自民党


にかい


永田町動乱を駆け抜ける若き獅子

二階 俊博


■もくじ
 ・ 小沢一郎君を党首にする会

 ・ 政治家というのは忙しい仕事なんだな

 ・ 甲子園の応援団長

 ・ 高校時代、生徒会長

 ・ 大学時代

 ・ 遠藤三郎代議士秘書時代

 ・ 遠藤代議士の死

 ・ 帰郷、県議選出馬

 ・ 清新自民党県議団結成

 ・ 亡父の意思を継いで

 ・ 衆議院選出馬を決意

 ・ 田中派(木曜クラブ)から出馬

 ・ 初陣を飾る

 ・ 竹下派経世会発足

 ・ 空飛ぶシルクロード

 ・ 運輸政務次官に就任

 ・ 新生党を結成、104,600票を獲得しトップ当選

 ・ 非自民連立細川政権の誕生

 ・ 『明日の内閣』国土・交通政策担当

 ・ 新進党阪神大震災現地特別対策本部長

 ・ 紀伊半島−新時代

 ・ 「改革への誓い」−二階俊博


■ 大 下 英 治


 
・ 小沢一郎君を党首にする会

 平成七年十二月六日夕方、当時、新進党四回生の二階俊博は、「小沢一郎君を党首にする会」のメンバー二七人と国会内で小沢一郎幹事長に会った。新進党党首選への立候補を正式に要請した。
 小沢は即答を避けた。が、前向きな姿勢であることを示唆した。
「重要な懸案を抱えている時期ではあるが、リーダーがどうあるべきか自問したい。真剣に、かつ深刻に受け止めて考えたい」
 二階はなんとしても小沢に出馬してほしかった。二階は閉塞状態に陥っている国会に危惧を抱いていた。
〈村山内閣は、ようやく重い腰をあげ、オウム真理教に対して破壊活動防止法の適用を指示した。しかし、まさに遅きに失している。経済対策といい、今年一月の阪神大震災における緊急災害対策本部設置の怠りといい、てきぱきとしたリーダーシップがとれていない。自・社・さきがけ三党の連立政権という難しさもあるだろうが、社会党が過去の五十五年体制の影を引きずっているところに問題点があるのではないか〉
 しかし、野党第一党である新進党も輝かしい成果をあげているとは決していえない。自民党出身議員の多くは、与党生活が長く法案が提出されると、なんでも早く賛成してしまう。政府や役人のいうままに問題を処理しようとしているような傾向がある。新進党は、いまこそ政権を奪還し、二十一世紀に向かって国民に希望の持てるような政治のビジョンを示さなければならない。
 二階はそのトップリーダーとして、小沢を党首に担ぎ出そうとしていた。小沢に登板を期待する声は、与党にもある。アメリカの政界にも、やがていつの日か小沢登板の日がくると期待している。
 二階はそのタイミングは、いまをおいてないと考えた。それは、小沢自身のためではない。歴史の必然が小沢の登板を促したのである。
 十二月八日、二階ら「小沢一郎君を党首にする会」のメンバーの藤井裕久、山岡賢次、伊藤英成等が大挙して、再度、小沢幹事長に出馬を促した。小沢は、初めて要請に応じる意向を示した。
「自分自身として気持ちの整理ができ、割り切れた。できれば、皆さまのご要請に応えたい」
 その際、小沢は条件をつけた。再選に向け擁立の動きがある海部党首の了解と将来的には消費税率一〇%への引き上げなどを盛り込んだ政策の受け入れである。骨子は七〇万部を越す大ベストセラーとなった小沢の自著「日本改造計画」であった。
 小沢は言った。
「皆さんが、この政策を支持し、実現に向けて一緒にやってくれるというのなら、私も命を賭けます」
 二階は、さっそく、山岡賢次、平野貞夫らと相談して、直ちに国会議員二〇人の政策プロジェクトチームを編成した。九日の土曜日、十日の日曜日と二日間かけて税制や安全保障などの基本政策を検討することにした。
 二階は、主張した。
「私は、細川内閣時代、運輸政務次官を務めました。そのとき、国際空港建設などいろいろな問題について運輸省の考え方を聞きました。また、阪神大震災の復興計画についても、『明日の内閣 国土・交通政策担当』として、いろいろな意見を建設省や運輸省幹部と交わした。いずれにしても、やはり落ち着くところは財源でした。財源の裏打ちがなければ、いくら話し合っても実現不可能です。学者の述べていることと同じです。政治家は、実現可能な財源の裏付けを示さなければならない。
