務省に督促した。小渕首相は、外相時代に官僚の抵抗にあいながらもリーダーシップを発揮して署名にこぎつけた経験もあり、法案成立に意欲を燃やしていた。
 九月十五日敬老の日、古賀は、野中官房長官と対人地雷全面禁止条約について話し合った。その席から、二階に電話をかけた。
「対人地雷全面禁止条約の批准の承認をできるだけ早くしたいという小渕首相の要請で、協力をお願いしたい」
 古賀は、二階と電話で話しながらふと思った。
〈どうせだから、野中官房長官に電話を代わってもらおう〉
 古賀と野中は、自自協力を進めることで一致していた。
 古賀は二階に言った。
「じつは、あなたの長年の友人がこの横にいるんですけども、電話を代わりたいというので、代わってよろしいか」
 二階は訊いた。
「友人って、誰ですか」
「野中官房長官です」
 古賀は、そういうと野中官房長官に受話器を渡した。
 野中官房長官は、要請した。
「この対人地雷全面禁止条約の問題については、古賀国対委員長からお願いしましたが、このことについてぜひ協力してもらいたい」
「わかりました。検討します」
 二階は、さっそく小沢党首に報告した。
「野中官房長官と古賀国対委員長から、対人地雷全面禁止条約について協力を要請されましたが、どうしますか」
 小沢党首は答えた。
「それは、国対委員長に任せる」
 二階は、その夜、国対副委員長を召集して協議した。侃々諤々の議論の末、江ア鉄麿副委員長が言った。
「地雷は吊るすもんじゃなく、埋めるもんじゃないですか。ここらが潮時ですよ」
 つまり、いつまでも爼上に載せておくものではないという意味だ。
 対人地雷全面禁止条約は国対委員長に一任となり、二階は判断した。
「わが党は、賛成しよう」
 自由党の協力のもと、九月二十九日、対人地雷全面禁止条約の批准承認とその国内法である「対人地雷の製造の禁止、所持の規制等に関する法案」が衆議院本会議で可決。翌三十日、参議院本会議でも全会一致で批准承認され、法案も成立。政府は、条約締結の批准書を持回り閣議で決定し、国連に寄託する。
 いっぽう、自自両党は、金融再生関連法案では激しく対立した。
 古賀委員長が、二階に要請してきた。
「なにとぞ、自由党にも、ご協力をお願いしたい」
 二階とすれば、友情に報いたいという気持ちもあるが、自由党は"戦う政策集団"を任じている。おいそれと妥協するわけにはいかない。
 二階は、激しい口調で詰め寄った。ときには、興奮のあまり、テーブルを思い切り叩くこともあった。
「あなたの党の最高幹部が、北海道や金沢の講演で自由党を切り離すような発言をしているじゃないですか!そういうことを言っておきながら、国会審議に協カしてもらいたい、と言われるのはおかしい。幹部の真意は、どういうものだったのか、その説明をきちんとしてほしい。その後の協力要請であれば、耳を傾ける用意はある。しかし、それすらないままでは、われわれの主張とあきらかに異なる法案に協力するわけにはいかない」
 平成十年九月十八日未明、金融再生関連法案をめぐる与野党修正協議は、財政・金融分離と日本長期信用銀行への対応策に関する国対委員長レベルの調整に入った。
 深夜、民主党、平和・改革、自由党の野党三会派の国対委員長会談が行なわれた。
 民主党と平和・改革は、自民党との妥協の道を模索した。
 だが、自由党の二階俊博国対委員長は、破綻銀行の例外なき清算という原則論を主張し、自民党との妥協を拒み続けた。
 二階は言った。
「どうぞ民主党と平和・改革は、自民党とおやりください。われわれ自由党は、同調できません。従って国会対策も、これまでです」
 この日午後、小渕首相は、民主、平和・改革、自由、社民の野党四党首らと個別に会談した。
 小渕首相は、@財政と金融の分離及び金融行政の一元化は、次期通常国会終了までに必要な法整備を行なうA日本長期信用銀行は今回の立法で整備する、普通株を取得する形で一時国有化する「特別公的管理」などで対処する、との妥協案を示した。
 政府・自民党は、小渕首相が訪米のため日本を発つ九月二十日までになんとか法案をまとめようと必死であった。
 自由、社民両党は、態度を留保した。
 しかし、民主、平和・改革両党は、これを受け入れて合意。財政・金融分離の線引きや実施時期、さらに破綻前の金融機関に対する資本注入を完全にやめるかどうかなど与野党協議に決着が残された課題もあるが、金融再生関連法案は、野党案を共同修正する形で十月上旬に成立することになった。
 自民、民主、平和・改革の三会派の金融特別委員会の理事クラスの実務者は、キャピトル東急ホテルの一室に詰め、金融再生関連法案の修正作業を行なった。
 二階は、自民党の国対に皮肉を込めて言った。
「国会移転、国会移転といいますけど、とうとう国会はホテルに移ったんですか」
 十月二日、自民、民主、平和・改革の与野党三会派が共同修正した金融再生関連四法案が衆議院本会議で可決された。が、数の力で押し切った形で、審議らしい審議はまったくなかった。
 のちに民主党と自民党の一部が連絡を取り合っていたと伝えられた。二階は、民主党に違和感を覚えた。
〈なにを考えているのか、われわれには理解できない〉
 二階の民主党への不信はいまに始まったことではなかった。
 自民党は七月の参院選で惨敗し、過半数を回復できなかった。数の上で優位に立つ野党が協力すれば参議院議長、副議長、議院運営委員長、予算委員長など主要なポストはみな野党のものになった。しかし民主党は、この提案に乗ってこなかった。わずか一二人の所属議員しかいない自由党は野党の意地を見せて、負けを承知で自由党の扇千景参議院会長を参議院議長選挙に擁立した。民主党に反省を促すためであった。
 しかも、菅直人代表は「金融問題を政局にしない」と口にした。この発言を耳にした二階はさすがに頭を抱えた。
〈野党の国対は、毎日が政局に結びつける努力をしていくのが仕事だ。それなのに、野党のトップリーダーが政局にしないというのでは話にならない〉
 一方、この国会では二八兆円にものぼる旧国鉄債務の処理法案も焦点のひとつであった。
 民主党、平和・改革、自由党の野党三会派は、政府・自民党案の対案づくりを目指し実務者レベルの協議を進めていた。
 自由党の二階交通部会長は法案に盛り込まれているJRの追加負担を減額する方向で検討していた。
 二階は思っていた。
〈なんとか早く旧国鉄債務を決着させなければならない。政府お得意の"重要問題先送り"を続けていたら、二十一世紀には三〇兆円になってしまう。その責任は、だれにあるのか。間違いなく政治家に責任がある。われわれは野党といえども、その責任を負わないといけない。それならば、いま決着させる必要がある。しかも、これから行政改革などで省庁の合併が言われるときに、こういう大きな問題を抱えたままでは、それすら難航しかねない〉
 しかし、民主党、平和・改革はJR負担をなくすべきだと主張した。
 野党三会派の調整は、難航。
 結局調整はつかず、九月十六日、民主党と平和・改革は、法案からJR負担の追加負担を削除し、日本鉄道建設公団に肩代わりさせる対案をまとめた。自由党は、置いてきぼりにされたのである。
 二階は憤慨した。
〈この国会は単線の列車を進行させているようなものだ。一番列車である「金融再生関連法案」を飛び越えて、「旧国鉄法案」が先に審議されることはありえない。それなのに、なぜそんなに急ぐのか。しかも採決で多数を得られそうにない非現実的な法案じゃないか〉
 自由党は独自の対案をまとめることになった。が、自由党は"戦う政策集団"を任じているだけに議論百出であった。
 政府提案を支持して意見を言うもの、JRの立場で意見を言うもの、たばこ関係の立場で意見を言うもの、筋論を言うもの、さらには、政局論で意見を言うもの……。
 しかも、党内には運輸省大臣官房審議官を経験した泉信也、運輸省海上技術安全局長を経験した戸田邦司の二人の元運輸官僚、羽田内閣の運輸相である二見伸明、中曽根内閣時代に国鉄民営化に取り組んだ渡辺秀央ら、運輸行政に精通した錚々たるメンバーがいる。党内で活発な議論が展開された。
 その最中、地元和歌山の自宅にいた二階のもとに、社民党の伊藤茂副代表から電話がかかってきた。
 ふたりは党派こそ違うが、ときどき意見交換をする親しい間柄であった。きっかけは、細川内閣である。伊藤は運輸相として入閣することになった。再度の運輸政務次官に起用された二階は、私淑し、指導を仰いできた奥田敬和元運輸相に言われた。
「おれと伊藤は、陸軍士官学校の同期生だ。われわれは十五歳のとき、国のために、と一片の疑いも持たずに戦場におもむき、生死を共にした仲間だ。きみはその伊藤と大臣・政務次官としてコンビを組む。一所懸命援けて、伊藤からは、運輸省以外のことで指導を受けてこい」
 それ以来の付き合いであった。
 伊藤は言った。
「旧国鉄債務法案の処理について、二階さんはどう考えているんだ」
 伊藤は、衆議院国鉄長期債務処理等特別委員会の理事であった。
 二階は答えた。
「放っておけば二十一世紀には、三〇兆円になります。それでいいと思いますか」
「そういうわけにはいかん」
「我々はなんとかしないといけないと考えています。上京したら、伊藤先生のお部屋に伺いますから、そこでもう一度よく話し合いましょう」
「わかった」
 月曜日、上京した二階は直ちに伊藤の部屋を訪ねた。いろいろと意見交換したところ、ほとんど意見が一致した。むろん、社会党時代から引きずっている労働組合の問題もあり、一〇〇%一致したわけではない。が、早急に解決の方向にもっていくために努力することを元大臣と元政務次官のコンビで確認しあった。
 やがて社民党案、つまり伊藤案がまとまった。
 自由党も、党内で議論がまとまった。足らざるところは付帯決議で処理しようとその案文もまとめた。
 環境が整ったところで、自由党は、運輸省に申し入れた。
「運輸省案を修正できないか」
 運輸省は当然のことながら自民党に相談をもちかけた。自民党は、自由党に申し入れてきた。
「このことに関して協議をしたい」
 しかし、二階は断った。
「われわれの案に賛成なら、賛成してくださって結構です。しかし、自民党と協議するわけにはいきません」
 自民党は金融再生関連法案で民主党、平和・改革と協議している。蚊帳の外におかれた自由党が自民党と協議して案をつくるという政治的な雰囲気ではなかったのである。
 そうこうするうちに、自民党、民主党、平和・改革の三会派による金融再生関連法案の修正案が明らかになってきた。
 二階はその中身をみて憤慨した。
〈どう考えても産業界の大多数を占める中小企業の問題が置き去りにされている。冷淡な扱いを受けているじゃないか。これは許せない〉
 十月一日夜十一時過ぎ、二階は自民党の古賀誠国対委員長に電話を入れた。
「お目に掛かりたいのですが」
 古賀は答えた。
「私が伺うべきですが、できればこちらにお越し願いたい、隣に官房長官がおられます。三人で話せば早いじゃないですか」
 二階は院内の自民党国対委員長室に足を運んだ。部屋に入ると、野中官房長官の姿があった。
 二階は軽く会釈した。
〈なにか打合せをしていたんだな〉
 二階は古賀に申し出た。
「中小企業への貸し渋りの問題、なかんづく信用保証協会の拡充強化を図ることによって中小企業を助けないといけません。いま大手の金融機関に対して、貸し渋り対策だ、なんだといっているが、地方には、都市銀行はそんなにない。私の選挙区である和歌山三区には、わずか一行の支店があるだけです。郷里では銀行が一行潰れ、いま信用組合が潰れかかっている。信用保証協会が本気になって中小零細企業に手を差し伸べることをしないと、政治にならないではありませんか」
 二階はさらに続けた。
「この中小企業の問題を、なぜ自民党はもっとしっかりやらないんですか。われわれ三野党会派が提出した問題ではあるけども、残念ながら他の野党は情熱を傾けてくれる状況ではない。自民党が本気になってくれれば、われわれと自民党とで、中小企業の貸し渋り対策を実現することはできる。もし、自民党がこのことに協力してくれないならば、旧国鉄債務法案は責任をもてない。私は反対にまわりますよ」
「わかりました。ちょっと失礼します」
 古賀はそう言うと、隣の部屋に誰かと連絡を取りにいった。
 部屋には、二階と野中官房長官の二人だけが残された。国対委員長同士の話ゆえ、口を挟まなかった野中官房長官が、二階に訊いてきた。
「自由党は、ほんとうに旧国鉄債務法案にご協力してくれますか」
 二階はきっぱりと答えた。
「われわれは、協力するといった場合には何の駆け引きもなく協力します。国のためになるということなら、これまでにも何度も協力してきたはずです。ですから、中小企業の問題は真剣にやって頂きたい。これをやって頂けるなら旧国鉄問題もスムーズにいくでしょう。われわれは、従来からそういう決意を固めています」
 野中は言った。
「出来るだけ早い機会に改めてお会いしたい」
 二階は言った。
「官房長官は忙しいでしょうから、時間の都合がつけば私のほうからお訪ねしてもいいですよ」
 野中と二階は、近く改めて話し合うことを約束した。
 戻ってきた古賀は提案した。
「国対委員長同士で話し合って、中小企業の貸し渋り対策をまとめることにしよう」
 二階は直ちに古賀と合意文書の作成にかかった。
 この両国対委員長の合意によって、自民、自由の協力により、中小企業への貸し渋り対策は、今日、日本中の中小企業の救世主のような貢献を続け、全国の中小企業が救済された。
 十月二日、官邸に野中官房長官を訪ねた二階は迫った。
「小沢党首と野中官房長官は、お互いに国家のため政治家として話し合いをされてはいかがですか」
 野中は答えた。
「この際、是非お会いをしたい。党首と話し合うことは大事なことだと思う」
「官房長官は、あと五〇年ほど政治をおやりになるつもりはありますか」
 野中官房長官は、右手を振った。
「いやいや、小沢さんは、まだ若いので長くやるだろうが、私はそんなに長くやるつもりはありません
「それでは、これは急ぎますね」
「小沢さんにお会いいただけるなら、私はいつでも結構です。ぜひ、お願いしたい」
 二階は言った。
「さっそく、小沢党首に話します。旧国鉄の債務については、まず官房長官と野田幹事長が話し合われたらどうでしょうか」
「それでは、改めて自由党に古賀国対委員長を連れ立ってお願いにあがります」
 十月五日の午前九時、野中官房長官と古賀国対委員長が院内の自由党控室にやってきた。野田毅幹事長と二階国対委員長が対応した。
 野中官房長官は改めて要請した。
「旧国鉄債務問題について、是非、自由党の協力をお願いしたい」
 午前十時、二階らは自民党の要請を党本部に持ち帰った。小沢党首、野田幹事長、二見伸明元運輸相、二階国対委員長の四人で旧国鉄法案に対しての基本的な方向を協議した。
 午前十時半、自由党本部に川崎二郎運輸相、黒野匡彦事務次官、小幡政人鉄道局長がやってきた。運輸省として正面から自由党に協力を要請するためである。
 川崎運輸相は言った。
「自由党の考えをお聞かせ頂きたい」
 小沢党首が、党の方針を説明した。
「旧国鉄債務の支払いが困難な経理状態にある北海道、四国、九州、JR貨物については、政府が無利子貸付けや国庫補助、税制措置などで負担増を上回る支援をする。利益を上げている東日本、東海、西日本に対しては、企業が負担する」
 川崎運輸大臣は直ちに「政府としても賛成できますので、政府案を修正します」
 自民党の対応は、素早かった。政府と自民党で話をまとめ、この日の午後一時、衆議院国鉄長期債務処理・国有林野改革等特別委員会が自民党理事の杉山憲夫、自由党理事の江ア鐵磨、社民党理事の伊藤茂らの活躍で開かれることになった。従って、野中官房長官、古賀、二階の自・自の国対委員長に加え、現場の特別委員会の杉山、江ア、伊藤のコンビの努力により、自民、自由、社民三党が共同修正案を提出することになった。特別委員会は賛成多数で可決。翌六日の午前中には衆議院を通過した。なお、杉山と二階は、かつて経世会、新生党、新進党と共に歩んだ頃の同志であり、二階が師と仰ぐ遠藤三郎(元建設相・故人)の秘書の時代に、杉山は遠藤会の青年部長として活躍していた旧知の仲であった。江アの父 江ア真澄(元通産相・故人)と二階は、江ア真澄が遠藤三郎、さらに小沢佐重喜(元建設相・故人 小沢一郎自由党党首の父)等と藤山愛一郎の参謀であった関係で、二階は若い頃から江ア真澄の指導を受けていた。
 いっぽう、極秘裡に進められていた小沢・野中会談を前に、二階は古賀に訊かれた。
「相談があるんだけど、野中さんが小沢さんに会ったとき、最初の挨拶をなんて言えばいいのかな」
 小沢と野中は、経世会分裂抗争以来、激しく対立してきた。野中は、小沢のことを「悪魔」呼ばわりしている。それゆえ、最初に何と言えばいいのか、いい言葉が見つからないというのだ。
 二階はアドバイスした。
「この七日に韓国の金大中大統領が来日するでしょう。だから、日韓方式でいこうじゃないですか」
「日韓方式?」
「金大統領は、ソウル駐在の日本人記者団との懇談で、『韓日両国がこれ以上の葛藤を続けることなく、きれいに清算して、信頼と理解、協力の時代に入ることを心から望んでいる』とおっしゃっている。つまり、過去は問わない。未来指向ということだ。素晴らしい言葉だと思う。政治は、井戸端会議でものが決まるわけではない。国の運命を担っているもの同士が、将来を見据え、大局にたって話し合うべきだと思う」
「なるほど」
 その後、まもなく古賀から連絡が入った。
「わがほうは、その方式で結構です」
 二階は答えた。
「まだ党首には相談していないけど、党首もそれで了承されると思う」
 二階は小沢党首に要請した。
「野中官房長官と会談をお願いします」
 小沢党首は受け入れた。
「自分は、個人的なことで野中さんとの間にわだかまりはない」
「自民党の方へは過去は問わない未来志向だと言ってありますが」
「当たり前だ」
 小沢党首の了解を取りつけた二階は、直ちに古賀に連絡を入れた。
「こちらも、オーケーです」
 双方の日程を調整し、会談は、十月八日と決まった。場所は帝国ホテル。
 二階は、古賀と前もって打ち合わせした。
「お互いに党の運命、ひいては国の運命も背負っての話になる。二人だけで話し合いをされたほうがいい。われわれは、国対の用があると言って途中で退席しよう」
 十月八日、いよいよ小沢・野中会談がはじまった。二階と古賀は、コーヒーを一杯飲みおえたあと打ち合わせどおり席を立った。
「われわれは、国対の話があるので席を外します」
 ふたりは部屋の外に出た。
 四十分ほどたったであろうか。
 二階は、古賀に声をかけた。
「大きな音も聞こえてこないし、騒ぎにはなっていないでしょう。そろそろ中に入りましょうか」
 ふたりは、部屋の中に入っていった。
「どうですか」
 話がまとまったのか、小沢はすっきりとした表情であった。
 しかし、野中の姿が見えない。
 二階は思った。
〈どこにいったんだ〉
 やがて隣の部屋から野中が出てきた。スーツからモーニング姿に着替えている。
 野中は言った。
「これから、官邸で金大統領夫妻の歓迎晩餐会があるんだよ」
 歓迎晩餐会は、この夜七時から開かれるようになっていた。
 野中は、そういい残し、そそくさと部屋を後にした。
 この小沢・野中会談は、自自連立を大きく前進させるターニングポイントとなる。
 十月十五日、旧国鉄債務処理法が参議院本会議で可決した。一一年もの長きに亘って延び延びとなり、どの内閣も先送りしてきた法案が鮮やかに成立した瞬間である。
 自民党と自由党との間に急速に信頼関係が芽生えた。小渕首相と小沢党首は、旧竹下派で同じ釜の飯を食い、竹下内閣では官房長官、官房副長官でコンビを組んできた。外国の賓客を迎えるレセプションや宮中行事などでは、たびたび顔を合わせて言葉を交わしている。旧国鉄債務処理法案の取りまとめの際には、電話で何度か会談もしていた。
 野中官房長官もマスコミを通じてしきりに自由党にラブコールを送りはじめた。
 二階は思った。
〈自民党は、法案ごとにパートナーを変えて取り組むことに疲れてしまったのだろう〉
 そして、十一月十九日、小渕首相と小沢党首が会談し、自自連立の合意に至った。
 新党平和の草川昭三国対委員長は、おどろいた。
〈ここまで話が進んでいたとは……〉
 平和・改革は、野党三会派による旧国鉄債務処理法案の協議でJR負担をなくすべきだと主張した。JR東日本、JR東海、JR西日本三社に微妙な意見の違いがあり、うまくまとまる状況ではない。それに、七月に行なわれた参院選で、公明はJR東日本の労組から支援を受けた。JR東日本は、その話し合いに否定的だったのである。
 野党三会派の調整は、難航した。
 結局、民主党と平和・改革の二会派で、法案からJRの追加負担を削除し、日本鉄道建設公団に肩代わりさせる対案をまとめた。
 自由党は、単独で法案作業を進めた。このとき、草川国対委員長は、自民党の古賀国対委員長と自由党の二階国対委員長の間で何かが動いている、という雰囲気を察知していた。
 草川は党幹部に進言した。
「これは、潮目が変わりますよ。自自で新しい動きをするんじゃないですか」
 幹部は答えた。
「いや、そんなことはない。自自両党だけでは、参議院で過半数に届かない。われわれが協力しなければ成立しないよ」
 だが、自由党は、自民党と組み、さらに社民党の協力を得て旧国鉄債務処理法を成立させた。さらに、自自両党は、十一月十九日の党首会談の結果、自自連立で合意したのである。
 二階は、小渕・小沢党首会談について思った。
〈お互いに国家的な危機的状況にあるという共通の認識がある。緊急に解決しないといけない問題が山積しているときに、政治の責任を果たすため、共に手を握って立ち上がろうとしている。過去のことにはいつまでもこだわらず、未来に向かって国民に責任を果たすために連立を組む。この大きな流れは国民が最も期待する必然のものではないか〉
 そして、平成十一年一月十四日、自自連立政権が発足した。
 自自連立政権発足後、二階は、古賀に打ち明けた。
「岐阜の正眼寺の谷耕月大老師をご存知ですよね」
「知ってますよ。田中六助先生の人生の師ですから」
 古賀の師匠である田中六助は、初出馬のとき、落選を経験している。うちひしがれ、ある意味では政治家になること自体をあきらめようかというくらいまで追い詰められた人生で最大の危機のときに、谷耕月にめぐり合った。それ以来、田中は、人生の師として大事にしていたのである。
 二階は言った。
「じつは、谷大老師は、私の郷土の出身なんですよ。郷土の大先輩という関係もあって、谷大老師の馨咳に接する機会がたびたびあった。田中六助先生の話が、よく出てきましてね」
 古賀は、おどろいた表情で答えた。
「ああ、そうなんですか。私も、ずっと田中先生から聞いていたので、谷大老師のことはいやというほどインプットされているんですよ。残念ながらお目にかかることはできませんでしたけど」
 二階は言った。
「谷大老師は、『困ったときにしめたと思え』と言うんです。どうしてかな、と思ったんですが、つまり、困ったときは逆にチャンスだという意味だと気づいたんです」
 古賀は大きくうなずいた。
「田中先生も、同じようなことを言ってましたよ。『ピンチは、チャンスだ。平凡の中で自分の生きざまを問うより、一番困っているとき、自分にどれだけの能力があるのか一番わかる。だから、政治家はいかなる時でも逃げちゃいけない。前へ前へと進んでいく。切り開いていく。それが大事だ』ってね。しかし、それにしても、なんでもっと早く話してくれなかったの」
 二階は笑みを浮かべた。
「そんな話で連立の作業をごまかしてはいけないと思って、黙っていたんですよ」
 二階は思った。
〈苦労しながら自自連立を推し進めた私と古賀さんは、不思議な縁でつながれていたんだな〉



V部 運輸大臣・北海道開発庁長官に就任
 ・ 自・自連立の歴史的判断

 平成十年十一月十九日、小渕恵三首相と自由党の小沢一郎党首が歴史的な会談を行ない、自自連立が合意した。しかし、政策協議はなかなか合意に至らず、連立解消という声もささやかれはじめた。
 自由党の二階俊博国対委員長は思った。
〈両党が言いたいことを言っていれば、壊れるに決まっている。その可能性もないことはない。自民党内には、心から連立政権の成立を願う人と、そうでない人がいる。「何が実行されるかという担保、確約もないうちになぜ急いでいっしょになるのか」「小さな政党の自由党のいいなりになり、小沢の恫喝によって自民党は何もかも譲ってしまうのか」と言われれば、両党ともに、さようでございますと言える政治家はいない〉
 マスコミは連日報道した。
「自由党はハードルを高くしている。閣僚ポストや副総理ポストを要求している」
 二階はさすがに腹にすえかねた。
〈われわれはそんなことを言っているわけではない。自由党は閣僚数の削減を要求している。その自由党が閣僚ポストを三つも四つも要求するなど、バランスからいってもできるわけがない。われわれは、自分たちの主張さえ通してもらえば閣僚はゼロでも結構だと言っている。これは、駆け引きでもなんでもない〉
 二階は自民党のある議員から言われた。
「ハードルを低くしてくれ」
 二階は憮然として言った。
「ハードルって、いったいどのハードルを低くするんだ」
「そんなことは私にはわからない。だが、ハードルを低くしてもらえなければ一緒にやっていけないとか、連立政権が進まないと自民党内の中で言われている」
 二階は思った。
〈これは、とんでもない方向に議論がいっているんだな〉
 十二月下旬、小沢党首は小渕首相から第三回目の党首会談を要請された。
 当初、小沢党首は党首会談を受けるつもりであった。が、連日、自由党がポストを要求してごねている、という報道が流されている。党内にも、「これなら連立政権は断念せざるをえないのではないか」という声がにわかに起ってきた。
 小沢党首も、人事の話なら党首会談に応じられない、と二十八日に予定されていた会談の延期を申し入れた。
 二階は思った。
〈党首会談で、どこが問題になっているのか、ということをはっきりすべきだ〉
 十二月二十九日、二階は小沢党首に進言した。
「われわれの主張だけを繰り返しているだけでは、国民の皆さんにとってもわかりにくい。政策の合意がなければその先は進まない、ということを改めて国民の皆さんにも理解をしていただく必要がある。そのために、党首会談はあってもいいんではないですか」
「今日おれが行くと、連立が壊れるかもしれない」
「われわれは党首と一体となって進んでいます。かつて、金丸さんが田中(角栄)先生のことを称して、『親方が右向けといったら右だ。左向けといったら左だ』と言われた。中曾根内閣をつくるために田中派をまとめるとき、親方がそう言う以上そうだと言った、あの通りじゃないですか。ぶっこわれても結構ですよ」
「そこまでみんながそういうふうに思ってくれるなら、今日、人事は除いて政策中心の会談にならば応じる」
「わかりました」
 二階は、直ちに古賀国対委員長を通じて官邸側に申し入れた。
「人事の話を抜きにして、政策中心の党首会談をお願いしたい」
 官邸側も了承した。
「よくわかりました。それで結構ですから、年内に政策を詰めるところは詰めておきたい」
 午後九時前、小沢党首は首相官邸に向かった。
 二階は小沢党首の後ろ姿を見送りながら思った。
〈場合によっては、この会談によって連立が壊れるかもしれない。われわれが提案している政策を曖昧に飲み、まるで子供をあやしているような調子で真剣に受け止めないということであれば、それもしょうがないのではないか。自自連立は、自由党の議員にとっても政治生命がかかっている。各議員がこれまで選挙区で行動してきたこと、世間に発表してきたことと自自連立のための政策課題が合致するのか。小沢党首は、「一人ひとりの国会議員の意向を確かめておきたい」と全員と話し合いを行なった。そして、われわれ全国会議員が小沢党首に一任することを決めた。
 自民党は、いい言葉でいえば幅が広くて奥行きもある。歴史も伝統もある。さらに論客もそろっている。それぞれ整備された派閥がある。こういう状況のなかで、議論が簡単に結論を得られないということは、わからないわけではない。しかし、この国難ともいえるような状況におかれているときに、政治家としてこの状態を打開していくために何をなすべきか、何をすればいいのか。そのことを考えて、われわれは、政策の似かよったグループが一致団結、一致協力して国難に立ち向かおうと決意したのだ〉
 党首会談は、余人をまじえず四〇分にわたって行なわれた。会談を終えた小沢党首は満足そうな表情をしていた。
 二階は思った。
〈感触が良かったんだな……〉
 平成十一年の年明け早々、政策ごとのプロジェクトチームをつくり、協議に入った。
 一月十三日朝八時、二階らは自民党の古賀国対委員長、参議院自民党の青木幹雄幹事長と協議をした。最終的に、自民党の池田政調会長、外務省の担当局長の加藤総合外交政策局長などを相手に小沢党首自らが鉛筆をもって一つひとつの交渉の詰めを行なった。
 そして、懸案だった日米ガイドライン関連法案で最終的に合意。
 二階は思った。
〈自由党内には、われわれがこれまでのしがらみや過去のことをすべて脱ぎ捨てて連立の道をいこうと決意したにもかかわらず、自民党の対応は温度差がありすぎではないか、という不満の声もあった。が、自民党執行部は、われわれのそうした指摘、あるいは不安に対して次第に理解を示し、この道以外にない、という判断をくだした〉
 自自連立の過程を振り返ると、政策協議でボタンの掛け違いになりかねないような心配事もあった。
 十一月十九日の合意文書には、自由党の提示した政策をすべて理解し、ともに実行するために共同の政権を担うと書いてある。が、驚くべきことに自民党のなかには、「合意文書は自由党の意見であって、このなかから必要と思われるものを順次議題にのせていけばいい」と解釈した人もいた。
 しかし、合意文書で、政策の方向性で一致し、これを具体化し、予算は責任をもって年度内に成立させるという約束を交わしている。議論の余地も、疑いをさしはさむ余地もない。
 自民党は自由党より七倍も大きな政党だ。いい面においても、そうでない面においても、決断、決定に多少時間がかかるのは仕方がない。それに、お互いにそれぞれ選挙を争ってきた仲だ。小渕・小沢会談で意見が一致したからといって、末端の兵隊にいたるまで右向け右で直ちに従うというのはむずかしい。この程度のタイムラグはやむをえなかったのではないか、と二階は思う。
 連立政権は、壊れることはたやすいガラス細工である。が、小沢党首は政策的に合意がなければ、あるいは政策的に約束したことが実行される見通しがなければ解消しようということで取り組み、合意を前進させた。
 ただし、小沢自由党だけの頑張りでそういうことになったということではない。自民党側もずいぶん理解を示した。あれだけの大きな政党であるがゆえ、色々なしがらみもある。そのなかで思い切った改革案にのってきたという勇気は、大いに評価されてしかるべきだと二階は思った。
一月十四日、自自連立政権が発足することになった。
 小沢党首は、小渕首相に求めた。
「自由党から、二人を入閣させてほしい」
 小沢党首は、野田毅幹事長と二階を入閣させようと考えていたのである。
 二階は小沢党首に言われていた。
「野田幹事長と、あなたに入閣してもらおうと思う」
 しかし、自自両党の政権協議により閣僚数が三つ減った。そのうえ自由党が二ポストを得るのは厳しい状況であった。
 二階は言った。
「私は国対委員長として、自自連立政権発足のために、頑張りすぎるほど頑張ってきました。しかし、敢えて閣僚入りは考えておりません。もっと早く、このことを申し上げようと思っておりましたが、入閣の要請もないのに、『私は入閣をお断りします』というのもおかしな話ですので何もいいませんでした。私の後援者も、今回ぜひ入閣をしてもらいたい、という人はひとりもおりません。私は、まず連立の象徴として小沢党首がお入りになることを望んでいます。それが叶わなければ野田幹事長がおやりになる。私のことは、ご放念下さい」
 小沢党首はいった。
「私は選挙応援などで、たびたび和歌山県に行っている。選挙区の人たちはなにも言わないというが、二階さんの入閣を今や遅しと待ち望んでいる気持ちを十分すぎるほど感じている。あなたには、今日まで党のためにご苦労をかけている。野田幹事長と二人で入閣してもらいたい。二名は無理だということであれば、今回は野田幹事長に入閣してもらう。次の機会に、あなたが入閣できるように努力しよう」
 結局、自由党に割り振られた閣僚ポストは一つとなり、野田幹事長が自治相として入閣した。
 二階は、自民党の古賀誠国対委員長や自民党筋の強い要望もあり、引き続き国対委員長に留任することになった。
 これまでは野党の国対委員長として、政局に持ち込もう、政権を奪い取ろうという側にいた。が、今度は与党の立場になり、予算案をはじめ重要法案を一日でも早く成立させるという側に立った。まったく仕事の内容が変わってしまった。
 二階は自分に言い聞かせた。
〈自自連立政権は、国民の理解を得るためにも一日も早く重要法案を成立させる。自自連立政権によって、政治にパワーとスピードを増した、ということを国民に感じてもらえるような国会運営、国会対策をやっていかねばならない〉