 小沢さんは、常々、こう言っておられます。『財源問題に触れることは、選挙にのぞむ国会議員にとって、とても辛いことかもしれない。しかし、そのことを成し遂げることによって、国民生活がいまよりも何倍も豊かになっていく。そのことを国民の皆さんにわかって頂けるように、きっちりと説明する。政治家は、グランドデザインを描いて、国民に提示する。そのことが政治家として一番大事なことではないか』と。
 その観点から、私は、この政策に同意します」
 総会では、他のメンバーからも、さまざまな意見が出された。が、おおむね、敢えてこの時期に将来の消費税率一〇%を提案する小沢の心意気を高く評価していた。
「小沢さんは何もいきなり税率を一〇%に上げようと言っているわけではない。しばらくは現行(三%)のまま凍結し、景気が上昇気運になったときに税率を上げようと言っている」
「その間は公債でつなぎ、高速道路や新幹線を整備する。あるいは、地域格差や通信格差の是正を図る。大胆なことを言えば、北海道から九州まで新幹線を引っ張り、国際空港を五つや六つつくっていくことが、国中を活性化させることにつながる」
「そうすれば、地方も仕事が多くて大変だというくらい景気は盛り上がる。住民税、法人税を見直し、国民のふところを豊かにしていけばいい」
「二十一世紀の高齢化社会をどう乗り越えていくか。われわれは、おなじ日本丸に乗っている。その乗船料、くだけた言葉でいえば町内会費を皆さんで負担してもらう。そのことを訴えようではないか」
 二階はそんな議論を聞きながら、大平正芳元首相のことを思い起こしていた。
 昭和五十三年十一月、自民党の総裁予備選が行なわれた。大平は二階の地元和歌山県に遊説にやってきた。
 当時、二階は自民党所属の県会議員であった。和歌山県は他県に比べ、道路政策や交通政策が大きく遅れていた。二階は大平首相が誕生すれば、和歌山にとって何かやってくれるのではないかという期待を込めて集会に参加した。
 そのとき、大平は極めて正直に語りかけた。
「政治に過度の期待をかけてくださるな。私が自民党総裁になり、総理の座についても、それほど大きなことができるわけではありません。しかし、今回、総裁選に立候補した。支援をお願いします」
 二階は感銘を受けた。
〈さすがクリスチャンの大平さんだ。なんとしても当選したいと願えば、本当は甘いことばかり言いたいところだ。実現が難しくても、和歌山に公共投資を増やします、とでも言えば、票は入る。しかし、大平さんは、敢えてそれを言わない。なんて正直な人なんだ。信頼できる政治家だ〉
 小沢も党首選にのぞむにあたって、本当は甘いことを言いたいはずである。が、敢えて厳しい政策を打ち出した。きちんとした展望を示すことによって、支持を広げようとしているのである。
 さて、議論の結果、プロジェクトチームのメンバーは、小沢の政策を受け入れることを決めた。さっそく、十日夜に小沢に連絡を入れた。
「われわれは、小沢幹事長の政策を支持します」
 小沢は答えた。
「そうか、ありがとう。それじゃ、立候補の要請に署名して頂いた議員の皆さんに、朝までかかっても確認をとってくれませんか」
 二階は言った。
「しかし、今日は日曜日です。大半の議員は、地元に帰っています。それに携帯電話の電波の届かないところは、日本の半分以上あります。そこに全国の国会議員がいますから、連絡が取れるどうか‥‥‥‥」
「日本中のどこにいても、本人のご理解を得てください。見つけ出して、確認をとってください」
「わかりました。やってみます」
 二階らは十二月十日夜から電話をかけまくった。朝までに、なんと八〇人近くの了解を得た。
 二階は胸をなでおろした。
 十二月十一日午前九時前、小沢を乗せた飛行機が大阪の関西国際空港に下り立った。たまたま神戸に会議のあった二階も同行した。