 ・ ガイドラインで大奮戦

 平成十一年三月十二日、新しい日米防衛協力のための指針、いわゆるガイドライン法案の審議が衆議院本会議で始まった。
 三月十八日には、衆議院ガイドライン特別委員会が開かれ、本格的な論戦がスタートした。だが、自由党は「周辺事態」の定義の明確化にこだわり、自民党との協議は難航した。小沢党首は、連立離脱も辞さずという強硬な姿勢を見せていた。
 自由党の二階俊博国対委員長は、思った。
〈自自連立の際には、三つの重要課題があった。一つは、政府委員制度の廃止、閣僚の削減、公務員の二五%削減、国会議員の五〇名定員を減員などの政治行政改革。二つは、国の安全保障問題。三つは、経済の回復についての提言。他党からは、「情報公開法について議論が行なわれないのはけしからん」という批判も浴びた。が、この短期間に隅から隅まで議論ができないのは当然のこと。現在置かれている日本の危機的状況、いわば日本有事の状況を打開するための政策は、その三点に絞られる。
 安全保障問題については、自自連立を構築する中で意見交換を精力的にやってきた。小沢党首は、小渕首相や野中官房長官と再三にわたって話し合い、ある程度の意見の一致、合意を見い出し、最終的に自自連立に踏み切った。従って、ガイドラインの問題で決裂するということは、自民党政権を支えていくという重要な根拠を失う。そうなれば、いわずもがな連立の解消に進んでいく。が、そこまでいくということは小渕政権にとっても大変なことだ。同じように自由党にとっても重大な局面を迎えることになる。しかし、たとえその重要な局面であろうとも自由党は政策を中心にまとまっている政党だ。初志貫徹ということならば、自由党は全員一丸で突っ込んでいくことになるだろう。だが、そうなれば、自民党のため、あるいは自由党のためというのではなく、この国のためにいいことではない。国民が期待していることでもない。徹底的に話し合えば、合意点は見い出せる。また、見い出す努力をしなければいけない。それぞれの主張を徹底的にぶつけるということは当然だが、同時に自自連立を守り、大きく拡大していく。そのために、われわれはなにをなさなければいけないのか。これは二つの相反する道ではない。同じ方向だ。必ず一致点が出てくる〉
 しかし政府・自民党は、自由党ではなく公明党との協議を重視しはじめた。
 さらに、衆議院ガイドライン特別委員会の山崎拓委員長は、「安全保障問題は幅広い国民的基盤が大切だ」として、公明党だけでなく、民主党の賛成を取りつけて自自公民の枠組みでの法成立を目指していた。YKKの一人である山崎は、加藤らと自自連立には消極的な立場をとっている。
 二階は苛立った。
〈自自公民では政治にならない。民主党がまとまってガイドライン関連法案に賛成してくれるというのは、一年、二年待っても無理な話だ。山崎さんの動きは、自由党外しじゃないか。古賀誠(自民党国対委員長)さんに、文句をつけてやろう〉
 二階は自自両党の衆参国対委員長会談の席で古賀に迫った。この会談は毎週月曜日の午後三時から定期的に開かれている。
「"自公""自公"という言葉がさかんに報道で踊っておるが、これは、まことにおかしいではないか。自自でまとまったものを、公と折衝するならわかる。しかし、自自でまとまったものを、自公の協議で引っ繰り返し、相反する取決めをするのなら、自自連立の解消が先じゃないか」
 古賀は素直に頭を下げた。
「まったくその通りだ。申し訳ない。さっそく、執行部およびそのことを推進している筋に、自由党から厳重抗議があった、ということを伝えておく」
 それでも山崎委員長は、自自公民による合意づくりを進めた。四月二十五日午後、森幹事長に電話で伝えた。
「自自で突っ走れば、採決をしない」
 山崎は、委員長辞任をちらつかせながら民主党の折衝に執念を見せた。
 一方、池田行彦政調会長は、自由党との連立維持を最優先させた。
 この日午前十一時三十分から自自の国対委員長会談が開かれた。
 午後零時には、自公の国対委員長会談。
 午後一時、自自・公の国対委員長会談。
 午後二時、二回目の自自・公の国対委員長会談。これらの会談は、院内の公明党役員室で行なわれた。
 二階が顔を出すと、すでに自民党の古賀国対委員長、公明党の冬柴鉄三幹事長が顔をそろえていた。
 一方、ホテルニューオータニでは自民党の池田政調会長、自由党の藤井幹事長が会談を行なっていた。それに古賀国対委員長と二階国対委員長が加わった。さらに、その席に、公明党の冬柴幹事長と草川昭三国対委員長が加わった。
 その会談で、『船舶検査活動に関する条項は削除し、今国会中にも別途、立法措置をとることとし、直ちに、自民、自由及び公明・改革の三会派間で、これについての協議を開始する』という覚書がまとまった。
 このときすでに自自公の合意がなされていたのだ。
 午後八時、ホテルニューオータニで自由党の小沢党首、藤井幹事長、二階国対委員長の三人が自自公の合意について話し合った。
 午後八時半、小沢党首はオーケーを出した。
 午後八時四十五分、自自・公の幹事長・政調会長会談が開かれた。二階は、藤井幹事長に言われた。
「国対委員長も来て下さい」
 二階は古賀、草川と共に出席した。
 この会談で、自民党の森幹事長、自由党の藤井幹事長、公明党の冬柴幹事長は、覚書にサインを書き入れた。ガイドライン関連法案が、ついにまとまった瞬間である。
 四月二十六日午後、衆議院ガイドライン特別委員会が開かれた。自民、自由、公明三党は、「原則事前、緊急時事後」の国会承認規定や周辺事態の定義に「そのまま放置すれば、わが国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等」という例示を加えた周辺事態法案の共同修正案を提出。三党の賛成多数で可決された。
 翌二十七日午後、衆議院本会議が開かれた。ガイドライン関連法案は、自民、自由、公明三党などの賛成多数で可決。参議院に送られた。
 二階は胸をなでおろした。
〈ガイドライン関連法案は、これまで三国会で棚ざらしにされた。ようやく今国会で本格的に審議し、成立させることができる〉
自自公「三兄弟」の活躍
平成十一年六月四日早朝、自由党の二階俊博国対委員長は、いつものように朝刊各紙に眼を通していた。
 二階は朝日新聞の政治面をめくった。そこには、「自由党『自公』の海に沈むか」との大見出しが踊っている。自由党の存在感が薄れ、与党に埋没しかかっている、という内容の記事であった。ここ数日、他紙にも同じような記事が掲載されている。
 しかも、自自両党の詰めが終わっていないのにもかかわらず、自公の合意により住民基本台帳法改正案は成立する、との記事も掲載されていた。
 住民基本台帳法改正案とは、すべての国民にコード番号をつけ、住所や氏名などの情報を全国の市区町村を結ぶコンピューター網に入力して一元的に管理するものである。
 二階は憤った。
〈これは、おかしい〉
 この日午前、自由党の国対会議が行なわれた。出席者から、それらの問題に対して指摘された。
 二階はその場から直ちに自民党の古賀誠国対委員長に抗議の電話を入れた。
「住民基本台帳法改正案の合意の経過に異議があります。自自公で一致したから、というなら話はわかる。しかし、自民党と公明党で一致したからといって、しゃあしゃあとやるのなら、どうぞこれからすべてその調子でおやりください。そのかわり、近く自由党の党大会が行なわれますが、その前に連立を解消します」
 二階はこれまで一度も「連立解消」などと言ったことがなかった。その二階が「連立解消」を口にしたのである。小沢一郎党首や藤井裕久幹事長と相談したわけではない。あくまでも、二階個人の決意を伝えたのであった。
 それからまもなく、古賀は大島理森国対委員長代理を連れて院内の第十六控室、つまり自由党の国対委員長室にやってきた。
 二階は新聞のコピーに赤いボールペンで線を引っ張り、厳しい口調で言った。
「赤線を引いた部分を読んでください。国民の眼にはこういうふうに映っている。いくらあなたがたの説明を受けても、北海道から沖縄までの国民にどうしてこのことを説明できるんですか。みんな自民党と公明党の意見が一致すれば、なんでも通ると思っている。公明党が何かを主張する。自民党がオーケーすれば法律はすべて成立する。こんなことがあっていいんですか」
 住民基本台帳法改正案は、各党の政調・政審レベルで進められてきた。古賀にしてみれば、自分の眼が届かないところであったのかもしれない。あるいは、自由党の野田毅自治相が担当している法案であり、いわずもがな一致すると理解していたのかもしれない。しかし、古賀は謙虚に答えた。
「まったくその通りだ」
 古賀は直ちに自民党の関係者を招集し、自自で協議を行なうよう要請した。同時に古賀は、付則の文章に新たに「速やかに」を加えることを二階に提案した。二階は、直ちにこれを受け入れた。
 自自両党の地方行政委員会理事は、自公両党の修正協議で合意した付則修正をめぐって与党としての対応を協議した。古賀委員長提案が了承された。そのほかについては、そのまま自公合意を受け入れることを決めた。
 午後四時から自自公の幹事長会談が開かれた。その席で、公明党が改正案賛成の条件としていた包括的な個人情報保護法(仮称)の制定に向けて、今国会会期中に三党で検討会を設け、三年以内に法制化をはかることで合意した。
 二階は思った。
〈住民基本台帳法改正案は、野田毅自治相が提出している法案だ。わが党としても、大変大きな責任を担っている。しかし、なんでもかんでも自公で決まるわけではない。これから自自公連立に進んでいくことを念頭に入れながら、そんなことではいっしょにやれないぞ、というシグナルを送ることができた〉
 なお、改正住民基本台帳法は八月十二日に成立する。
 一方、政府・与党は、日の丸と君が代の法制化にも取り組んだ。
 毎月一回、政府・与党連絡会議が開かれており、政府側から、官房長官、官房副長官、与党側からは自自の幹事長、衆参の国対委員長が出席している。
 野中官房長官が提案した。
「日の丸、君が代の法制化について、閣法で提案させて頂きたい」
 自自両党とも賛成した。
 が、のちに消極的な対応になった。
「法案を出したはいいけども、通らなかった場合はどうするか」
「審議が停滞して前に進まないで、継続審議となっているという姿になってもいいのか」
「それならば提案しないほうがいいじゃないか」
 二階は自自国対の席で古賀に訴えた。
「これはすでに政府も与党両党も決意を内外に表明している。一日も早く国会に提出して審議をすべきだ」
 その様子はNHKのニュースにも取り上げられた。
 二階の主張により、日の丸・君が代の法制化が現実味を帯びてきた。
 二階は思った。
〈公明党も、当初は元気よく賛成の反応があった。だが、支援団体や支持者の意見を聞き、慎重にならざるをえないという雰囲気になった。しかし、この問題は国民にもわかりやすい。国民レベルで定着している国旗、国家の問題に反対するということは、有権者も、『日の丸にも、君が代にも反対した人だ』と投票行為に影響するのではないか。この問題は、各党とも党議拘束など外し、一人ひとりの国会議員の見識に問うべきだと思う〉
 自由党は、率先して国歌、国旗の制定を主張していた。
 二階は思った。
〈象徴天皇と憲法にも規定されている。皇室の方々が各地方へ行幸されると、国民はだれに強制されたわけでもないのに自然に日の丸の旗を手に歓迎している。その様子を見れば、まさに国民のなかに定着していると見るべきだ。卒業式や入学式で国旗を上げる、君が代を歌うということが職員会議で何時間も議論しないといけないという現場が全国にたくさんある。だからこそ日教組は反対することを明らかに表明した。われわれもときどき地方に出かける。君が代を歌う場合もあるが、小学生や中学生はほとんど歌えない。子供は歌を知っていたら歌う。つまり学校で教えてないということだ。国歌、国旗を法で制定する必要はないという主張は、現実の世界では通らない。やはり国歌、国旗をきちんと法律で制定しなければいけない〉
 この問題は、日本の国の在り方を考え直すいいチャンスだと思った。
〈憲法問題も、大いに国民の間で議論すればいい。平和憲法だから後生大事に守り続けないといけないと言っているだけでは、憲法論議にならない。日本国憲法はどういう経緯で誕生したか、日本がどんな状態におかれているときにできたかということを振り返って検証してみる必要がある。われわれの世代がこのことに関してきちんとした将来の展望を示しておくことが大事だ。憲法を明日改正する、明後日改正すると、そこまで急がなくてもいい。が、ここで国の在り方について、すべての国民が議論しあえる土壌というものをつくっていく〉
 国旗・国歌法案は、八月九日に成立する。
 自自連立政権は公明党の協力を得て、次々に法案を成立させていった。マスコミは、自自公三党の国対委員長を"談合三兄弟"と皮肉っていた。
 二階は思った。
〈某新聞には、大ヒットした『だんご3兄弟』にひっかけて、マンガつきで『談合三兄弟』と紹介された。しかし、われわれもこの国のためにお役にたつならば大いに汗を流して頑張ろうと考えている。『談合』と言われようとも、なんと言われようとも、そんなことは意に介さない。大いにやろうと、ときどき意見交換をしているが、相手の立場もあることだし、法案に賛成するのか、反対するのかというきわどい話はお互いにしない。だが、長い付き合いだけに、話をして顔色を見ていればわかる〉
 公明党は、自自連立政権がスタートして以来、政治を安定させるために自自政権に協力を惜しまなかった。
 三月十七日には、戦後史上最速のスピードで予算案を成立させた。これは、とてつもないことであった。
 渡部恒三(現衆議院副議長)は、よく言っていた。
「竹下登さんが総理になったとき、『おまえ国対委員長をやれ。そのかわり予算を年度内にあげろ。年度内にあげたら、ここにある平山郁夫さんの絵をご褒美としてあげる』と言われた。平山さんの絵は、時価一億円はするといわれている。その言葉に発奮し、しゃかりきになってやったが、年度内に成立させることはできなかった」
 予算案を年度内に成立させるのは、それほど難しいことなのである。
 さらに、自自公路線は、ガイドライン、通信傍受法案、国旗・国家法案、改正住民基本台帳法など、次々と重要法案を成立させていった。
 その間、公明党の草川昭三国対委員長は、古賀、二階の両国対委員長とひんぱんに会っては国会の運営についてとことん話し合った。
 古賀は、考え方にブレがなかった。肚も座っている。党内で反発を受けても、足元がふらつくこともなかった。
 草川は、古賀に大きな信頼を寄せた。
〈古賀さんは、平気で泥をかぶることができる。公家集団といわれる宏池会の議員にしては、めずらしいタイプだ。感覚も鋭いし、先を見通す力もある。与野党を通じて信頼されている。いうなれば、明治維新の立役者の一人である岩倉具視だな〉   
 岩倉は、幕末・明治時代前期の政治家で旧公家では三条実美とともに明治政府の中心人物であった。
 草川は、古賀、二階のいわゆる「だんご3兄弟」について言う。
「われわれは、俗にいう五五年体制のような関係ではない。本当に裸と裸でぶつかりあっている。仮に、五五年体制のようなことをしていれば、どこかでばれて足元をみられる。
 国対委員長は、自自公路線の窓口だ。それだけに、信頼関係が必要だ。表では仲良く見せて、裏で悪口を言いあっていたら潰れてしまう。しかし、三人には、まったくそういうことがなかった。包み隠さず、素直にいろいろなことを言いあった。それゆえ、マスコミが三人の関係を揺るがすような中傷を報じても、だれも動じなかった。いちいち確かめるという気もなかった。不思議な関係だったと思う」
 草川は、二階との信頼関係についても言う。
「二階さんは、自民党時代、渡部恒三さんと親しかった。渡部さんが予算委員長をしていたとき、私は公明党の予算委員会理事をつとめた。そのとき、公明党担当の自民党理事が二階さんだった。私は、二階さんに宣言した。
『悪いけども、表では喧嘩をしながら、裏では仲良くするということは、いっさいやらないから』
 その後、二階さんとは新進党で同じ釜の飯を食べた。私は、小沢一郎さんの政治手法を批判していた。
 二階さんは後にこう言っていた。
『あのとき、草川さんに、『いい加減にしろ』と言わなければいけなかったけども、湾岸戦争の追加支援の際お世話になった草川さんに言えなかったよ』
 二階さんは嘘をつかない。一言でいえば、いぶし銀のようなところがある。海千山千の政界のなかで、とにかく信頼できる」
 いっぽう、野中広務は「談合三兄弟」といわれることに眉をしかめた。
〈古賀、二階、草川のこの三人は、月曜日から金曜日まで朝七時半なり八時から朝食をともにし、夜遅くまで法案を通すためにはどうすればいいかを真剣に議論している。そういう苦労が、あまり世間には見えていない〉
 なかでも気の毒なのは、古賀であった。自自連立、さらには自自公連立を推し進めていた古賀は、あろうことか出身派閥の宏池会から批判されていたのである。加藤会長も、自自公連立路線に否定的であった。
 野中は憤りさえ感じた。
〈われわれは、国家国民のため自自公路線を推し進めているのだ。この思いは、あの異常な金融国会を経験したものでなければわからない。あのとき、自由党、公明党の協力を得なければ、日本の金融機関は外資に抑えられ、日本は滅びていたかもしれない。加藤さんも、山崎(拓)さんも、あの一番困難な状況を経験していない。だから、まるで評論家みたいなことを言えるんだ。そんな生易しい状況ではなかった〉
 しかし、古賀は割り切っているようであった。野中にこう言っていた。
「派内で、どう思われようといいんです。国対委員長というポストをこなすのが、いまの自分の仕事なんですよ」
 野中は思った。
〈これだけの仕事をし、泥を被ることも厭わない。加藤紘一は、古賀誠なくして政権にたどりつくことはできないな〉
 また、野中と二階は、田中派、竹下派時代の同志であった。昭和五十八年十二月に初当選した二階は、国会議員の秘書、県会議員を経験し、地方行政だけでなく、あらゆる分野についてバランスの取れた政策マンであった。
 さらに、信義に厚い、人情豊かな政治家であった。野中は、非常にいい仲間ができたと思い、喜んだ。
 時まさに地方財政が厳しい時であった。二階の呼びかけで、地方議員出身者二十数名の若手議員が集まり、「地方自治を愁うる会」を結成した。野中は、代表役、二階が幹事長を務めた。
「地方自治を愁うる会」は、自治省や都道府県、市町村とともに財政対策に取り組むこととなった。それによって、二階の優れた政治手腕に助けられ、地方自治の基盤整備をすることができた。
 その後、経世会は分裂し、野中と二階は道を別にしたが、ふたりは、折りに触れて言葉を交わし、立場は異なるけれども友情を分かち合うことができた。
 野中は言う。
「特に、参院選挙敗北後の小渕内閣スタートにあたり、私も官房長官として、小渕総理、小渕内閣を支えることになった。自由党の二階国対委員長は、自民党の古賀誠国対委員長、公明党の草川昭三国対委員長と"三だんご""三兄弟"と言われるような間柄で毎日、毎日、困難な国会運営をやっていただいた。そして、経済不況を乗り切り、政局を安定させた。私も、二階さんと本当に苦楽を共にした。生涯忘れることができない良い友人を持ったと実感している」
 さて、平成十一年六月、自由党国対副委員長の西川太一郎は二階に勧められた。
「きみの地元のだんご屋は有名だったな。今度、会費一〇〇〇円くらい取って『だんごの会』をやったらどうか」
 二階の言うだんご屋とは、荒川区東日暮里にある「羽二重だんご」のことである。夏目漱石や田山花袋が愛用し、元NHKアナウンサーの鈴木健二いわく「日本一うまいだんご」として有名であった。
 そこで二階は、「談合三兄弟」といわれる自分たちが、そのだんごを食べながら国政を語る会を開いたらどうか、というのだ。アイデアマンの二階らしい、じつにユニークな発想であった。
 西川は訊いた。
「しかし、あの店のだんごは甘いのとか辛いのとか、四つついていますよ。三兄弟じゃありません」
 二階はいたずらっぽく笑った。
「馬鹿いえ。一つはきみだ、といえばいいじゃないか。だから、四兄弟だな」
 西川はその企画に飛びついた。三人に日程を調整してもらい、日時を八月八日午後七時に決めた。
 西川は思案した。
〈問題は、会場だな……〉
 一〇〇〇円の会費で参加者を二〇〇人とする。羽二重だんご一本の値段は、五〇〇円だ。会場費用は、残り五〇〇円で埋めなければならない。八月八日といえば、夏真っ盛りである。冷房設備も必要だ。費用を考えるとホテルでの開催は不可能であった。
 西川はふとひらめいた。
〈結婚式場を借りよう〉
 JR西日暮里駅前にある結婚式場「セレス千代田」の社長に交渉し、割安で借りることができた。
 いっぽう、ポスターづくりにも余念がなかった。小沢一郎党首がワイシャツ姿で「日本を変える力」と訴えている党の統一ポスターに、「だんご三兄弟 自自公国政を語る」という文字を入れ、大々的に宣伝した。
 西川は一安心した。
〈これで準備は、整った〉
 ところが、八月十三日の会期末が近づくにつれ、不穏な空気が漂いはじめた。自自連立の合意事項である衆議院比例定数五〇削減法案の採決が見送られる公算が強く、小沢党首が「この法案が通らなければ連立離脱」と口にしたのである。
 西川は神妙な表情になった。
〈政権を離脱したら、「だんごの会」どころではなくなるな〉
 しかし、ここは開き直るしかない。
〈離脱なら、離脱でもいい。そのときは、古賀さん、草川さんに謝ろう〉
 なお、古賀は、森派の幹部からクレームをつけられた。
「自民党の国対委員長が、なぜ、自由党の西川が主催する会合に出席するのか」
 西川と選挙を戦うことになる自民党新人の松島みどりが泣きを入れたのだ。松島は、森派が抱えていた。
 そのとき、古賀は眉一つ動かさず、こう答えたと言う。
「西川さんは、二階国対委員長のもとで国対副委員長として本当によくがんばってくれている。その人のところに応援にいくのは、当然のことだ。これは、おれと西川さんの友情の証だ」
 西川は、その話を人づてに聞かされた。涙が出るほどうれしかった。
〈私が古賀さんと同じ立場に立ったとき、同じようなことが言えるだろうか。古賀さんは、将来のある身だ。幹事長派閥に文句をつけられるような行動は、自分の得にはならない。それでも、本気で私を応援するといってくださった。古賀さんに、足を向けて寝られないな〉
 八月八日午後七時、予定どおり集会が開かれ、会場は大盛況であった。二〇〇人収容の会場に、なんと四〇〇人が参加した。
 自自公三党の国対委員長の揃い踏みは、マスコミの注目を集めた。あるテレビ局は、会場の様子を生放送で伝えたほどであった。
 古賀は挨拶した。
「自自連立健在なり。公明党がくわわることで、より政治を安定させたい」
 二階も挨拶した。
「三党の国対委員長が、一人の議員の集会にくるなんて聞いたことがない」
 草川も挨拶した。
「古賀さんは、本気で連立に懸けている」
 会場は、大いに盛り上がり、「だんごの会」は大成功をおさめた。
 集会後、西川は古賀に言われた。
「西川ちゃん、小腹すいたんだけど、お寿司でも食べるところある」
 西川は答えた。
「そういうこともあるだろうと思い、用意してありますよ」
 西川は、前もって予約していた「寿司玉」に三人を案内した。三人の番記者も、社用車で追いかけてきた。「寿司玉」の周囲にある道路は、待機している番記者の車で大混雑となった。近所の住人が交番に苦情を入れたほどである。
 四人は、寿司をつまみながら談笑した。
 ただし、古賀、二階、草川の三人は、席を温める暇がなかった。どこからか、ひんぱんに電話がかかってくるのである。
 西川は気をきかせた。
「私、席を外しましょう」
 三人は、三、四十分ほど話し合った。話がまとまったのであろう。やがて、三人が玄関先に姿を現した。狭い道で三か所に分かれてブリーフィングをし、車上の人となった。
 この夜の集会の模様は、テレビ各局で放映された。翌朝、新聞各紙もそろってこの話題を取り上げた。
 西川は肚を決めた。
〈連立離脱で揺れている時期に、こんなことをして、小沢党首や藤井幹事長に怒鳴り上げられるかもしれないな〉
 しかし、お咎めはなかった。
 それから五日後、自由党は、連立残留を決めた。
 西川は思った。
〈見方を変えれば、「だんごの会」で自自公の親密さがアピールされ、政局をつくったのかもしれない〉