 二階らが空港のロビーを歩いていると、修学旅行らしき四、五〇〇人の女子高生の一行と出くわした。小沢の姿を見つけると、いっせいに黄色い声をあげた。
「キャーッ! 小沢さんよ」
「ほんとうだ! サインもらおう」
「早く、写真撮って!」
 空港ロビーは、大騒ぎになった。
 ところが、当の小沢は立ち止まって手を振るでもなく、護衛に守られながらスタスタと出口に向かって歩いていく。小沢はすごくシャイであった。
 二階は彼女たちの興奮ぶりに驚きを隠せなかった。
〈これはアイドル・スター並みの人気じゃないか。いや、それ以上かもしれない。小沢先生は、ベテラン議員や財界人、あるいは玄人からの評価が高いのは知っていた。だが、まさかこれほど若者に人気があるとは思ってもみなかった。幸先がいい。かならず小沢ブームが起こる‥‥‥‥〉
 午後四時、小沢は、大阪市内のロイヤルホテルで記者会見し、十六日告示の党首選に自ら立候補する考えを正式に表明した。
「同僚議員らから強い要請があり、断れば政治家として責任回避になる。政策提言について支持グループの同意も得、海部党首からも『バトンを渡す』と託された。国民の暮らしを守るビジョンをきちんと示すことが政治に求められている」
 十二月十六日、党首選が告示された。小沢と羽田の戦いとなった。小沢陣営の選対座長に就任した二階は小沢と選対名簿を見つめながら、つぶやいた。
「小沢先生を支持し、ついていくからといっても、格別いいことがあるわけじゃない。むしろ、その逆です。厳しく重い政策だが、これが国民のためになるという信念で、これから急な坂道を小沢一郎と共に歩き続けねばならない。そんな峻しい道であるにもかかわらず、これだけの国会議員が賛同してくれた。すばらしいことですよ」
 小沢は黙ったまま、大きくうなずいた。
 二階は思っていた。
〈有権者に向かって、私が当選すれば公共投資を増やします、などというバラ色のことを言えば、いっときは喜ばれるかもしれない。しかし、政治で一番大事なことは嘘をつかないことだ。本音で語りかけ、信頼を得ることではないか。そのことが、大きなパワーになってくる〉
 二階は選対座長として全国の状況を詳細に分析した。小沢の政策を評価してくれたのであろう。支持の輪は、確実に全国に広がっていた。
 二階は思った。
〈これまで小沢先生は、総理や党首といったトップの座から常に一歩身を引き、謙虚に裏方に徹し、あまりでしゃばるタイプではないので、控え目にしておられた。本人も裏方のほうが好きだという。しかし、地方で行なわれる演説会やパーティーでは、主役として出席してほしい、という要請が圧倒的に多かった。国民は阪神大震災、地下鉄サリン事件、景気低迷などで不安を感じている。なんとかしてくれ、と政治に期待している。しかし、村山内閣はなんら適切な政治運営をしてこなかった。小沢先生は、マスコミに「剛腕」「独断先行」などといわれ、マイナスイメージで語り継がれてきた。しかし、国民は遠くからちゃんと見ている。この剛腕にこそ、期待しているんだ〉
 二階は選挙期間中、一度も地元和歌山県には帰れなかった。地元の情勢は、秘書や後援会幹部から電話で聞かされた。和歌山でも小沢支持が圧倒的に多いという。
 二階は勝利を確信した。
〈よし、いけた〉
 十二月二十七日、小沢は一二〇万票を集め大勝した。
 二階は正月を迎えるにあたり、地元に帰り、党首選でのお礼を言うため、後援会幹部に挨拶に出向いた。
 そのとき幹部から言われた。
「どうして、もっと投票用紙をくれなかったんですか。足りなかったですよ」
 二階は小沢支持票は飽和点に達していると思っていた。だが、まだまだ伸びる余地があったことを知り、改めて小沢待望の声の大きさを実感した。
〈若き日のケネディがアメリカ大統領に当選したとき、この歴史の松明を灯し続けよう、そして、ともに前進しようと国民に呼びかけ、その魅力によってアメリカの世論をひとつにまとめた。このことは他国からの信頼を得ることにもつながり、国のパワーにもなっていく。日本国民は、いまそれを求めているのではないか。そんな時期に小沢先生が登場したのだ〉