 ・ 自自公「三兄弟」の活躍





 ・ 薄氷の定数削減合意





 ・ 入閣!運輸相兼北海道開発庁長官の重責

平成十一年九月二十一日、自民党総裁選の投・開票が行なわれた。小渕首相は、全体の七割近い票を集め再選をはたした。
 小渕首相は、党役員・内閣人事の具体的な検討に入った。
 自由党の入閣候補に二階俊博の名前が上がった。
 今回の自自公連立政権発足に伴う閣僚数について、自由党は二ポストを要求した。自民党は、いわゆる派閥の論理で閣僚ポストの配分が決められる。つまり、派閥の規模が大きければ大きいほど、ポストの数が多く割り当てられる。その論理でいけば、所属議員五一人の自由党は、一・八人分の閣僚ポストが配分されることになるのだ。
 自由党は、自民党執行部と交渉した。
「前回は連立を組んだばかりだし、閣僚数を減らしたので一ポストで勘弁して頂きたいということだった。が、自自連立は多くの成果をあげた。そのことが自自公連立につながり、政治も安定した。そのことを考えれば二ポストを要求してもおかしくない」
 自由党が入閣候補として推薦したのは、二階と扇千景参議院議員であった。が、当の二階は、静観の構えを見せていた。
〈自自公連立政権なんだから、自自公三党の党首、つまり小沢党首と公明党の神崎代表が入閣したほうがいいんじゃないか〉
 九月二十七日の月曜日、二階は、小沢党首とある件で会った。
 そのとき小沢党首は言った。
「二階さんに入閣の要請がきたら、しっかりやってください」
 このとき、マスコミは入閣予想の顔ぶれを連日報じていた。二階は、運輸大臣候補であった。二階はNHKテレビの密着取材を受けた。NHKテレビは、入閣予想候補のなかで、初入閣となる候補にスポットをあてた番組を制作していた。
 しかし、二階は取材に対して慎重に言葉を選んだ。大臣としての抱負などは、一切語らなかった。
 二階は、ある人から電話で言われた。
「他の入閣候補は大臣としての抱負を語るなどニコニコと応対しているのに、二階さんだけは自自公の政策協議がどうのこうのということしか語らないんですね」
 二階は思った。
〈人事というものは最後の最後までわからないものだ。土壇場で引っ繰り返ることもある。発言はひかえよう〉
 そう自戒していたのである。
 十月四日、明治記念館で自民党小渕派会長、綿貫民輔の国会議員生活三〇周年パーティーが開かれた。二階も、そのパーティーに出席した。
 パーティーが終わり、明治記念館の正面玄関を出た。芝生の上を歩きながら駐車場に向かった。その途中で携帯電話が鳴った。
 電話の主は官房長官に内定した青木幹雄であった。青木は言った。
「小渕首相は明日、内閣を改造します。あなたには運輸大臣兼北海道開発庁長官をお願いしたい。なお、政務次官には自民党議員を据えますが、ご了解頂けますか」
 二階は答えた。
「結構でございます。自自公連立のなかで、ともに汗を流していきたいと思います」
 青木は続けた。
「今回の組閣は、それぞれの省庁の政策に精通している人を選んだつもりです。ついては、明日の朝九時までに閣僚として何をやりたいか、その抱負をまとめたレポートを官房副長官に内定している額賀(福志郎)さんに届けてください」
 二階は運輸行政に精通している、いわゆる運輸族であった。海部内閣、細川内閣と二度にわたり運輸政務次官に就任。自民党時代にはすでに交通部会長を経験、新進党時代には「明日の内閣」の運輸大臣役の国土交通担当、自由党では、国対委員長として汗を流すかたわらで交通部会長と農林部会長を務めていた。
 運輸大臣はまさに適役といえた。
 この夜、二階は、赤坂の議員宿舎で机に向かった。鉛筆を舐めながら、レポートづくりにとりかかった。
 二階は思った。
〈このレポートは、将来の法案の提出、さらに予算要求にもきわめて重要な意味合いをもつ。運輸省が年来主張していることと、懸け離れたことを書くわけにはいかない。ただし、役人では言えないことも正面から取り上げよう〉
 二階はまず"交通安全宣言"について触れることにした。世の中は、まるで水や空気の話と同じような感覚で「交通安全を守ろう」と言っている風潮がある。慣れからミスも起こる。現場任せになっているようなところもある。そこで、安全第一を徹底させようというのである。
 運輸省には、三万七〇〇〇人の職員がいる。運輸省に登録された関係事業社は、個人タクシーをふくめて二〇万社、勤労者は三五〇万人を数える。
 運輸省の管轄といえば飛行機や新幹線などを連想しがちだ。むろん、それらの事業も重要である。が、中小企業、零細企業などにも眼を向けなければいけない。運輸、交通の関係者がお互いに協力しあい、日本の交通安全を徹底していく。
 またバスやタクシーの規制緩和、海上保安庁、気象庁などの装備の近代化にも触れた。
 一方、中央省庁の再編により、二〇〇一年には、運輸省、建設省、国土庁、北海道開発庁の四省庁が統合され、国土交通省となる。そのことを想定した政策を進めていくと同時に、組織をまとめていく努力をしなければならない。その意気込みも綴った。
 二階はそれらのことをレポートにまとめた。気がつくと、時計の針は深夜一時をさしていた。
 十月五日午前九時、二階は、額賀福志郎にレポートを提出した。
 額賀は言った。
「総理が眼を通されて、大臣として適任だと判断されれば正式に呼び出しされます」
 午前十一時過ぎ、官房長官に内定している青木幹雄から連絡が入った。
 青木は言った。
「改めて、運輸大臣兼北海道開発庁長官をお願いしたい。ついては、午後一時二十分までに官邸にお越し下さい」
 二階は官邸に出向いた。
 やがて、運輸総括政務次官の中馬弘毅、運輸政務次官の鈴木政二、北海道開発庁総括政務次官の米田建三も官邸に呼び込まれた。
 二階は青木官房長官、二人の政務次官の立会いのもとで小渕首相の訓示を受けた。
「しっかりと頑張ってください」
 さらに小渕首相からねぎらいの言葉を受けた。
「自自連立、および自自公連立にいたるまで大変なご苦労をおかけしました」
 その後、共同記者会見に応じた。
「ただいま運輸大臣および北海道開発庁長官を命ぜられました、自由党の二階俊博でございます。まず、運輸行政から一言申し上げたいと思いますが、運輸行政は大変幅広い分野を担当します。とくに、私は留意していかなくてはならないことは、安全ということです。これをもっとも重要視してまいらなくてはならない。同時に、これからは高齢化社会に突入します。また、国際化社会のなかに進んでいく。その点において運輸行政がいかにあるべきかということを常に考えて参りたいと思っております」
 具体的な問題について語った。
「まず、JRの問題。旧国鉄から民営化を目指して、今日まで関係者は大変なご努力を頂きました。私は、高く評価をしたいと思います。しかし、いわゆる完全民営化につきましては、いま一歩のところまできています。従いまして、次の通常国会に法案を提出できる環境を整えるべく、これから努力をしてまいりたいと思います」
 バス、タクシーの規制緩和の問題について語った。
「これは、国民のみなさんの利便を最重点に考えながら、あるいは辺地の問題、僻地の問題等についても心を配り、規制緩和の問題を推進するにあたりまして、国民の皆さんの声にしっかり耳を傾けながら対応してまいりたいと思っています」
 国際空港の問題について語った。
「いわゆる空の玄関でありますし、国際化社会において極めて重要な役割を担っているわけですが、成田空港、あるいは関西国際空港、さらに中部国際空港等が、これから私どもが真剣に取り組んでいかなければならない問題であります。この課題の解決のために、地元の協力を得ながら懸命に対処してまいりたいと思います」
 新幹線の建設問題について語った。
「国土の均衡ある発展を図るという観点から大変強い要望があるわけですが、先般も自自協議のなかで、新幹線問題について積極的な対応をはかろうという決意を新たにいたしておりますが、その線に沿って今後、努力をしていきたいと思います」
 運輸省が色々な分野で行なっている研究開発についても語った。
「海の新幹線といわれるテクノスーパーライナー、あるいはまた、海に大地をつくるという意味でのメガフロート、そして新幹線から在来線に直通運転ができる、在来線から新幹線に直通運転ができるという、いわゆるフリーゲージトレインというものが、いま研究開発を進めておりまして、まもなく、これは成功するだろうという状況にあります。
 これら、技術の関係の皆さんが、今日まで取り組んでまいりました大きな革命的な成果をこれから政治として、私どもは全力を尽くして支えていきたいと、考えております」
 二階が長年手がけてきた観光の問題についても力説した。
「いま、日本から毎年海外に出かける旅行客は一六〇〇万人を数えております。しかし、残念ながら外国から日本を訪れる観光客は四〇〇万人です。このギャップをこれからいかにして埋めていくか。同時に、国内観光についても、これから特に力を注いでまいりたいと思っております」
鉄道非常事態に檄
 平成十一年十月十一日、山陽新幹線北九州トンネル(北九州市)内で計二二六キロのコンクリート塊が落下した。この事故で、落下した「打ち込み口」は建設直後から側壁との間に「不連続面」(ひび割れ)が生じ、コンクリートの劣化が進んでいた疑いの強いことが、十月十二日までにJR西日本などの調べでわかった。
 落下したコンクリートのはがれ落ちた面の表面から深さ二センチ程度まで、空気中の二酸化炭素がコンクリート中のアルカリ成分を中和させる「中性化現象」がみられた。また同じ面の下から長さ約十五センチにわたって茶色や黒っぽく変色した部分が広がり、塊が落ちた後、この部分から五つに割れたことも分かった。
 JR西日本は施工ミスの可能性もあるとして、コンクリートの材料分析や、当時の施工業者からの事情聴取を進めた。
 現場付近は、トンネル上部から地下水が漏れていることも確認され、ひび割れが漏水の集まってくる通り道となったほか、時速一五〇〜三〇〇キロで走行する新幹線の振動や風圧の影響も受けて落下したのではないかとみている。
 山陽新幹線のコンクリート塊落下事故について、二階は十月十二日の閣議後の記者会見で強く批判した。
「ある意味で新幹線非常事態といえる。JR西日本に対し、厳しく反省を求めたい」
 この日午後には、直ちに、JR西日本の南谷昌二郎社長を運輸省に呼び、事故についての詳しい説明を求め、「きちんとした形で責任の所在を明らかにしてもらいたい」と要請した。
 また、運輸省としては、この日、省内に、陸、海、空の交通機関について、人為的ミスによる事故を防止するため、組織管理や点検体制の問題点を分析し、対応策を検討するための「運輸安全戦略会議」を設置した。
 十月二十三日、二階は小渕総理をはじめ数人の閣僚と共に、日韓定期閣僚懇談会に出席のため韓国の済州島を訪れた。翌日の二十四日、政府専用機で羽田に帰国の後、直ちにその足で福岡へ向うという強行軍であったが、二十五日未明、南谷昌二郎・JR西日本社長らと共に保守用車両に乗り込み、約一時間半かけてJR山陽新幹線北九州トンネル内の崩落現場を視察した。
 車両から身を乗り出して落下した打ち込み口をのぞき込んだり、自ら懐中電灯でトンネル内を照らしたりしながら徹底的に検査を行った。
 そして、早朝三時四十分発、一番列車の走る前に必ず行われている「確認車」にも乗り込み、安全を確認したのであった。
 視察を終えた二階は、「点検にはかなりの時間がかかるだろうが、人海戦術であたりたい。打音検査の機械化などの研究開発にも予算を付けたい」と述べ、五億五〇〇〇万円を今年度の補正予算案に盛り込む考えを明らかにした。
 また、監督官庁としての運輸省の責任については「責任を逃れるものではない」と認め、「JR各社にも協力を要請し、点検作業を早急に進めたい。運輸省も出先の運輸局の職員を出して全力で対応し、年内には運輸省としての安全宣言を発表できるよう努力したい」と官民あげて早急に総点検を始め、山陽新幹線にある一四二本すべてのトンネルの総点検を命じ、年内に安全の確保と安全宣言を目指したいとした。
 十二月十六日未明、JR西日本は山陽新幹線の一四二本の全トンネル(総延長約二八〇キロ、東京から浜松までの距離、新大阪から三原までの距離)で進めてきた総点検を終えた。十月二十五日からこれまでの計五二日間、JR他社や関連会社などから応援を求めるなど延べ六万九〇〇〇人を投入し、約五〇億円を費やした例のない大規模な総点検となった。
 この日午後、運輸省は学者や専門家で構成する「トンネル安全問題検討会」と省内の「運輸安全戦略会議」を開いて点検結果や補修内容などを検証した。
 その結果当面の安全性は確保できたとして二階が記者会見で、「JR西日本の報告を鵜呑みにしたわけではなく、私たちが点検に立ち会い、専門家と検討したうえで報告を是認した。運輸省として、国民にもう安全ですよと言いたい。今後の保守点検については、運輸省が手取り足取り介入することはない。JR西日本が社運をかけて取り組むと思う」と事実上の安全宣言を行なった。
 一方、JR西日本の南谷昌二郎社長は、この日夕方、「運輸大臣から、厳しい自覚と反省の上に立って、将来にわたり適切な保守管理を継続的に行なうよう強くご指導を受けた。総点検終了を新たな出発点として将来にわたる安全確保のため最大限の努力を重ねる」と語った。
 平成十二年一月下旬、またしてもトンネル内でコンクリート塊が落下したり、新幹線が長時間立ち往生したりと交通関係の事故や障害が相次いだ。このことを受け、二階をはじめ運輸省の幹部が全国各地のトンネルや総合指令センターなどを視察した。
 二階は、平成十一年十一月二十八日にJR北海道の礼文浜トンネルで起きた事故を視察するため、一月二十三日に現地に出向いた。零下四度という極寒のなかトンネルに入り、安全の再点検をしてきた。そのとき、同行したJR北海道の坂本眞一社長に言った。
「落下事故は、大変残念なことではあったが、このことを常に記憶にとどめておこう。そして、落下した日から一年後に、みんながこのトンネルの周囲に集まり、安全の誓いをしようではないか」
 数日後、JR北海道の坂本社長が大臣室に訪ねてきた。坂本社長は言った。
「今度、大きな自然石で『トンネル安全の誓い』というものをつくり、毎年その前に集まり、あの日のことを忘れないようにしたいと考えています」
 二階は大きくうなずいた。
 三月八日、営団地下鉄日比谷線の脱線事故が起こった。死者まで出るという大惨事となった。
 三月三十日、頻発する鉄道事故に心を痛めていた二階は、鉄道局長に命じ、日本全国のすべての鉄道事業者を一同に集めて訴えた。
「鉄道に対する安全神話は崩れつつある。われわれは、いま一度気を引き締めて頑張らねばならない」
 その挨拶は、自らの経験、体験を含めた生の声で厳しく、しかし、愛情をもって魂と良心に訴えるというものであった。
 二階は思った。
〈公共交通機関等に従事するひとは無休で仕事をしろ、とは言わないが、人の命を預けられているという緊張感と仕事に対する誇りだけは常に持続してほしい〉



 ・ 鉄道非常事態に檄

 平成十一年十月十一日、山陽新幹線北九州トンネル(北九州市)内で計二二六キロのコンクリート塊が落下した。この事故で、落下した「打ち込み口」は建設直後から側壁との間に「不連続面」(ひび割れ)が生じ、コンクリートの劣化が進んでいた疑いの強いことが、十月十二日までにJR西日本などの調べでわかった。
 落下したコンクリートのはがれ落ちた面の表面から深さ二センチ程度まで、空気中の二酸化炭素がコンクリート中のアルカリ成分を中和させる「中性化現象」がみられた。また同じ面の下から長さ約十五センチにわたって茶色や黒っぽく変色した部分が広がり、塊が落ちた後、この部分から五つに割れたことも分かった。
 JR西日本は施工ミスの可能性もあるとして、コンクリートの材料分析や、当時の施工業者からの事情聴取を進めた。
 現場付近は、トンネル上部から地下水が漏れていることも確認され、ひび割れが漏水の集まってくる通り道となったほか、時速一五〇〜三〇〇キロで走行する新幹線の振動や風圧の影響も受けて落下したのではないかとみている。
 山陽新幹線のコンクリート塊落下事故について、二階は十月十二日の閣議後の記者会見で強く批判した。
「ある意味で新幹線非常事態といえる。JR西日本に対し、厳しく反省を求めたい」
 この日午後には、直ちに、JR西日本の南谷昌二郎社長を運輸省に呼び、事故についての詳しい説明を求め、「きちんとした形で責任の所在を明らかにしてもらいたい」と要請した。
 また、運輸省としては、この日、省内に、陸、海、空の交通機関について、人為的ミスによる事故を防止するため、組織管理や点検体制の問題点を分析し、対応策を検討するための「運輸安全戦略会議」を設置した。
 十月二十三日、二階は小渕総理をはじめ数人の閣僚と共に、日韓定期閣僚懇談会に出席のため韓国の済州島を訪れた。翌日の二十四日、政府専用機で羽田に帰国の後、直ちにその足で福岡へ向うという強行軍であったが、二十五日未明、南谷昌二郎・JR西日本社長らと共に保守用車両に乗り込み、約一時間半かけてJR山陽新幹線北九州トンネル内の崩落現場を視察した。
 車両から身を乗り出して落下した打ち込み口をのぞき込んだり、自ら懐中電灯でトンネル内を照らしたりしながら徹底的に検査を行った。
 そして、早朝三時四十分発、一番列車の走る前に必ず行われている「確認車」にも乗り込み、安全を確認したのであった。
 視察を終えた二階は、「点検にはかなりの時間がかかるだろうが、人海戦術であたりたい。打音検査の機械化などの研究開発にも予算を付けたい」と述べ、五億五〇〇〇万円を今年度の補正予算案に盛り込む考えを明らかにした。
 また、監督官庁としての運輸省の責任については「責任を逃れるものではない」と認め、「JR各社にも協力を要請し、点検作業を早急に進めたい。運輸省も出先の運輸局の職員を出して全力で対応し、年内には運輸省としての安全宣言を発表できるよう努力したい」と官民あげて早急に総点検を始め、山陽新幹線にある一四二本すべてのトンネルの総点検を命じ、年内に安全の確保と安全宣言を目指したいとした。
 十二月十六日未明、JR西日本は山陽新幹線の一四二本の全トンネル(総延長約二八〇キロ、東京から浜松までの距離、新大阪から三原までの距離)で進めてきた総点検を終えた。十月二十五日からこれまでの計五二日間、JR他社や関連会社などから応援を求めるなど延べ六万九〇〇〇人を投入し、約五〇億円を費やした例のない大規模な総点検となった。
 この日午後、運輸省は学者や専門家で構成する「トンネル安全問題検討会」と省内の「運輸安全戦略会議」を開いて点検結果や補修内容などを検証した。
 その結果当面の安全性は確保できたとして二階が記者会見で、「JR西日本の報告を鵜呑みにしたわけではなく、私たちが点検に立ち会い、専門家と検討したうえで報告を是認した。運輸省として、国民にもう安全ですよと言いたい。今後の保守点検については、運輸省が手取り足取り介入することはない。JR西日本が社運をかけて取り組むと思う」と事実上の安全宣言を行なった。
 一方、JR西日本の南谷昌二郎社長は、この日夕方、「運輸大臣から、厳しい自覚と反省の上に立って、将来にわたり適切な保守管理を継続的に行なうよう強くご指導を受けた。総点検終了を新たな出発点として将来にわたる安全確保のため最大限の努力を重ねる」と語った。
 平成十二年一月下旬、またしてもトンネル内でコンクリート塊が落下したり、新幹線が長時間立ち往生したりと交通関係の事故や障害が相次いだ。このことを受け、二階をはじめ運輸省の幹部が全国各地のトンネルや総合指令センターなどを視察した。
 二階は、平成十一年十一月二十八日にJR北海道の礼文浜トンネルで起きた事故を視察するため、一月二十三日に現地に出向いた。零下四度という極寒のなかトンネルに入り、安全の再点検をしてきた。そのとき、同行したJR北海道の坂本眞一社長に言った。
「落下事故は、大変残念なことではあったが、このことを常に記憶にとどめておこう。そして、落下した日から一年後に、みんながこのトンネルの周囲に集まり、安全の誓いをしようではないか」
 数日後、JR北海道の坂本社長が大臣室に訪ねてきた。坂本社長は言った。
「今度、大きな自然石で『トンネル安全の誓い』というものをつくり、毎年その前に集まり、あの日のことを忘れないようにしたいと考えています」
 二階は大きくうなずいた。
 三月八日、営団地下鉄日比谷線の脱線事故が起こった。死者まで出るという大惨事となった。
 三月三十日、頻発する鉄道事故に心を痛めていた二階は、鉄道局長に命じ、日本全国のすべての鉄道事業者を一同に集めて訴えた。
「鉄道に対する安全神話は崩れつつある。われわれは、いま一度気を引き締めて頑張らねばならない」
 その挨拶は、自らの経験、体験を含めた生の声で厳しく、しかし、愛情をもって魂と良心に訴えるというものであった。
 二階は思った。
〈公共交通機関等に従事するひとは無休で仕事をしろ、とは言わないが、人の命を預けられているという緊張感と仕事に対する誇りだけは常に持続してほしい〉



 ・ 未来に向けて!空港、港湾整備

  平成十一年十一月十九日、二階は大臣就任後初めて成田空港を視察することになった。
 成田空港の二本目の滑走路として、運輸省が計画している暫定滑走路の着工が目前に迫っていた。
 空港視察に先立ち、空港近くのホテルで周辺市町村長らと懇談し、首長からは、騒音対策や地域振興策を求める要望が出された。そこで、今後改めて都内で懇談会を行い意見を集約することにした。
 空港到着後、新東京国際空港公団の中村徹総裁らと共に、管制塔や暫定滑走路計画地付近をバスで見て回った。
 さらに、昭和四十六年の強制収用の際に、反対派との衝突で亡くなった三人の警官の碑に花束を供え、この人達の死を無駄にしないためにも早く計画が実行に移せるよう努力することを心に誓った。
 その後、会見を開き認可、着工の時期について述べた。
「最終判断の時期が近づいている。新東京国際空港公団からは年内着工の強い意思表示があった。地元自治体との調整を積み上げて時期を決めたい。が、現時点では未定だ」
 反対派への対応についても「粘り強く滑走路の必要性を説明していきたい」
 ただし、二階自身が反対派を訪問することについては明言しなかった。
「私が行くだけで解決するとは思わない。空港公団が働きやすいように、汗をかきたい。市町村とも、相談して最善の方法をとるつもりだ」
 その後、県庁で千葉県の沼田知事と会い、羽田空港の国際化についても話しあった。
 羽田空港を夜間に限って国際化し、チャーター便の発着を認めるという件について、千葉県との間で対立していたのである。
 羽田空港は、二十四時間運用が可能となり、早朝と夜間に発着することができるようになった。それゆえ、チャーター便に限って国際線に活用してはどうかということを以前から検討していた。
 東京周辺に住む人たちは、海外に行くにも便利になる。大変喜ばれるが、問題はその飛行機が千葉の上空を飛ぶことだ。騒音が発生する。
 それに、国際線は最初から成田空港と決められている。第二期工事をはじめているのになぜ羽田から離発着させるのかと千葉県側から激しい抗議を受けていた。
 しかし、成田空港への乗り入れを希望している国は、五〇か国もある。その経済効果ははかりしれない。それらの国の要望を蚊帳の外におくような状況を続けることは、国益のためにも誠に残念な問題である。
 成田空港は、二〇〇二年に二二〇〇メートルの暫定滑走路が完成する。その滑走路である程度は補えるが、いかんせん二二〇〇メートルでは短い。大きな飛行機は、離発着が不可能だ。だからこそ、羽田空港を活用する。羽田空港の発着枠は、国の大きな資源であり、朝晩の空き時間にチャーター便に限って羽田空港をフル活動、フル活用していくべきである。
 二階は思っている。
〈ただし、少なくとも千葉県の意向を無視して羽田空港を国際化するということはまったく考えていない。これからも千葉県側の理解が得られるようさらに努力をしたい〉
 十一月三十日の朝、新東京国際空港公団の中村徹総裁と運輸省、千葉県幹部は、成田空港の暫定滑走路の唯一の未買収地である一坪共有地の所有権を持つ反対派農家の堀越昭平氏を訪ね、二階運輸相名の親書を届け、話し合いによる解決を求めた。
 堀越氏は、話し合いを受け入れ、一坪共有地の譲渡に同意することになった。
 十二月一日午後、堀越氏は県庁で、共有地所有権を譲渡する合意書に、新東京国際空港公団の中村徹総裁や沼田武知事らと共に署名した。
 午後六時半、二階は中村総裁を大臣室に呼び、暫定滑走路の工事計画への認可書を手渡し、これまでの苦労をねぎらった。
 十二月二十日、十二月三日の成田空港の暫定滑走路の着工後初めて、二階と空港周辺の一七の市町村長らが都内のホテルで前回の視察のときに約束した懇談会を開いた。
 各首長らからは、防音や落下物対策の徹底のほか、空港を中心にした道路網の整備や工業団地の企業誘致の後押し、農村公園の設置などの地域振興策を要望された。
 要望の中には、運輸省の管轄外の事業もある。そこで、二階は各省庁に対し、地域の要望があった事業への理解を求める文書を運輸相名で提出し、要望を実現するため運輸省としても努力することを明らかにした。
 一方、二階は、滑走路を二〇〇〇メートルに延長する工事を進めている南紀白浜空港(白浜町)についても、十一月十七日、和歌山県田辺市で記者会見し明らかにした。
「供用開始は平成十二年九月三十日です」
 延長工事は国と県で約三八億円を投入している事業だ。供用開始時期が明らかになるのは初めてである。
 二階は、二〇〇〇メートル化に伴い、新設する滑走路や航空灯火などの使用許可を求めて、県から運輸省に対して出されている空港施設変更許可申請についても、「これまでも地元の積極的な取り組みがあった。十分に審査して今月末ごろまでに許可したい。細川内閣で二度目の政務次官就任の際、県から強い要請を受けた。その後、実現に向け県民の皆さんと一緒に運輸省に働きかけてきました。今、担当大臣として、ゴーサインを出す立場になった。これも県民の皆さんのご支援のお陰だ」と心境を述べた。
 滑走路の二〇〇〇メートル化は平成八年に国の第七次空港整備五か年計画に盛り込まれ、この年に完成した現在の一八〇〇メートルの滑走路を南東側に二〇〇メートル伸ばそうと、平成十年四月に着工し、平成十二年四月現在、ほぼ完成している。
 滑走路延長で、乗客二五〇人から三〇〇人規模の中型ジェット機が乗り入れることができる。また、香港やバンコクなどへの遠距離チャーター便就航も可能になると地元県民からも期待されている。



 また、二階は、長さ一〇〇〇メートルのメガフロート(超大型浮体式海洋構造物)による首都圏第三空港も視野に入れている。
 メガフロートは、空港を想定して現在神奈川県横須賀市の海上に浮かべて試験を続けている。将来四〇〇〇メートル程度の滑走路としてメガフロートを活用できないだろうかという提案もしばしば聞く。
 平成十二年の七月頃には、実際に飛行機を離発着させる。
 参議院の予算委員会で、二階は質問された。
「メガフロートは将来、どういう使い道があるか」
 二階はこう答えた。
「メガフロートにモデル住宅を建て、品評会をしたらどうか」
 二階は思っている。
〈コストは、たしかにかかる。しかし、私は、別名「海の大地」といわれるメガフロートに夢を重ね合わせている。メガフロートに植えた芝生も、完全に成功している。植木を植えてみることや、農業の実験をやってみることなども面白い。海に浮かぶ大地としての役割を大きく拡げることになると思う。そのために、みんなに参画してもらわないといけない。音楽のコンサートを開く計画もある。大賛成だ〉
 また、二階は、予算がかさむため後回しにされてきた港湾関係の整備にも取り組んでいる。
 アジア諸国の港湾施設の整備は進み、特にシンガポールや香港は今やコンテナの取扱量で世界一、二位の港湾となっている。物流は、産業の動脈であることには違いはないが、同時に、国民生活にも重大な影響をもっている。港湾はそうした国際物流の九九%以上を占めている。
 たとえば、オーストラリアのブリスベーンの牛肉を船舶で日本に輸入した場合、海上の運搬料、港湾での荷揚げ料、スーパーマーケットまでの運搬料を合わせても、スーパーで一〇〇グラム一七〇円で売られている肉の物流コストはわずか一円五五銭ほどしかかからない。
 輸入牛肉は、現地の二倍から三倍の値段だと思っている人がいるが、それは大きな間違いだ。このことを広く国民に理解してもらいたいと考えている。
 二階は思う。
〈空港はいらない、港湾はいらない、公共事業は悪だといわれる人がいるが、そんなことはない。港湾関係や空港関係など多額の予算を必要とするものについては長期的な展望で考えてほしい、ということを積極的にPRし、国民の理解を得たうえで前進していくようにしていかないといけない〉



 ・ ゆとりと優しさの二階運輸行政

 平成十一年十二月十四日、地球温暖化防止対策のための自動車関係諸税のグリーン化に取り組んでいる二階は、自ら低燃費自動車プリウスに乗り、首相官邸や国会に出向いた。さらに、「地球環境とクルマ社会の共存を語る集い」と題した大規模な集会を開催し、国会議員二一人を含む九〇〇人以上の出席者を集め、その席で、グリーン化の必要性について訴えると共に、与党三党の交通部会長にも要請し、自自公三党の国会議員や国民に対して、二階自らが奔走し、その実現のため積極的な働きかけを行なった。
 その結果、平成十二年度税制改正に対し、三党間の合意文書において、その取扱いにつき「交通に関する環境対策として、低燃費自動車の普及促進のため、平成十二年度より自動車関係諸税のグリーン化導入を幅広い観点から検討する」という記述を得ることになった。
 平成十二年二月十五日、小渕内閣の目玉の法案の一つであり、二階俊博運輸大臣が法案化に尽力した「高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律案(交通バリアフリー法案)」が国会に提出された。
 運輸省が福祉問題に真正面から取り組むというのは大きな進歩であった。日本は、諸外国に例を見ないほど急速に高齢化が進んでいる。二〇一五年には、国民の四人に一人が六十五歳以上の高齢者となる本格的な高齢化社会が到来する。また、身体に障害を持つ人たちや妊産婦が社会の様々な活動に参加する機会を確保することが求められている。
 二階は感じていた。
〈このようななかで、だれもが安心して移動できる社会をつくっていくためには、公共交通機関を利用する上で障壁(バリア)となっているものを取り除き、すべての人にとって利用しやすいものにすること、すなわち交通のバリアフリー化を実現するのは、文化国家として当然の責務だ〉
 以前から、交通事業者の努力により徐々にではあるが、バリアフリー化は進められ、各地にバリアフリー化の波が広がりつつあった。しかし、それにかかる費用は膨大であるなどの理由で、十分に対応できる状況とはいえなかった。そこで、より充実したバリアフリー化を図るために、国、地方、事業者が協力し、さらに、運輸省、建設省、自治省、警察庁の四省庁が一体となって「交通バリアフリー法案」を提出することになったのである。
 この法案には、鉄道駅におけるエレベーター、エスカレーターやスロープの整備、床の低いバスの導入などが盛り込まれている。公共交通機関、駅前広場、駅周辺の道路、信号機などについて一体的にバリアフリー化を進めれば、高齢者や身体の不自由な人たちはもとより、誰にとっても暮らしやすい町づくりになる。
 この法案を国会に提出した二月十五日、二階は、八代英太郵政大臣の紹介で米国運輸省の予算担当審議官で自らも車椅子での生活をしているマイケル・ウインターと会談をした。
 八代大臣とマイケル・ウインター氏は、二〇年来の友人である。ふたりは、バリアフリー化を世界に訴えかけてきた。
 アメリカは、すでに一〇年前に「障害者を持つアメリカ人に関する法律(ADA法〕」を成立させている。二階は、マイケル・ウインターと突っ込んだ意見の交換をした。
 マイケル・ウインターは、この法案を高く評価してくれた。
「関係四省庁が一体となって取り組むこの法案は、大変すばらしい内容だ」
 二階は、バリアフリー化を進めるため交通事業者に対して補助などの支援措置も講じていこうと考えている。
 たとえば、現在六万台ほどのバスが全国各地を走っている。買い換えのときにはできるだけ低床のいわゆるノンステップバスに代替えしてもらう。問題となるのは、価格だ。バス一台の値段は、約一五〇〇万円である。ノンステップバスにするには、もう一〇〇〇万円程度が必要となる。
 そこで、税制や融資の面で優遇措置をとる。さらに、補助金なども含め総合的に支援する。そうすれば、これから一〇年から一五年で国内のバスは、どんどんノンステップバスになる。車椅子の人たちの通勤、通学、さらに観光に出かけることも容易となる。
 二階は期待している。
〈ノンステップバスの普及に努めたい。それに、エレベー夕ーなども外国から購入してずいぶん安くなったという。関係企業も、これから当然、競争で新しく開発に取り組んでくれるだろう。もっともっと安くて使いやすい器具などが期待できる〉



 ・ 心のバリアフリーを

もちろん、施設整備を進めるだけでなく国民一人ひとりの協力と理解も重要だ。国、地方自治体、事業者、さらに関係四省庁が一体となって取り組むだけではバリアフリーの社会が実現することにはならない。
 二階は思う。
〈すべての国民がバリアフリーに協力するという気持ちになって頂かねばならない。たとえば、駅のホームに眼の不自由な方がいれば、相手の立場に立ち、「なにかお手伝いしましょうか」と声をかけるような心のゆとりや優しさがほしい。こういった思いやりには補助金もいらない。みんなが協力しあう、心のバリアフリー化を盛んにアピールしていきたい〉
 四省庁が一体となって取り組んだ「交通バリアフリー法案」は、省庁再編に向けて大きな意味をもっていた。三月二十八日、日比谷の日生国際ホールでバリアフリーに関するシンポジウムが開かれた。

二階はこう挨拶した。
「霞が関の各省庁には縄張り争いがあると言われているが、今回の交通バリアフリー法案に限っては、四省庁が本当に協力しながらやっている。省庁の再編により、建設省と運輸省が一体となって国土交通省が生まれる。巨大官庁になると言われるが、その巨大官庁がバリアフリーを優しさの心をもって力強く後押しすることになる」
 巨大官庁になることで、このような利点も出てくる。これまで、たとえば踏切を一つつくるのにも、建設省と国鉄(現JR)との間で結ばれている建国協定による承認が必要であった。踏切の移設を要望する地域の市町村長は、その協定にもとづいて、あっちにふりまわされ、こっちにふりまわされ、足が捧になるくらい通いまくり、それでも結論が出ないということも多かった。
 国土交通省になれば、そのような労力は必要なくなるのである。



 ・ 中国訪問、世界への飛躍

  平成十二年一月九日、二階は日中友好の観光新時代を築き上げようと訪中し、翌十日に北京で何光国家旅游局長と会談した。
 中国は、国民が観光目的で渡航できる対象国のひとつとして日本を指定ずみである。日本側も、平成十一年中に観光ビザ解禁に踏み切る計画だった。
 しかし、一部の関係省庁から、入国後に不法滞在する旅行者が出る可能性を指摘され、対策や予防措置を講ずることが必要との慎重意見もあった。これでは、いつまでたっても日中関係の観光交流はうまくいかない。
 日本以外の諸外国は、中国に対して「私の国に旅行団を送ってください」と三拝九拝している。それなのに、日本は不法滞在の恐れがあるから簡単に入れられないと威張っている。これは、おかしなことだ。
 二階は常々思っていた。
〈外交というのは、外交官だけの交流では駄目だ。互いの国の人々が実際にその国の歴史や文化に触れることにより信頼関係が構築され、相手国を尊敬する気持ちが自然に、湧いてくるのだ〉
 そこで、二階は何局長に提案した。
「中国人観光客の招致キャンペーンの一環として、国際観光振興会が旅行業界や航空業界、地方自治体などの協力で日本紹介の『ジャパンデー』行事を北京で開いてはどうか」
 何局長も歓迎し、協力を約束した。
 また、中国人の団体観光客の日本訪問の実施方法を話し合うための両国の実務者協議を二月中に北京で開催することも合意した。
 さらに、二階は、日中文化観光交流使節団も検討していた。今年は、日中間での大きなイべントがないという。そこで、二〇〇〇年のミレニアムを記念し、二〇〇〇人の日本人旅行客を北京の人民大会堂に集めて中国側が歓迎の式典を催すことになった。
 式典後は、四〇人一組五〇班のチームリーダーがメンバーと協議し、旅行関係の専門家とも相談し、中国全土にそれぞれのグループが訪問して友好親善をはかることになる。
 二階は思っている。
〈いままでにない試みで日中交流の新時代スタートの行事として成功させたい。そして私が訪中を予定している五月二十日までには、観光ビザ解禁も実現するのではないか〉
 中国の人口は、一二億人である。一割の中国人といっても、日本の人口とおなじ数だけいる。さらに、そのなかの一割はかなりレベルが高い層だ。その層のひとたちは、海外旅行にどんどん出かけている。
 日中の若者たちがひんぱんに交流をすることで、「日本国民は心が広く、温かい、われわれと同じような気持ちをもった平和を愛好する国民だ」と理解してもらえるのではないか。
 いっぽう、中国は、北京から上海までの新幹線の建設を計画している。
 二階は、訪中時に新幹線担当の曽培炎国家発展計画委員会主任(大臣)に会ったとき、さらに、陳健中国大使にこう言っている。
「日本国運輸大臣は、新幹線の車体を売り込むセールスマンではない。日本は、中国から文化を教わり、その延長線上に今日の日本の繁栄がある。そのなかから、たまたま新幹線の技術を開発した。そして、今日まで三〇数年に亘って無事故できている。これは、日本が世界に誇っていい技術だ。この技術が中国の発展にもしお役にたつならば、どうぞ一つお使いください。積極的に協力します」
 一月十四日午前、二階は帰国後初めての閣議後の記者会見で、現在は観光ビザを発行していない中国からの団体観光客について、今春に観光ビザ解禁を目指す考えを明らかにした。
「桜の咲いている間に第一陣を迎える位の気構えで関係者は努力してほしい。法務省や警察庁は、不法就労の窓口になっては困ると心配しているが、両国で話し合えば解決の方法は必ずある」
 日本政府は現在、中国人に対しては、身元保証のできる知人や企業などへの訪問目的にしかビザを発給していない。しかし、中国政府が昨年一月、これまでの規制を緩和し、日本への観光訪問を認める方針を打ち出したことで、日本側が強く対応を迫られていた。観光地を抱える国内の自治体からも受け入れの要望が相次いでいるところであった。
 また、三月四日には、時速九四キロというスピードを誇り、二階自ら「海を走る新幹線」と呼ぶテクノスーパーライナー(TSL)が上海港に入港し、大歓迎を受けた。
 テクノスーパーライナーは、一二年前から開発に取り組んできた。一六五億円の予算を投じ、七年間の歳月をかけてようやく完成した。これを政府は、静岡県に三億円で払い下げた。県は、これを一九億円かけて改造して防災船として活用し、平時は清水港と伊豆の下田の間を観光船として運航し人気を呼んでいる。
 運輸省は、これを借りて中国に向かって初航海した。一月の訪中時に、二階運輸大臣のカウンターパートである黄交通部長(大臣)に中国訪問の際の協力をお願いしたこともあり、上海でも中国政府の要人が出迎えて頂き、大歓迎を受けた。
観光振興をライフワークに
 一方、二階は観光についての長年の造詣に基づき、また、全国約六〇〇〇の旅行業者の団体である(社)全国旅行業協会会長としての経験から、観光に関する施策を矢継ぎ早に打ち出した。
 昨年十月に開催された閣議後の閣僚懇談会の席上で牧野労働大臣が「日産自動車(株)における工場閉鎖による二万人失業等の雇用不安が生じている。事業所管省庁においても雇用創出に努めてもらいたい」と要請した。これに対して、二階は「運輸省で、雇用創出に協力しよう。そのためには、パート雇用の比率が高い観光産業で二万人の雇用創出を考えよう」と応じ、生み出されたのが臨時国会で成立した十一年度第二次補正予算の観光関係事業である。即ち、海外観光宣伝キャンペーンを実施し訪日外国人観光客の増加を図ると共に、観光産業のサービス向上と二万人雇用創出を目指した研修事業、観光職業情報提供事業等を含む補正予算約一五億円を盛り込んだのであった。
 また、平成十二年度政府予算原案では、国際観光交流を拡大するための予算を中心に観光関係に約三三億円と大幅に拡充した予算を編成した。特に訪日観光促進キャンペーン経費については補正予算を除く当初予算では史上初めての約三億円の予算を計上したほか、観光関係の情報の充実を図るため、次世代観光情報基盤整備事業の拡充のためにも約三億円の予算を計上し、観光振興に関する並々ならぬ姿勢を示した。
 高度情報化関係では予算措置以外でも、十一月三十日に観光情報を電子地図を通じてカーナビなどに情報発信する民間企業等の協議会「観光GIS利用促進協議会」を設立し、マルチメディア技術やインターネット技術を先取りした施策を示している。
 国内観光の振興では、十一月十八日から十九日まで第二回広域連携観光振興会議(WAC21)を石川県、富山県、福井県の北陸三県で開催し、今後の観光振興のため三県が協力して観光振興を目指すことになった。また、本年から実施されている祝日三連休の拡大にも意欲を燃やしている。
 二階が運輸政務次官当時に創設した観光事業振興助成交付金制度が平成十一年に廃止されることになっていた。この交付金は八年間で総額約二〇〇億円に及び、わが国の観光振興の重要な財源となっていた。二階は、平成十二年度以降の観光振興事業に支障を生じないよう自ら自治省、全国の知事等に働きかけを行ない、観光振興のための地方交付税措置が講じられることとなった。
 また、国内需要が二〇兆円に及び、その経済効果も五〇兆円に及ぶ産業である観光産業は、二十一世紀の基幹産業になりうる産業であるにもかかわらず、社会的重要性が認知されていないとの認識を持つ二階運輸相の指示の下、十二月六日観光産業関係者などが総結集した観光版経団連とも言える「観光産業振興フォーラム」(代表幹事 堤義明(財)国際観光開発研究センター会長)が設立された。そして、設立総会において観光産業の重要性、魅力ある観光交流空間の整備、休暇制度の充実、国際相互理解の促進、観光振興のための財源の確保等に関して緊急アピールを取りまとめると共に、これらの広範な課題について観光産業が一体となって取り組んでいくこととなった。
 北海道開発庁長官も兼ねている二階は、北海道の基幹産業である観光の振興にも並々ならぬ取り組みを見せている。十一月二十八日札幌において北海道内外の観光産業関係者や有識者等が一同に会して「北海道の観光を考える百人委員会」(会長 松田昌士JR東日本社長)を発足させ、現在年間六〇〇万人の観光客を今後一〇年間で一〇〇〇万人とすることを目指すよう各種取り組みを行なっていくことにしている。
 この「観光を考える百人委員会」は、二階の提案により北海道の他、これまで北東北(一月二十二日)、沖縄(二月六日)四国(二月十九日)、中部(三月四日)、関西(三月二十六日)、九州(四月二十三日)で開催され、真剣な議論が行なわれたほか、観光振興のための各種提言等がなされている。今後も中国等で開催されることが計画されており、全国的に観光で地域を生き生きとさせたいという動きが生じてきている。
 国際観光の分野では、前述の日中関係ばかりでなく、日韓関係でも意欲を示している。十二月二十三日及び二十四日に韓国済州島で開催された第二回日韓閣僚懇談会では小渕総理と共に出席した。二階は、全体会議に出席すると共に、文化観光部長官と個別会談を行ない「平和産業である観光の発展のために、日韓両国で未来志向で取り組もう」との提案を行ない、二〇〇一年のWTO(世界観光機関)総会の日韓共同開催、二〇〇二年のサッカー・ワールドカップの日韓共同開催を契機として、日韓両国が協力して世界に向けて両国の歴史遺産、文化遺産等の素晴らしい観光資源についてアピールする等観光振興を進めていくことで合意した。
 さらに、三月二十五日には仙台で文化観光部長官と二度目の日韓閣僚会談を行ない、両国の交流促進のため、成田、関空、名古屋空港等での韓国との航空便の増便などで合意した。
 続けて二階は朴長官を連れて大阪へ飛んだ。
 太田房江大坂府知事や貝原俊民兵庫県知事をはじめ有力な財界人、観光関係事業者、学識経験者などが参集した「関西観光振興フォーラム」で朴長官に記念講演をお願いし、長官は、観光産業が二十一世紀の産業として如何に重要であるか、関西地方と韓国との観光交流とその将来性を強調した。
 また二階は、常日頃から日本人の海外旅行者数が約一六〇〇万人であるのに比べ訪日外国人観光客が約四四四万人と四分の一しかなく、また、外国人旅行者受入数が世界でも第三二番目という低水準に留まっている状況を改善する必要があると主張している。この事態を改善するため、在外公館の大使等が率先垂範して、訪日外国人観光客の来訪促進のための活動に取り組むよう二階は河野外務大臣に働きかけ、河野外務大臣も全ての在外公館に対し訓令を発して、協力を約束した。今後、運輸省と外務省が協力連携して外国人観光客の誘致のための施策を講じることとなった。
 また、日米をはじめとする関係諸国、世界気象機関などの関係機関との国際協力の下、全世界の海洋の状況をリアルタイムで監視・把握するシステムを構築することにより、二〇〇四年までに長期予報の精度を飛躍的に向上させることなどを目標とした、いわゆるARGO計画を積極的に推進している。
 その結果、ARGO計画が政府のいわゆるミレニアムプロジェクトとして位置づけられ、十二年度予算案においても所要の関連経費が盛り込まれた。