 ・ 政治家というのは忙しい仕事なんだな

 二階俊博は昭和十四年二月十七日、和歌山県御坊市新町で生まれた。
 父親の俊太郎は和歌山県の県会議員であった。政治に関して特別な背景があったわけではない。東洋汽船の太平洋航路船の乗務員を皮切りに、筏流し、農蚕業、母校の安居小学校の代用教員、紀伊民報社の記者、活版印刷業と紆余曲折の人生を歩み、二階が生まれる前年の昭和十三年三月に三十九歳で県会議員となった苦労人であった。
 俊太郎は温厚誠実な性格で、争いを好まなかった。人望も厚く、昭和十五年九月、県会議員でありながら、争いの絶えなかった日高郡稲原村村長に請われて就任。昭和十八年四月には広瀬永造知事の推薦で新設の御坊造船社長に就任した。
 俊太郎は多忙を極めた。なにしろ県会議員、稲原村村長、御坊造船社長の三役を兼務することになったのである。
 県会では生涯の仕事と心身を賭けて努力を重ねた、日高川三井堰(若野、野口、六郷)の統合施設を完成させ、日高平野農政史に大いなる功績を残した。
 御坊造船社長業では、戦時の海上輸送力増強の推進に努め、最盛期には従業員六〇〇人を越える大企業に成長させた。
 そのため、二階は物心がついたころから父親といっしょに遊んだ経験がなかった。父親がたまに家にいるときでも、関係者が仕事の打ち合わせにくる。かれらは、食事時でも平気でやってきた。自宅はまるで小さな公民館のようであった。
 外に出かけるといっても、いっしょに電車に乗るくらいである。父親は、そのまま仕事に向かってしまう。他の家庭のように、日曜日に父親に肩車されて遊びにいくことなどなかった。
 あるとき、家族そろって白浜温泉に旅行に出かけることがあった。が、それは御坊造船の社員旅行に参加しただけで、家族旅行といえるものではなかった。
 二階は子供心に思った。
〈政治家というのは、忙しい仕事なんだな〉
 昭和二十一年三月、戦後初の衆議院議員選挙が行なわれた。俊太郎は、周囲から推されて出馬した。和歌山全県区は、定数六であったが、そこに、なんと四八人もの候補者が立候補した。投票の結果、一六位で落選、捲土重来を期することになった。
 ところが、その年の十一月、思いもよらぬことが起こった。GHQ(連合国総司令部)から、公職追放を受けたのである。戦時中、村長職は自動的に大政翼賛会の支部長とされた。稲原村村長を務めていた俊太郎も、その罪を問われたのである。
 俊太郎は、やむなく県会議員、稲原村村長を離任した。公職追放者は、寄り合いの世話役にもなれない。学校のPTAの役員すらできない。まるで、格子なき牢獄であった。
 そのうえ、さらに追い打ちをかけるように木造船の時代が終わりを告げ、御坊造船の業績が低下した。従業員を縮小することになった。
 俊太郎は雌伏のときを過ごすことになった。
 俊太郎は毎朝、朝刊が配達されると同時に起床した。朝刊を開くと、まず追放解除者の欄を確認した。国会議員などの大政治家であれば、追放解除は事前に知らされる。しかし、多くの公職追放組は、新聞によって確認する以外、術はなかった。
 稲原小学校に入学、終戦後御坊小学校に転入した二階は、毎朝、そんな父親の姿を見ながら育った。
 一方、母親の菊枝は、当時としてはめずらしい女医であった。医師である父親のあとを継ぐため、東京女子医学専門学校(現東京女子医科大学)を卒業後、御坊市新町で医院を開業していた。
 そのため、夫と同様、忙しい日々を送っていた。ときには、深夜遅く、「子供が四〇度の熱を出した」と患者の母親が髪を振り乱してやってくる。車などない時代である。菊枝は、暗い夜道を自転車の荷物台や文化車という人力車のようなものに乗せられ、時には歩いて往診に出かけることもあった。それでも嫌な顔ひとつ見せなかった。
 菊枝は、家庭にあっては特に強い主張はしなかった。が、一家の支柱のような存在であった。人望も厚く、夫が公職追放中、その身代わりとして、何度も県議選に出馬するよう勧められた。が、菊枝は、固辞し続けた。早合点した新聞社が、「立候補予定者の写真を撮りにきました」と自宅にやってくることもあった。
 二階は、母親によく言われた。
「一生懸命頑張れば、それなりに世間が認めてくれる。それに見合う生活が自然に与えられる。努力すれば、かならず結果が出る。勉強して、頑張りなさい」
 御坊中学校に進学した二階は、あるとき、外郭団体の主催する弁論大会のメンバーに選ばれた。二階は、差別問題を主題とする島崎藤村の社会小説「破戒」を引用し、人権問題について演説した。
 二階は弁が立った。これは、父親の影響によるものであった。稲原村村長であった父親は、戦争中、戦死した英霊が帰ってくるたびに、慰霊祭の代表として演説を行なった。終戦が近づくと、それこそ毎週のように慰霊祭が行なわれる。二階は毎回欠かさず父親の演説を聞かされた。しかし、終戦のとき、二階はまだ小学校一年生である。話の内容については、よくわからなかった。だが、演説で重要なメリハリを知らず知らずのうちに訓練されていたのである。