 ・ 観光振興をライフワークに

 一方、二階は観光についての長年の造詣に基づき、また、全国約六〇〇〇の旅行業者の団体である(社)全国旅行業協会会長としての経験から、観光に関する施策を矢継ぎ早に打ち出した。
 昨年十月に開催された閣議後の閣僚懇談会の席上で牧野労働大臣が「日産自動車(株)における工場閉鎖による二万人失業等の雇用不安が生じている。事業所管省庁においても雇用創出に努めてもらいたい」と要請した。これに対して、二階は「運輸省で、雇用創出に協力しよう。そのためには、パート雇用の比率が高い観光産業で二万人の雇用創出を考えよう」と応じ、生み出されたのが臨時国会で成立した十一年度第二次補正予算の観光関係事業である。即ち、海外観光宣伝キャンペーンを実施し訪日外国人観光客の増加を図ると共に、観光産業のサービス向上と二万人雇用創出を目指した研修事業、観光職業情報提供事業等を含む補正予算約一五億円を盛り込んだのであった。
 また、平成十二年度政府予算原案では、国際観光交流を拡大するための予算を中心に観光関係に約三三億円と大幅に拡充した予算を編成した。特に訪日観光促進キャンペーン経費については補正予算を除く当初予算では史上初めての約三億円の予算を計上したほか、観光関係の情報の充実を図るため、次世代観光情報基盤整備事業の拡充のためにも約三億円の予算を計上し、観光振興に関する並々ならぬ姿勢を示した。
 高度情報化関係では予算措置以外でも、十一月三十日に観光情報を電子地図を通じてカーナビなどに情報発信する民間企業等の協議会「観光GIS利用促進協議会」を設立し、マルチメディア技術やインターネット技術を先取りした施策を示している。
 国内観光の振興では、十一月十八日から十九日まで第二回広域連携観光振興会議(WAC21)を石川県、富山県、福井県の北陸三県で開催し、今後の観光振興のため三県が協力して観光振興を目指すことになった。また、本年から実施されている祝日三連休の拡大にも意欲を燃やしている。
 二階が運輸政務次官当時に創設した観光事業振興助成交付金制度が平成十一年に廃止されることになっていた。この交付金は八年間で総額約二〇〇億円に及び、わが国の観光振興の重要な財源となっていた。二階は、平成十二年度以降の観光振興事業に支障を生じないよう自ら自治省、全国の知事等に働きかけを行ない、観光振興のための地方交付税措置が講じられることとなった。
 また、国内需要が二〇兆円に及び、その経済効果も五〇兆円に及ぶ産業である観光産業は、二十一世紀の基幹産業になりうる産業であるにもかかわらず、社会的重要性が認知されていないとの認識を持つ二階運輸相の指示の下、十二月六日観光産業関係者などが総結集した観光版経団連とも言える「観光産業振興フォーラム」(代表幹事 堤義明(財)国際観光開発研究センター会長)が設立された。そして、設立総会において観光産業の重要性、魅力ある観光交流空間の整備、休暇制度の充実、国際相互理解の促進、観光振興のための財源の確保等に関して緊急アピールを取りまとめると共に、これらの広範な課題について観光産業が一体となって取り組んでいくこととなった。
 北海道開発庁長官も兼ねている二階は、北海道の基幹産業である観光の振興にも並々ならぬ取り組みを見せている。十一月二十八日札幌において北海道内外の観光産業関係者や有識者等が一同に会して「北海道の観光を考える百人委員会」(会長 松田昌士JR東日本社長)を発足させ、現在年間六〇〇万人の観光客を今後一〇年間で一〇〇〇万人とすることを目指すよう各種取り組みを行なっていくことにしている。
 この「観光を考える百人委員会」は、二階の提案により北海道の他、これまで北東北(一月二十二日)、沖縄(二月六日)四国(二月十九日)、中部(三月四日)、関西(三月二十六日)、九州(四月二十三日)で開催され、真剣な議論が行なわれたほか、観光振興のための各種提言等がなされている。今後も中国等で開催されることが計画されており、全国的に観光で地域を生き生きとさせたいという動きが生じてきている。
 国際観光の分野では、前述の日中関係ばかりでなく、日韓関係でも意欲を示している。十二月二十三日及び二十四日に韓国済州島で開催された第二回日韓閣僚懇談会では小渕総理と共に出席した。二階は、全体会議に出席すると共に、文化観光部長官と個別会談を行ない「平和産業である観光の発展のために、日韓両国で未来志向で取り組もう」との提案を行ない、二〇〇一年のWTO(世界観光機関)総会の日韓共同開催、二〇〇二年のサッカー・ワールドカップの日韓共同開催を契機として、日韓両国が協力して世界に向けて両国の歴史遺産、文化遺産等の素晴らしい観光資源についてアピールする等観光振興を進めていくことで合意した。
 さらに、三月二十五日には仙台で文化観光部長官と二度目の日韓閣僚会談を行ない、両国の交流促進のため、成田、関空、名古屋空港等での韓国との航空便の増便などで合意した。
 続けて二階は朴長官を連れて大阪へ飛んだ。
 太田房江大坂府知事や貝原俊民兵庫県知事をはじめ有力な財界人、観光関係事業者、学識経験者などが参集した「関西観光振興フォーラム」で朴長官に記念講演をお願いし、長官は、観光産業が二十一世紀の産業として如何に重要であるか、関西地方と韓国との観光交流とその将来性を強調した。
 また二階は、常日頃から日本人の海外旅行者数が約一六〇〇万人であるのに比べ訪日外国人観光客が約四四四万人と四分の一しかなく、また、外国人旅行者受入数が世界でも第三二番目という低水準に留まっている状況を改善する必要があると主張している。この事態を改善するため、在外公館の大使等が率先垂範して、訪日外国人観光客の来訪促進のための活動に取り組むよう二階は河野外務大臣に働きかけ、河野外務大臣も全ての在外公館に対し訓令を発して、協力を約束した。今後、運輸省と外務省が協力連携して外国人観光客の誘致のための施策を講じることとなった。
 また、日米をはじめとする関係諸国、世界気象機関などの関係機関との国際協力の下、全世界の海洋の状況をリアルタイムで監視・把握するシステムを構築することにより、二〇〇四年までに長期予報の精度を飛躍的に向上させることなどを目標とした、いわゆるARGO計画を積極的に推進している。
 その結果、ARGO計画が政府のいわゆるミレニアムプロジェクトとして位置づけられ、十二年度予算案においても所要の関連経費が盛り込まれた。



 ・ 自・公・保連立政権へ

 平成十二年二月十四日、与党の幹部たちが衆議院の伊藤宗一郎議長と渡部恒三副議長を料亭「金田中」に招き、「衆議院議長・副議長を慰労する会」を開いた。
 渡部は、その席上でこう挨拶した。
「いまの国会の最大の問題は、与党が強すぎて、野党が弱すぎることだ。野党には、数もさることながら、人材も足りない。せめて国会を立派にするためには、古賀、二階、大島(議員運営委員長)の三人を野党に譲ったらどうか」
 自民党の古賀誠国対委員長は、加藤紘一と自自公路線で意見が分かれている。ポスト小渕を目指す加藤にすれば、党利党略・派利派略で国会はうまくいかないほうがいい。小渕政権が行き詰まれば、自分の出番になる。だが、古賀は、小渕政権を懸命に支えている。それゆえ、派内から非難されているのだ。
 しかし、渡部は、古賀の党内における信用は加藤の数十倍も上になっていると思っている。加藤に嫌われたからといって、これからの政治的立場が悪くなるということにはならない。これは、小沢一郎における二階俊博にも同じことがいえる。
 古賀も、二階も、これほど国会内で信用を得れば、加藤に嫌われようが、小沢に嫌われようが、関係ない。加藤がいくら古賀を嫌っても、小沢がいくら二階を嫌っても、加藤は古賀の力を頼みにし、小沢は二階の力を頼みにするしかない。
 渡部は、古賀と二階についてこう評価する。
「政治家というのは、人にゴマをすって生きていくタイプと、自分の独立した考え方で生きていくタイプの二つのタイプがある。古賀と二階は、自分の独立した考え方で堂々と生きていく。人のいいなりにならない。国会になくてはならない存在だ」
 古賀誠は、二階を高く評価している。
「二階さんは、約束したことは必ず守る。駆け引きもできる。いまの政界で政局をつくることができる人は、野中幹事長、二階さんほか、数人だけだろう」
 野中広務も、二階を高く評価する。
「二階さんは、第二次小渕内閣で運輸大臣に就任された。二階さんは、これまで運輸政務次官を二回も経験し、運輸行政についても誰よりも抜群の実績を持った政策マンだ。運輸行政全体について、強力なリーダーシップを持って取り組んでもらっている。将来、日本の大きな柱として期待する政治家だ」
 平成十二年三月二十七日、自由党の小沢一郎党首は、党常任幹事会で連立政権への今後の対応について、離脱問題をめぐって党内調整に入る意向を明らかにした。
「二十九日の全議員懇談会で、最近の状況について申し上げたい。意見のある人は、個別に言ってきてほしい」
 小沢は、三月四日に小渕首相と会談した際に、自民党と自由党が総選挙前に解党して新党を結成することも視野に「両党間の完全な選挙協力をする」「両党間で新たな政党合意を交わす」などを申し入れた。
 しかし、選挙協力はわずか五選挙区にとどまった。小渕首相は、総選挙前の自自合流はないとの見解も示した。
 小沢は、自民党に不満を募らせ、講演などで発言していた。
「約束した政策を実行しないのなら、連立していても意味がない」
 自由党は、これまでにも昨年八月の通常国会会期末、公明党が政権参加した十月、暮れの臨時国会の会期末と三回に渡って「離脱騒ぎ」を起こしてきた。今回で、じつに四回目であった。
 党内は「連立を離脱して、自由党本来の政策や主張を貫くべきだ」という連立離脱派と「いや、あくまで連立にとどまり、自自公体制のなかで選挙を戦うべきだ」という連立維持派に分かれ、分裂ぶくみの状況となった。
 二階俊博運輸大臣のもとに、若手議員が何人も訪ねてきた。かれらは、みな涙ながらに訴えてきた。
「なんとか、分裂を回避してください」
 二階は危機感を強めた。
〈国会議員は、みなそれぞれ選挙区を抱えている。解散の時期も近い。みな命懸けだ。ここは、なんとしても分裂は避けなければいけない〉
 三月二十八日、二階は記者会見で離脱問題について触れた。
「小渕内閣の閣僚という責任ある立場で、軽々しくそうした問題に言及するつもりはない」
 閣僚である二階の去就は、多少なりとも政局に影響をおよぼすことには違いない。自らの態度を内外に明らかにするのは、最後の最後まで慎重でなければならない。そう考えていたのである。
 従って、二階は、連立離脱派、連立維持派のどちらのグループの集まりにも、あえて参加していなかった。
 この夜、二階は小沢党首と都内のホテルで会談し、意見交換した。
 小沢党首には、自分についてきてくれた若手議員を全員当選させたいという情の部分がありありとうかがえた。
 いっぽう、二階を頼ってくる若手議員もいる。二階は、信義を重んじる田中政治、竹下政治、金丸政治の中で育ってきた。若手議員を見殺しにし、「あなたは、何もしなかったのか。自分だけよければ、それでいいのか」ということになってはならない。
 二階は悩んだ。
〈自分の損得勘定で行動するのではなく、どうすれば一人でも多くの同志を救うことができるのかを考えなければならない〉
 二階の地元では、「離脱をするな」という声が後援会の幹部や市町村長の間で、圧倒的に多かった。二階は、自自公連立の決意を示すために後援会や党首に配る今年のカレンダーに、「自自公連立の成果を今年こそ」と書き入れている。
 同じ和歌山県選出の中西啓介国対委員長も、二階に言っていた。
「地元は、『離脱をするな。二階さんと協調して頑張れ』という声が多い」
 三月二十九日午後五時、自由党の全議員懇談会が開かれた。小沢党首は、スライドなどを使って独自の世論調査結果として、自自公連立政権の支持率がいかに低下しているかを説明した。
「このままいったら、選挙は勝てない。自民党は、小渕首相をはじめ危機感が欠如している。健全な保守主義を標榜して戦うことが必要だ。私が邪魔なら、私がどいてもいい。保守勢力は危機的状況にある。新しい保守勢力をつくらないと大変なことになる。聞き入れられなければ、外に出て批判勢力の受け皿になることも考えている。そのときにどうするのか。諸君も、自分の立場で考えてもらいたい」
 そのうえで言った。
「近く、小渕首相とも話をしなければならない。その段階で判断することが大事だ」
 いっぽう、政権への残留を目指す野田毅前自治相は、この懇談会に先立って行なわれた小沢党首との会談で、自由党がもし政権を離脱するなら、新党を結成する考えを伝えた。
 三月三十日、自民党の森喜朗幹事長と自由党の藤井裕久幹事長が国会内で会談した。森幹事長は、選挙協力は現状の五選挙区から上積みするのは困難との認識を伝え、両党の協議が最終的に決裂した。
 また、自由党の連立離脱問題をめぐって自民党、自由党、公明党の党首会談が四月一日夕方に首相官邸で開かれることも正式に決まった。
 二階は、複雑な心境であった。二階の今日までの政治活動における大きな拠り所は、小沢党首であった。小沢党首の存在があったからこそ、ここまで野党の時代も苦楽を共にして、頑張り抜いてきた。
 しかし、自分を慕ってくれる若手議員が「連立の維持」を真剣に訴えてくるのを見たとき、自らの政治判断だけで物事を決めるわけにはいかない。
 しかも、二階は閣僚である。閣僚の立場でなければ、もっと行動もできるし、発言もできるが、閣僚である以上は内閣に迷惑はかけられない。小渕内閣の足を引っ張るようなことはつつしまないといけない。
 二階は悩んだ末、肚をくくった。
〈場合によっては、閣僚として党首会談に同行を求められるだろう。私は、自由党から入閣した大臣だ。仮に会談が決裂し、小沢党首が政権離脱を決めたときには、辞表を提出しよう。私は、微力ながら国対委員長として自自連立を実現するために努力してきた。自由党がようやく、ここまでたどりつけたのに、途中でこれを放棄するのは辛いが、だからといって閣僚の座に恋々としているわけではない。やりのこしの仕事がある。仕事の途中で辞めてしまうのは関係者の皆さんに大変申しわけないと思う。しかし、そこはきちんとけじめをつけておきたい〉
 二階は、運輸省の役人をせかした。
「頼んでいた仕事だが、急いで片づけてほしい」
 いつ辞任してもいいように、仕事の区切りだけはつけておこうと思ったのである。
 この日、二階は、参議院交通・情報通信委員会に出席し、民主党の谷林正昭委員の質問を受けた。
「北海道・有珠山は、噴火の可能性が高まっています。大臣の所属する自由党も爆発寸前のような感じがいたしますが、ぜひひとつ心境をよろしかったらお聞かせ頂きたいと思います」
 二階は、有珠山について答弁した。
「まず、有珠山のことにつきましてご意見、ご指摘がございましたが、この問題につきまして昨日から小渕総理とも連絡を取り合いながら、官邸の中に万一に備えての体制をすでに整えてございますし、私自身も昨日、委員会終了後気象庁にまいりまして、気象庁の体制などを再確認すると共に、一刻も早く情報を的確に送達できるように常々やっておりますが、いま改めて再確認して万一に備えるようにと気象庁長官にも命じてまいりました。
 なお、滝川気象庁長官においては、ちょうどこの年度末、人事異動を考えておりまして、閣議了解の人事でございますから、小渕総理の了解を得ておったところでございますが、昨日夜、すでに内定を頂いております長官の人事異動を撤回いたしまして、小渕総理のご了承を頂いた上で、現長官が引き続きこの任に当たるようにいたしております。現場におきましても、すでに十分な体制を整えておりまして、避難はすでに完了いたしておりますし、新しい観光客などの受け入れは、極力避けるように指示をいたしております。
 私も、今日は一日国会でございますし、明日も午前中どうしても外せない日程があり、午後ぐらいに北海道の現場に赴くつもりで、いま運輸省を出てくる際に日程の調整を指示してきたところですが、私は北海道開発庁長官も兼務いたしておりますので、両々相まって万全の体制を期するようにいたしております」
 そして、離脱問題について触れた。
「なお、私の党内の問題につきまして大変親切なご質問を頂きましたが、今日はここは政府の立場でお答えをするところでございますが、私は相撲でもそうですが、制限時間いっぱい、常に最後の五分までというのが、私の信条でございますから、皆さまの激励を頂きながら、いわゆる有珠山の問題につきましては、そういうことが杞憂に終わることを願いながら、万全の体制をしいて、最終まで責任はまっとうしたいと考えております」
 その後、二階は、藤井裕久幹事長、中井洽元法務大臣、中西啓介国対委員長の四人で話し合った。「再度自民党に選挙協力を含めた自自両党の合意事項の実行を迫り、仮に決裂しても、その五分前まで努力をすべきではないか」ということで一致した。
 この夜も、二階は小沢党首と会談した。三晩連続で小沢党首と腹を割って話し合った。
 二階は、できれば小沢党首に慎重になってほしいという思いが強かったが、小沢党首は離脱に傾いていた。
 二階は思った。
〈小沢党首は、あれほどの政治家だ。新保守勢力の結集などいろいろと思い描く戦略があるのだろう。小沢党首は、もう一度大きな勝負に出ようとしている。現状の政治に非常に大きな危機感をもっている。歴史観や国家観においても小沢党首の主張は正しいが、その理想を一挙に達成するには、もう少し時間がかかる〉
 さらに思った。
〈交渉次第では、選挙協力が可能な選挙区は上積みできるかもしれない。しかし、小沢党首が満足する数になるかどうかは、きわめてむずかしい。自民党は、支部や組織が古いだけあって一応しっかりしている。せっかく小選挙区から出るための準備をしているのに、自由党に譲れ、となれば、後援者や自民党員の不満が噴き出す。そう簡単に調整はできないだろう。それに、小沢党首は選挙協力よりも政策が命だと言われる。いよいよ自民党にとって難しい話になってくる。もともと自民党は、大政党で、政策の転換などは、あまり得意でない〉
 三月三十一日午前、閣議が開かれた。
 二階は報告した。
「数日以内に噴火する可能性が高く、厳重に警戒する必要があり、本日、私自身も現地にまいる所存です」
 その後、参議院本会議に出席した。
 二階は、口元を引き締めた。
〈明日の党首会談の結果によっては、大臣として最後の参議院本会議への出席となるかもしれないな……〉
 この本会議で、大臣就任後初の法律となる港湾法の改正が成立した。
 退席する際、期せずして声が上がった。
「運輸大臣、ガンバレ!」
 さらに、励ましの拍手まで起こった。
 二階は、万雷の拍手を背に受けながら議場を後にし、有珠山視察のため直ちに羽田空港基地に向かった。
 ファルコン(海上保安庁捜索海難救助機)に乗り込み、北海道の新千歳空港に向けて出発した。
 運輸省官房長の小幡政人、北海道開発庁総務監理官の斉藤徹郎、気象庁予報部長の山本孝二、海上保安庁警救部長の久保田勝の四人が随行した。
 新千歳空港到着後、海上保安庁のヘリコプターに乗り換えて現地上空に向かった。
 その後、まもなく噴火の第一報が入った。
 噴火から十分後に現地上空に到着した。
 真っ黒の噴煙がヘリコプターよりも高く三二〇〇メートルの上空まで噴き上がり、強烈な硫黄の匂いが機内まで立ち込めた。眼下の街にも、火山灰が広がっていた。
 長い気象庁の歴史のなかでも、大臣がこのような大規模自然災害の現場に直面したのは、初めてのことであった。
 二階は、ふと五年前の阪神・淡路大震災を思い起こした。当時、新進党の「明日の内閣」国土・交通政策担当だった二階は、すぐさま現場に急行した。惨状を目の当たりにした二階は、政府の対応を激しく糾弾した。
 二階は思った。
〈もし、私がここで、途中で職務を投げ出したならば、そのときの言動との説明がつかないな……〉
 その後、二階は、伊達市に到着後、直ちに国土庁の増田総括政務次官、堀道知事、菊谷  伊達市長、菊池伊達市議会議長と打ち合わせをした。さらに、伊達市役所にて現地連絡会議を開催。伊達市役所にて記者会見後、市内の避難所に移動し、避難民を激励した。
 避難民の話を聞いたとき、二階は、自然に「頑張ってください」という言葉を繰り返していた。改めて、しっかりした対応をしなければ……と心に誓った。
 新千歳空港にもどると同時に、総理秘書官から連絡が入った。
「いま、総理は公式行事に出かけておりますが、大臣が帰京されるころには官邸に帰ってきております。官邸でお待ちしておりますので、よろしくお願いします」
 二階は腕時計を見た。あと一五分もすれば、中山正暉災害対策本部長(国土庁長官)が空港に到着する。
 二階は判断した。
〈できれば中山本部長と打ち合わせをしたかったが、総理を長く待たすわけにもいかない。中山本部長宛に、手紙を書いておこう〉
 置き手紙を書き終えるやいなや、ファルコンに乗り込んだ。
 午後七時三〇分、ファルコンは羽田空港に到着した。二階は、長靴、防災服姿のまま大臣公用車に乗り込み、夜の高速道路を、先導するパトカーに引っ張られるようにして官邸に向かった。
 午後八時三分、二階は、総理執務室に入った。小渕首相に現地の情勢を三〇分に亘ってくわしく報告した。
 小渕首相は、いつになく顔が引き締まっていた。
 二階は思った。
〈今日は、いい顔をしておられるな〉
 このとき、二階は、まさか翌日に小渕首相が倒れるとは夢にも思わなかった……。
 小渕首相は、引きつづき対策の指揮をとるよう指示をした。
「被災者の生活環境、避難に万全をつくすように」
 そして自然と、話題は党首会談に移った。
 小渕首相は、さきほどまでの険しい表情から打って変わって柔和な表情になった。
「ぼくと小沢君は、竹下内閣の官房長官、副長官という間柄だ。経世会の後継会長を決めるとき、周りは小渕が年上だから、先にやって、次に小沢さんがやればいいという雰囲気だった。そのとき、ぼくも『いつまでも長くやるつもりはないから、ぼくの次に小沢君がやればいいじゃないか』ということを言ったんだ。でも、小沢君は納得せず、飛び出していかれた。ぼくは、小沢君のあの性格も好きだし、主張も立派だと思っている。できるだけ小沢君の主張を聞き、協力してやりたいんだが、うちは所帯も大きいからな。そんなに簡単にはいかないよ。いずれにしても、明日、小沢君とよく話してみるよ」
 二階は深々と頭を下げた。
「総理、いろいろとお世話になりました。総理のご指導や周りの人たちに親切にしてもらって、私はずいぶん仕事をさせてもらいました。運輸省の仕事も、北海道開発庁の仕事も、精一杯やらせてもらいました……」
 自由党が政権を離脱したときは、閣僚を辞任する旨を暗に伝えたのである。
 小渕首相は、手を横に振った。
「いやいや、大臣として頑張ってくれ。それぞれの役所も、あなたにしっかり支えていってもらわないといけない」
 報告を終えた二階は、一礼し、執務室を出ようとした。すると小渕首相は、わざわざドアまで送ってくれた。
 小渕首相は、右手を差し出し、ふたりはがっちりと握手を交わした。
「いろいろ、ありがとう。しっかり頼むよ」
 これが、二階と首相在任中の小渕との最後の会話となった。
 いっぽう、この日、二階のもとに中西啓介国対委員長から連絡があった。
「明日、党首会談の前に、二人で小沢党首に会おう」
 二階は答えた。
「われわれで、最後の説得をしましょう」
 同じ和歌山県出身の中西と二階は、自民党離党から自由党結成にいたるまで政治行動を共にしてきた。平成十年七月の参院選では、和歌山選挙区から弱冠三十一歳の鶴保庸介を擁立し、命懸けで当選に導いた。自由党が地方区で得た唯一の議席であった。
 そのような関係にある中西と二階が別々の道に別れたら、どうなるか。和歌山県は大騒ぎとなり、せっかく誕生させた鶴保参議院議員の政治生命にも大きな影響をおよぼすことにもなるであろう。
 そこでふたりは、がっちりとスクラムを組み、どのようなことがあっても行動を共にしようと話し合ってきたのである。
 党首会談を二時間後に控えた四月一日午後四時、ふたりは小沢党首のもとを訪ねた。
 小沢党首は、はっきりと言った。
「離脱という気持ちはないよ」
 そういわれれば、こちらがあまり執拗に聞く必要もない。
 中西は安堵した。
〈この言い方だと、離脱はなさそうだ〉
 中西は、以前から何度も小沢党首に進言していた。
「自自公連立の調子が悪いからといって、選挙の期間だけ連立を抜けるというわけにはいきませんよ。選挙後また組もう、といったって通用しません。政治は、数が大切です。数がなければ、自分たちの政策を実現することはできない。離脱した後、いったいどことパートナーを組むんですか。野党第一党の民主党ですか。民主党の半分は、左ですよ。それに、石井(一)さんや熊谷(弘)さんとは、いろいろとわだかまりがある。民主党と組めるわけがない。離脱しても、展望が立たないじゃないですか。ですから、こんな話はおくびにも考えるべきではありません」
 そのとき、中西には小沢党首も納得してくれたように思えた。それゆえ、「離脱という気持ちはない」という言葉から、自民党を少しでも揺さぶろうという手段だと認識したのである。
 中西は思った。
〈自民党は、巨大政党だし、したたかだ。その政党と組んだ以上、それなりに耐えるところは耐えないといけない。党首の大先輩でもある岩手県出身の原敬元首相も、耐えに耐えて最後に大輪の花を咲かせた。党首も、そのつもりでいるのだろう〉
 話題は、有珠山に移った。
 小沢党首は訊いた。
「有珠山を視察に行こうと思っている」
 二階が言った。
「現地は、ごった返していて、なかなか対応がうまくいかないと思いますよ。ヘリコプターに乗ることもできないし、避難民の方を慰問するくらいしかできませんよ」
 小沢党首は言った。
「それで、現地の様子は、どういう状況なのか」
 二階は、噴火の状況や避難民の生活についてくわしく説明した。話し合いは、なごやかな雰囲気のなか一時間近くにおよんだ。何かと忙しい身の三人が、これほど長い時間に亘って話したのは、じつに久しぶりのことであった。
 二階は思った。
〈党首は、この際、連立離脱問題を一時棚上げし、災害対策を中心に対応しようという気持ちになっているようだな〉
 帰り際、中西は小沢党首に声をかけた。
「それでは、頑張ってください」
 小沢党首は答えた。
「月曜日に、みんなに話をするから」
 午後六時、小渕首相、自由党の小沢一郎党首、公明党の神崎武法代表の与党三党首による会談が行なわれた。
 小沢は、三党連立の合意文書を提示し、安全保障基本方針の策定や国連平和維持軍(PKF)の凍結解除などを強く求めた。
「今国会中に政策合意を実現すべきだ」
 しかし、小渕首相は拒否した。
「今国会でこれを実現することは不可能といってもいい」
 会談には、青木官房長官も同席したが、途中の二〇分間は小渕首相と小沢党首が別室で会談した。
 会談後、小渕首相は森幹事長と協議し、その後、記者団に自由党との連立を解消する意向を表明した。
「連立の運営について協議したが、基本的な考えが一致せず、信頼関係の維持が困難になった。私と神崎代表は、自民、公明・改革クラブで引き続き連立を維持することで一致した」
 小沢も、記者会見で表明した。
「粘り強く政策合意を求めていくというのはもう無理だ」
 自由党の政権離脱が、事実上決まった瞬間であった。
 中西は思った。
〈自民党は、度重なる離脱騒ぎに、度がすぎると解釈したのだろう〉
 小沢党首は、四月三日午後四時からの全議員懇談会で正式に決定することを決めた。
 二階の心は揺れた。二階は、政界に入って以来、常に行動を共にしてきた小沢党首の改革の志、政治家としての優れた資質を高く評価し、尊敬していた。
 だが、二階は常々自自連立および自自公連立を実現した中心人物の一人として「連立の成果を今年こそ」という政治の責任も果たさなくてはならないとも考えていた。
 従って、有珠山の大災害の対策にも全力で取り組む責任も痛感していた。
 二階は思った。
〈国務大臣としての任務をまっとうすることが、被災者や今日まで自分を支えてくれた方々に報いる道だろうな……〉
 四月二日午後十一時半、思わぬ事態が明らかになった。青木官房長官が緊急記者会見で言った。
「小渕首相は、本日午前一時頃、過労のために緊急入院した。現在検査中であり、結果については判明次第発表する」
 このニュースが全国を駆けめぐって一夜明けた四月三日午後四時、自由党の全議員懇談会が開かれた。
 小沢党首は、連立政権への対応をめぐって発言した。
「大変な非常事態なので、この際、わが党のうんぬんはちょっと置いて、しばらくの間どのような事態にも対応できるように推移を見守りたい」
 しかし、自民党と公明党は、すでに連立解消を明らかにしている。推移を見守っても状況は変わらない。
 野田毅が、すかさず手を挙げた。
「結党以来、いろいろ先頭に立ってご苦労さんでした。長い間、お世話になりました」
 懇談会は、三十分で終了した。
 連立維持派は、この夜直ちに新党の設立総会を開くことを決めた。
 二階は決断した。
〈北海道の被災地の復旧をなし遂げ、さらに政局を安定させ、現在の日本の危機的な状況を乗り切るためにも、この際、連立内閣を支える努力を重ねることが重要だ。私は新党に参加しよう。しかし、小沢党首とわれわれは政策理念では変わることはない。やがてまた日本の新しい時代に、共にその中軸を担う時が必ずくる〉
 運輸省にもどった二階は、記者会見で明らかにした。
「新党に参加し連立政権を維持します」
 午後八時半、キャピトル東急ホテルで新党・保守党の設立総会が開かれた。自由党全国会議員五〇人のうち二六人が参加した。
 党首には、海部俊樹元首相、野田毅らの名前が上がったが、そもそも自民党と連立を組むことになった最大の理由は、参議院対策である。それに、衆議院議員は総選挙が間近に控えている。全体を見ながら、自分の選挙を戦うのは大変なことだ。そこで、参議院の象徴として扇千景を党首に決めた。幹事長には、野田毅が就任した。
 扇党首、野田幹事長は、直ちに青木官房長官、自民党の森幹事長、野中幹事長代理らと会談し、連立への参加を申し入れた。
 四月四日、小渕内閣は総辞職。
 翌五日、自民党の森喜朗新総裁を首班とする自公保連立政権が発足し、二階は、運輸大臣・北海道開発庁長官に再任した。
 二階は改めて思った。
〈自由党は、まさに日本丸が沈没しようとしていた平成十年十一月、景気回復が第一だと考え、これまでのわだかまりを捨てて自民党と連立を組むことになった。平成十一年一月に連立政権が発足するやいなや、一万三〇〇〇円台まで落ち込んでいた株価が二万円を越えるところまできた。株価が上昇すると共に小渕内閣の支持率も上がった。
 しかし、いかんせん参議院では数が足りない。それなりに努力もしたが、一歩どころか半歩も前進しない場面もあった。結論としては、公明党に協力を得る以外になく、自自公連立が発足した。公明党にふりまわされるという人もいたが、連立を組んだ以上は当然のことだ。普段は外にいて、参議院の票決のときだけ協力してもらうなどというのはムシがよすぎる。お互いに我慢するところは我慢し、粘り強く、自らの党の政策を連立の枠組みの中で実現していくことが大切だ〉
 二階はさらに思う。
〈今回、残念ながら小沢さんと別々の道を歩まざるをえなくなった。小沢さんは、五十年に一人、あるいは百年に一人しか出てこない政治家だ。私は、いまでも尊敬し続けている。また、いつかご一緒願う日も必ずくるだろう。ただし、いましばらくはこのままの状態で静観する以外にない。小沢さんが、自らの理想を初志貫徹され成功されることを心の中で祈っている〉



■ 「近ごろ思うこと」 − 二階俊博

 政治の世界に身を投じて今年でちょうど三十六年――それは、国会議員の秘書、和歌山県議会議員等を経て、国政に参画してからも、早いもので十七年を経過しました。
 その間、県会議員として二回、衆議院議員として五回、計七回の選挙は、毎回、毎回厳しい試練の連続でありました。幸いにして今日まで連続して当選を重ねることができました。私のような者が今日まで当選を続けることができましたのは、ひとえに地元の選挙民の皆さんをはじめ、多くの内外の皆様の変わらざるご指導とご支援のおかげであります。心から感謝を申し上げる次第であります。

 政治改革、行政改革、経済改革・・・誰かがやらねば明日の日本はない――。
 平成五年、自由民主党を離党して、小沢一郎、羽田孜、渡部恒三、奥田敬和、愛知和男氏等と共に新生党結成に参加、さらに同士と共に新進党の結党、やがて党が分裂し、私たちは自由党を結党して小沢一郎党首のもとに衆参五一名の同士が結集しました。私は新進党の選挙対策局長を経て、自由党では国会対策委員長として野党の国対を担当し、自由民主党と激しく対峙した。しかし、金融国会における当時の野党第一党の民主党は政権担当の意欲がなく、「金融問題を政局にするつもりはない」との当時の管直人代表の発言により、長蛇を逸することになった。自由民主党から政権奪還の最初にして最後の絶好のチャンスを失いました。その後、「対人地雷全面禁止条約」の問題があり、「中小企業に対する貸し渋り対策」あり、「旧国鉄長期債務二八兆円の問題」があり、政府・自民党は依然として窮地に立ち、薄氷を踏むような思いの国会対策が続いていました。
 そのころ水面下では、政財界やジャーナリスト等の心ある人たちの間では、自・自の間の信頼と協力関係の構築に腐心する努力が重ねられていました。表面にそれが現れたのは、平成十年九月十五日のことでありました。古賀国対委員長と野中官房長官から「対人地雷」について協力の要請の電話がありました。そこからやがて小沢―野中会談に発展し、幾多の曲折を乗り越え、翌年一月十四日、自・自合意が成立しました。
 自・自が合意し、連立しても参議院では依然として一二票足りない。この際公明党に頼んで、自・自・公連立を働きかけ、それが成立したのは十月四日のことでありました。
 十月五日小渕改造内閣において、私は運輸大臣、北海道開発庁長官として入閣することとなりました。
 五日午後一時過ぎ、私は青木官房長官から正式に官邸にきてくださいとのいわゆる「呼び込み」を受けました。
 官邸では、小渕総理と青木官房長官立ち会いのもとに、中馬総括政務次官、鈴木政務次官さらに北海道開発庁の米田総括政務次官が同席の上、小渕総理から、「連立に大変ご努力を頂きありがとう。運輸行政について、今さら大臣に申し上げることはありません。お任せしますからどうかご自由にやってください。北海道開発庁はやがて国土交通省に編入されますからしっかりお願いします。」との指示を受けました。
 その後、控室で梅崎事務次官、小幡官房長等から挨拶を受けると共に、これから行動を共にすることになる花角(運輸)斎藤(北海道)両大臣秘書官、白井、平野両警護官の紹介を受けました。
 続いて行なわれた大臣就任後の官邸での初の記者会見では、運輸大臣としての抱負を次の通り述べました。

「只今、小渕総理から運輸大臣を拝命いたしました自由党の二階俊博です。
 この度、就任に際しまして、基本方針を申し述べさせて頂きます。先ず、運輸行政を担うにあたりまして、最も重要なことは「安全の確保」が第一であると考えております。
 次に、利用者である国民の皆さんの声に常に耳を傾けながら、陸海空にわたって、効率的で、質の高い運輸サービスの提供に、官民挙げて取り組んで参りたいと思います。
 特に、地球環境への配慮や高齢化社会への対応、さらに国際化に向けての行政を展開することが重要であります。
 具体的には、次の施策を推進して参ります。

一、JR各社の完全民営化は国鉄改革の悲願であり、その実現に向けて、次の通常国会に     
  法案が提出できるような環境を整えたいと思います。

二、バス、タクシー等の規制緩和については、当然、利用者である国民の立場から生活路
  線の維持、安全の確保等に心を配りながら、交通サービスの確保に努めていきたいと
  思います。

三、我が国の空の玄関口である成田空港、関西空港、中部空港等の整備については、関係  
  地域のご協力を得ながら、重点的に取り組み、早期供用を目指したいと思います。

四、整備新幹線は国土の均衡ある発展、地域格差を是正する観点から、先般の自民・自由
  両党の合意に基づき、建設促進に一層努力を致します。地元のご協力をお願いしてお
  きたいと思います。

五、運輸省は、海の新幹線と呼ばれる「テクノスーパーライナー」、海に浮かぶ夢の大地
  とも言われる「メガフロート」、可変式ゲージにより新幹線と在来線を直通で結ぶ
  「フリーゲージトレイン」等の開発に成功しております。こうした技術陣の今日まで
  の努力に、政治として応えて参りたいと思います。