 ・ 甲子園の応援団長

 昭和二十九年四月、二階は県立日高高校に入学、友だちに誘われるまま、バレーボール部に入部した。しかし、上背があるわけでもなく、バレーボールでは先がないと思い、一年で退部した。
 二年に進級すると、今度は、新聞部の友だちに誘われた。
「新聞を、作ってみないか」
 二階は父親が新聞記者をやっていたこともあり、新聞に興味を抱いていた。
「よし、やろう」
 二階は学校新聞づくりにのめり込んだ。記事を書き、広告をとり、先生に引率され、大阪まで印刷の校正に出かけた。全国学校新聞コンクールに出展したこともあった。
 昭和三十一年二月、日高高校は選抜高校野球選手権大会、いわゆる春の甲子園への出場を決めた。学校創立五〇周年にして、初めてつかんだ甲子園へのキップであった。
 二階は野球部員を激励するため、野球部のグランドを訪れた。レギュラーのうち玉置和賢、藤川博司の二人が、二階と小学校時代にいっしょに草野球をした仲間であった。
 二階はエースの玉置忠男、主力打者の三木努、キャプテンの田端保雄、さらにマネージャーの林宏和らに熱心に頼まれた。
「うちの学校には、応援団がないだろう。甲子園に出場する学校で応援団のないのは、うちだけだ。応援団がないのは、学校の仲間に期待されていないようで寂しい。おれたちには、勝ち抜く力はある。絶対に、一回や二回は勝つ。応援団を結成するよう、呼びかけてくれないか」
 二階はこのとき、新聞部の部長を務めていた。二つ返事で引き受けた。
「よし、わかった」
 二階はさっそく学校新聞の社説ならぬ校説を書いた。大見出しをつけ、全校生徒に呼びかけた。
「全校挙げて、応援を!」
「応援団の結成を、急げ!」
 その甲斐あって応援団結成の気運がしだいに高まってきた。しかし、応援団の応援方法は長年培ってきた、いわば伝統である。一朝一夕には、できるものではない。
 二階は大阪経済大学の教授をしている伯父の古久保五郎に相談をもちかけた。
「日高が甲子園に出るんですが、応援団がないんです。どうすれば、できるでしょうか」
 伯父は、頭を横に振った。
「やめといたほうがいいよ。一か月やそこらで、できるもんじゃない」
 しかし、二階はあきらめなかった。
〈そうは言っても、せっかく友人たちが甲子園に出るんだ。応援団がなければ、選手の意気も上がらないだろう〉
 二階は友人や知人に相談して歩いた。
 ある友人から、アドバイスされた。
「龍谷大学の応援団長は、日高高校のOBの浮津直道という人らしいよ。話を聞いてみたら、どうだ」
 二階はさっそく連絡をとり、交渉した。
「応援団をつくりたいのですが、協力してもらえませんか」
「いいだろう。休みの日に教えにいく。うちの大学の空手部の主将の大畑正法も、日高高校OBだ。かれにも声をかけて、四、五人でいく」
「よろしくお願いします」
 二階は胸を踊らせた。
〈これで、応援団がつくれるぞ〉
 二階はさっそく仲間に報告した。
「先輩が、応援団の結成に協力してくれる。こっちも早く受け入れ体制をつくろう。団員を集めようじゃないか」
 仲間のひとりが、言った。
「しかし、待てよ。応援団には団長が必要なんじゃないか」
 二階は答えた。