六、観光産業は平和産業そのものであり、平和な地域や国家にだけ存在する産業でありま
  す。今日、一六〇〇万人の人々が日本から海外に出かける一方、海外からの観光客は
  僅か、四〇〇万人であります。この現状を打開することと、併せて国内観光の振興
  にも努めて参ります。

七、海上警備の強化は急務の課題となっており、先の不審船事件の反省の上に立って、高
  速巡視艇や飛行機の機能向上、また情報収集・情報通信体制の充実を図りたいと思い
  ます。

八、大規模災害から国民の生命、財産を守る危機管理の観点に立って、地震予知、火山監
  視、気象予報関連施策等に万全を期し、併せて地球環境の保全に向け、観測の強化、
  国際協調を推進したいと思います。

 その他、自動車関係諸税のグリーン化の推進、首都圏第三空港の整備についても積極的に取り組んでまいります。
 最後に、二〇〇一年一月に発足する国土交通省を的確に編成し、将来にわたって、総合交通政策を展開できるように組織の体制を確立していきたいと考えております。」
 会見後、急いでモーニングに着替え、皇居に参内しました。小渕総理が侍立される中、天皇陛下よりお言葉を賜り、官記を拝受し、さらに記帳の後、鎌倉宮内庁長官の発声で乾杯が行なわれました。閣僚全員の写真撮影が終わり、皇居を退出した時は既に午後七時をまわっていました。その後、再び官邸に戻り、初閣議、記念撮影の後、これから行政を預かることになる運輸省に初登庁したのは、夜の八時を過ぎた頃でした。
 運輸省には過去二回海部内閣で大野明運輸大臣のもとで、細川内閣で伊藤茂運輸大臣のもとで運輸政務次官として勤めたことがあるだけに、アットホームな感じで多くの幹部の暖かい出迎えを受けました。幹部職員の挨拶、さらに運輸省のOBがお祝いに駆けつけてくれました。翌朝幹部職員が一堂に会し、歓迎式が行なわれました。私の簡単な就任の挨拶の後、職員を代表して梅崎事務次官が挨拶してくれました。「二階大臣、おかえりなさい!」で始まり、一同からは笑いと共に拍手が始まりました。私が、「しっかり頑張って期待に応えなくてはならない」と決意を新たにした瞬間でありました。

運輸行政について
 就任早々、私は「運輸行政の要諦は安全にある」と内外に宣言しました。まず、就任後直ちに運輸省内に事務次官を議長とする「運輸安全戦略会議」を発足させ、この会議を通して積極的に「安全」に関する情報発信を行なうこととしました。これは、全国三万七〇〇〇人の運輸省職員一人一人の安全意識の再徹底が改めて必要と考えたからです。また、約二〇万社、関連就業者の数、約三五〇万人といわれる運輸業界の第一線、現場で働く方々の安全意識の向上を図るためには、各社の幹部の方々にしっかりとした自覚を持って頂き、強いリーダーシップを発揮してもらう必要があると感じたからなのです。
 巡り合わせというのは、皮肉なもので、私が安全第一を第一声で述べたのにもかかわらず、まず、山陽新幹線のトンネルコンクリート剥落事故、休むことなく、北海道の礼文浜トンネルコンクリート剥落により一週間にわたって列車の運行を停止しなければならないようなことになり、さらに地下鉄日比谷線脱線事故など国民の安全に対する運輸の信頼を揺るがすような事故が続きました。国会でも厳しい質問を受けて、まさに矢面に立つようなことがしばしばありました。しかしその都度私は先頭にたって、危機管理の意識のもとに真正面から事故対策に取り組んで参りました。
 これまで、自民党時代と新生党時代に運輸政務次官を二度務め、運輸行政の一端に携わって参りましたが、最近改めて思うことは、運輸行政は実に守備範囲が広く、奥が深く、そして課題が山積しているということです。
 伝統的な運輸行政ともいうべき、空港、港湾、新幹線、地下鉄等の国民生活や経済を支えるインフラ施設の整備については、一層の効率化、重点化を進めながらも、長い目を持って着実に整備を進めていかなければならないことは当然であります。
 しかし、運輸行政は単にそれだけではない筈であります。私はこの際、明日の運輸省のためには、環境問題に対しても、福祉行政に対しても、運輸省自身がもっと積極的な対応ができなければならないと思っています。この信念に基づき、自動車関係税制のグリーン化及び重度の交通事故被害者の救済等は、運輸省が先頭に立って努力を傾けるべき重要な課題であります。当然これらの対策は自動車メーカー等にとっていろいろ問題があることも承知の上のことです。しかし、これらのことに背を向けて、自動車公害や自動車事故の重度の被害者の方々やその家族に対し見て見ぬ振りは許される時代ではない。これはメーカー等の関係者だけではなく、運輸省もまた同じ責任を負わなければならないと考えています。今日のような状況が続くとすれば、やがて自動車社会そのものの持続的発展さえ危うくしかねない問題であると認識しています。従って、最初は反対されてもやがては分かってもらえる日がくると私は当初から信じておりました。近頃は自動車工業会、自動車販売連合会等、その他の諸団体も率先してご理解やご協力を頂けるようになりつつあることを私はうれしく思っています。特に交通バリアフリーについてもご理解を頂いていることに感謝したいと思っています。

○自動車関係税制のグリーン化とは、
 地球温暖化防止を目的として、自動車ユーザーが二酸化炭素排出量の少ない(燃費の良い)車を購入することを促すため、自動車関係諸税について燃費の良い車の税額を安く、燃費の悪い車の税額を高くすることにより、CO2排出量を税制を活用して抑制しようとするものです。
 私は閣議においても「グリーン化の旗はおろさない」と発言しております。今後、関係者の間で前向きな議論をさせて頂くつもりでおります。

○重度の交通事故被害者救済対策とは、
 交通事故被害者は一〇〇万人を超え、寝たきりなど重度の後遺障害に苦しむ方が、最近の十年間で約二倍に急増する中で、その救済のあり方が社会問題化しており、「くるま社会」の関係者の理解と協力の下、自賠責制度を活用して救済方策を拡充していくことが必要な状況であります。
 私は後遺障害部会を新たに設置して、障害者の父兄にも参加して頂いて、有識者の間で検討を進めて頂いております。みんなが支えあって生きる社会を目指したいと思っております。

○交通バリアフリーとは、
 鉄道駅、道路等における段差の解消等移動経路上における物理的な障壁を除去し、高齢者、身体障害者等が安全かつ円滑に移動できるよう、公共交通機関、歩行環境等の施設・設備を整備すること。また、これらの方々の移動を困難にしている、社会的、制度的、心理的な全ての障壁を除去するという意味であります。
 現在、国会に(交通)バリアフリー法案を提出し、ご審議頂いております。今国会で必ず成立させて、直ちに実行したいと考えています。アメリカではすでに一九九〇年から施行されている「障害を持つアメリカ人法」(ADA法)に遅れること一〇年でありますが、運輸省、建設省、自治省、警察庁と四省庁が足並みを揃えて、バリアフリー社会の実現を目指しています。やがてアメリカに、フランスに追いつき、追い越す日が来ることを信じています。そして法案の審議の過程において、私は「人々の心のバリアフリーこそ大切だ」と繰り返し述べて参りました。文化国家日本は交通弱者と言われる人々に対し、「心のバリアフリー」を標榜にしながら、全ての国民の皆さんが、この運動に参加して下さることを期待しています。

 さらに運輸行政が真剣に取り組むべき課題として、羽田空港の深夜・早朝の国際チャーター便の運航など既存の運輸インフラ施設をできるだけ有効活用していくための努力や、バス、タクシー、航空、港湾運送など各種運輸産業の規制緩和等による活性化も重要であります。目の前のこれらの課題に向かって、私は解決できるものは、任期中に早く解決しておきたいと考えております。

北海道開発行政について
 小渕改造内閣において、運輸大臣兼任で、第七十一代目の北海道開発庁長官を拝命しました。
 郷土出身の、山口喜久一郎元衆議院議長が、昭和三十三年から三十四年まで、第二次岸内閣において第十七代目の北海道開発庁長官に就任されています。
 かねてより、南国紀州の育ちの私にとって、北海道はあこがれの北の大地でありました。北海道に旅をすれば、すぐヨーロッパを想い出し、ヨーロッパに旅すれば、また北海道を想い出す……。
 就任以来、二〇〇一年から国土交通省に再編される北海道開発庁の将来のことを思うと、私は自らを最後の北海道開発庁長官であると位置づけて、今日までの北海道内外の関係者の御努力に加え、将来の北海道開発の道筋をつけておくことを最大の任務としています。
 やがて総選挙が行なわれ、新しい内閣が発足することですから、正確には、もう一人、本当の最後の長官が就任することになります。
 しかし、北海道開発庁としての最後の予算に当たる「平成十二年度北海道開発予算」を組むのは私の仕事であり、事実上、最後の長官の意気込みを持って、北の大地の発展に些かでも寄与したいと願って来ました。
 平成十二年度予算編成における大臣折衝は、十二月二十二日の午後五時から始まりました。
 私は、宮沢大蔵大臣に対し、「これが北海道開発庁としての最後の予算編成となります。北海道の経済の深刻な状況を想うと、この際、格段のご配慮をお願いしたい。敢えて私は金額は申しません。宮沢大蔵大臣としての北海道への政治的なご配慮をお願いしたい」
 宮沢大蔵大臣は、直ちに、「北海道の状況に対する認識は全く同じであり、大いに同情すべき状況にあるということは、理解できる」とのご回答があり、過去最高の予算額を確保することができました。
 従来は、北海道開発庁の仕事は、建設、農林、運輸等の公共事業が中心であり、関係者の関心も、そちらを向いており、北海道公共事業庁のような感覚であったような気がしていました。
 私は、この公共事業部門でも過去最高の予算を確保するとともに、今後の北海道開発の種になるような事業に取り組み、将来の北海道、二十一世紀の北の大地に新たな希望の芽生えとなるようなことを一粒でも二粒でも播いておきたいと就任のときから考えていました。
 その一つが、北海道広域医療情報ネットワーク(大学病院と自治体病院等を結ぶ医療情報ネットワーク)の整備であり、これが成功すれば日本の過疎地域に住む人々にとって福音となることが期待されています。もう一つは、産業クラスター創造プロジェクト支援事業(産学官連携による新しい産業の創出のための研究開発支援)です。
 いずれも非公共分野の事業であるが、やがて真白いジャガイモの花が大地を一面に埋め尽くしているように、二十一世紀の到来を北の大地全体に伝えてくれるような新しい芽生えの新規事業が次々に誕生し、成功することを願っています。
 確かに、北海道の新しい友人たちと語り合っていると、新たな時代への挑戦に向かって、静かな息遣いと胸の鼓動が聞こえてくるような興奮を覚えています。

 札幌医科大学教授 辰巳治之さんは語る、
「『インターネットを活用して、地方に住んでいる人たちにも大都市住民と同じような最先端の医療を受けられるようにしたい』そんな地方の医療に携わる人の声に、公共事業しかやらないものとばかり思っていた北海道開発庁に取り上げて頂き、現在、札幌の大学病院と道南、道東の二つの町立病院をインターネットで結んで、遠隔診断や遠隔治療の実験をしています。北海道でのこの知見が、日本の過疎地で、さらには世界中で役立つ日がくることを確信しています」

北海道経済団体連合会 戸田一夫会長は語る、
「数年前、北海道の民間人のグループが、地域の技術や資源を生かして起業化に結びつけられないかと始めた産業クラスター運動。疲弊しきった北海道の民間の力の限界を痛感せざるを得ない状況にまで追い込まれていましたが、北海道開発庁に六〇〇〇万円の予算をつけて頂き、息を吹き返しています。現在、全道で一七もの研究会が生まれ、小さいながらも商品化に成功したグループもあります。確かに、今はほんの小さな芽でしかありませんが、こうした試みの中から、明日の北海道、明日の日本を担うようなビジネスを育てていくべく北海道の経済人が結集し、全力で取り組みたいと思っています。」

 さらに、深層水の開発利用に熱心に取り組んでおられる岩内町の岩城成治町長にご登場願います。
「太陽の光が届かない深い海の中をゆっくり循環している深層水は、ミネラルなどの栄養分に富む雑菌の極めて少ない魔法の水です。この深層水を使った食品や薬品が続々と市場に登場していますが、中でも北海道の深層水は、より低温で雑菌の数も少ないという利点を持っています。こんな素晴らしい資源を、北海道の沿岸漁業の振興や新たな商品開発に活用するべく、二階大臣のご支援の下、中央省庁を巻き込んだ取り組みが始められております」

 北海道はやはり観光産業の振興であります。就任の挨拶まわりのようなことで北海道を最初に訪問したとき、北海道の観光について一言語れということになり、現在年間六〇〇万人である北海道への観光客を今後十年間で一〇〇〇万人に拡大しようということを申し上げました。「一〇〇〇万人観光案」が一人歩きをするので、早速、堀知事とご相談の上、北海道内外の観光産業に関係する有識者や各界の有力な方々にお集まり頂いて、「北海道の観光を考える百人委員会」を発足させました。
年間四パーセント増やし続ければ、一〇〇〇万人を超えることになるのです。
 北海道新時代の創造に向けて取組みを始めた矢先に、私を襲った二つの大きな火山がありました。一つはもちろん三月三十一日の有珠山の噴火であり、もう一つは、自由党の連立内閣の離脱騒ぎ、自由党の分裂でありました。

 火山性地震が頻発し、噴火のおそれがある中で、北海道開発庁長官として、気象庁を預かる運輸大臣として、現場の指揮と避難生活を送られている皆さんへの激励を行なうべく、私は三月三十一日に現地に入り、千歳の空港から海上保安庁のヘリコプターで現地の有珠山周辺に向かっているまさにその時に、有珠山は噴火したのです。
 ヘリコプターの無線で、これから官邸で災害対策の関係閣僚会議が開かれるとの連絡を受けました。早速、現地で堀知事や増田国土庁総括政務次官等と打ち合わせを行なうと共に、伊達市の避難所におられる被災者の方々のお見舞に伺い、その日のうちに東京に帰ってまいりました。総理がお待ちだということで、その足で官邸に向かい、小渕総理に詳しく報告を申し上げました。
 有珠山については、大規模な噴火の可能性が低くなったとして一部地域で避難指示が解除されましたが、依然として火山活動は続いており、引き続き厳重な警戒が必要であります。油断が大敵であるという状況には変わりありません。
 私は、四月八日、再び伊達市の現地対策本部を訪ねると共に、JR北海道の坂本社長、JR貨物の伊藤社長から輸送状況について報告を受け、直ちに平常時の八割の輸送力を確保するよう努力することを命じました。その後、長万部町において避難所で生活されている方々への激励を行ないました。この日は、結党したばかりの保守党の扇千景党首や、中村鋭一、泉信也、三沢淳の各国会議員がお見舞いに駆けつけてくれて、早速「働く保守党」として頑張って頂いていることをうれしく思った次第でした。
 私は、自らが中学生の時に郷里和歌山県を襲った大水害の経験や、五年前の阪神淡路大震災の体験等を話し、「今は人命が第一ですから、避難生活の不自由にもしばらく耐えてください。政府は必ず皆さんと力を合わせてこの災難を乗り越えるための努力は惜しまない」ことを丁寧に説明しました。
 現地では、被災市町村ばかりでなく、周辺の市町村やボランティアの方々が支援に汗を流しておられ、また、全国からいろんな救援の品々が送られており、北海道だけではなくて、全国から暖かい支援の手がさしのべられています。加えて、国会からも、各党各派の議員の皆さんが、次々と現地においでになり、様々な支援策等について御指導頂くと共に、避難生活を送られている皆さんをお見舞いくださっています。北海道開発庁長官の立場から、心から感謝を申し上げたいと思います。このことは、参議院の本会議においても答弁の際に申し上げました。
 今回の有珠山の噴火に伴う経済的被害の規模は、有珠山の周辺地域にとどまらず、北海道拓殖銀行の破綻以後、落ち込みが大きかった北海道の産業や経済全般に深刻な影響を及ぼすことが懸念されております。
 このような状況を踏まえ、観光関係については、四月十八日に全国の旅行業者、交通事業者、北海道庁、地元観光関係者等に参加頂いて「有珠山の噴火に伴う北海道観光対策連絡会議」を開催し、関係者が一致協力して、北海道を訪れる旅行者に対して道内の観光情報の正確な提供に努めること、六月以降の北海道観光のトップシーズンに向けて、関係者間で連絡をとって北海道への観光促進キャンペーンに取り組んでいくこと等の当面の対応方針を決定致しました。さらに、北海道の経済を支えるため、北海道の皆さんに元気を出して頂くために私は、森総理、青木官房長官、さらに閣議においてもご了承を頂いた上で、北海道開発庁長官の「私的懇談会」を発足、座長を瀬島龍三先生にお願いして、次のような著名な方々に参画して頂き、北海道経済の支援策を協議することになりました。

伊藤 義郎(社団法人北海道商工会議所連合会会頭)
遠藤 安彦(二〇〇二年FIFAワールドカップ日本組織委員会事務総長)
兼子  勲(日本航空株式会社代表取締役社長)
黒野 匡彦(株式会社東海総合研究所常勤顧問)
児島  仁(社団法人北海道倶楽部理事長)
坂本 春生(株式会社西武百貨店代表取締役副社長)
真田 俊一(北海道副知事)
瀬島 龍三(伊藤忠商事株式会社特別顧問)【座長】
月尾 嘉男(東京大学大学院教授)
戸田 一夫(北海道開発審議会会長、北海道電力株式会社取締役相談役)
野村吉三郎(全日本空輸株式会社代表取締役社長)
藤井 治芳(日本道路公団副総裁)
舩曵 寛眞(株式会社日本エアシステム代表取締役社長)
松田 昌士(東日本旅客鉄道株式会社社長)
松橋  功(社団法人日本旅行業協会会長)
涌井 洋治(社団法人日本損害保険協会副会長)

 北海道の新生に向けて、このような各界識者からの御意見を頂き、北海道の産業経済が幾多の困難を乗り越えて、活力に満ちた二十一世紀のスタートを切ることができるよう、緊急にとるべき対策について直ちに検討を開始してまいりたいと考えております。

 噴火による影響が懸念される北海道経済の活性化支援のため、今、私は関係者に北海道産品の購入キャンペーンを呼びかけています。
 閣僚懇談会においても、農水大臣や通産大臣、郵政大臣、自治大臣など関係大臣にお話をしたところ、積極的な協力を約束してくれました。どれほど大きな経済効果を生むかは別として、多くの国民に北海道が直面する困難な状況に対し連帯感を持って頂き、さらに大きな支援の輪が拡がっていくことを願っています。 
 北海道開発庁は、やがて国土交通省に再編され、今年度中に五十年の歴史を閉じますが、北海道開発の重要性はいささかも変わりがありません。「最後の長官」は、有珠山の噴火を始めとする北海道の抱える宿命的な課題に、果敢に挑戦し、自らの任務を全うしていく決意を固めております。
 そのことが、引き続いて私を再任して頂いた森総理はじめ、決死の覚悟でルビコンを渡ってこられた「保守党」の同志に対して、さらに今日までご支援下さった方々にも報いる道だと信じています。
 このことに対する評価は、やがてこれから政治の歩みの中で是非が問われることがあるかもしれません。今となっては、自らの決断に悔いはない。連立内閣が実現して以来の私自身の今日までの言動においても、最終的には選んだ道が自らの言動に忠実であったと思っております。
 政治は、所詮は政治活動においても、選挙活動においても、常にマラソンランナーのようなもので、山も坂もあり、心臓破りの丘もあり、時には酸素が希薄で息苦しい時もあります。ペースもコースも究極は自らが決断しなければならないことであります。もう少し時間が許されれば、他に選択の方法を必ず見いだすことができたであろうと思う気もします。しかし、自由党は残念なことながら二つの道をそれぞれに歩むことになってしまいました。日本の政治の現況は、私たちが、いつまでも感傷にふけっている場合でもありません。
 森新内閣の閣僚として、自民党、公明党、保守党の三党の連立の成果を国民の皆さんの前に示すことができるよう、今、全力投球すべき時であると思う昨日、今日であります。