「それも、そうだな」
 全員、顔を見合わせた。
 やがて、視線が二階に向けられた。
「二階、そもそもおまえが言いだしっぺなんだから、その責任をとれよ。おまえが、団長をやればいい」
「えっ! おれがやるのか」
 仲間は、声を合わせて、
「そうだ、それがいい」
 結局、二階が応援団長を引き受ける羽目になってしまった。応援団員を募集し、十数人が集まった。
 数日後、龍谷大学の応援団長が空手部の主将たち数人を引き連れてやってきた。いよいよ、練習を始めることになった。
 応援団長の挨拶のあと、なぜか空手部の主将が瓦割りを披露した。
「エイヤッ!」
 瓦はみごとに真っ二つに割れた。
 二階は体を振るわせた。
〈こりゃ、真剣にやらないと、ぶん殴られるな‥‥‥‥〉
 二階らは煙樹ヶ浜で特訓を受けた。甲子園では、マイクを使えない。地声が命である。しかし、浜辺は風が強い。声が、なかなか通りにくい。団員は、声をそろえて懸命に大声を張り上げた。
 さらに、四・三拍子などという、いままで聞いたこともない応援方法も教わった。応援団として、なんとか様になってきた。
 だが、校歌を合唱する段階になって、はたと気付いた。
〈なにか、物足りないと思ったら、伴奏がないんだ〉
 校歌斉唱をより盛り上げるには、ブラスバンドが必要である。しかし、日高高校は、ブラスバンド部がなかった。
 二階はひらめいた。
〈御坊中学校に、協力してもらおう〉
 二階は御坊中学校時代の担任の先生のもとに出向いた。
「うちの高校の野球部は、御坊中学校出身者が多いんです。ですから、先生も甲子園に応援にきてくださいよ」
「都合がついたら、行くつもりだよ」
 二階は本題を切り出した。
「日高高校には、ブラスバンド部がないんです。ついては、ブラスバンド部を貸してもらえませんか。甲子園にいく往復の旅費しか準備できませんが、なんとか協力してくださいよ」
「うーん‥‥‥‥。おれの一存では、なんとも答えようがないな。校長や教頭に相談してみるよ」
「よろしくお願いします」
 やがて、オーケーの返事がきた。
 しかし、二階はまだ何かものたりなさを感じた。
〈応援団は、なんとか形になった。ブラスバンド部も確保できた。しかし、何かまだ足りない。そうだ、女子の応援だ。こうなったら女子の応援団を結成しよう。これなら、甲子園もびっくりするぞ〉
 いまでこそ、チアガールの存在はめずらしいものではないが、この当時、チアガールの応援など皆無であった。
 二階は女子リーダーの募集を始めた。
 だが、なかなか集まらなかった。女友だちに声をかけたが、みな嫌がった。
「いやよ。人前でそんなことをすれば、お嫁にいけなくなっちゃう」
 二階は懸命に説得した。
「そんなこと心配するな。一人くらいは、応援団か野球部のだれかが、責任を持つからさ‥‥‥‥」
 なんとか頼み込み、一〇人の女子リーダーを編成することができた。が、チアリーダーといっても、ズボンの上にセーラー服を着せたような、極めて地味で穏やかなものであった。
 こうして、二階は応援団、ブラスバンド部、女子リーダーをまとめあげた。が、二階には、さらに大仕事が残っていた。かれらを甲子園に連れていく旅費である。
 二階は奔走し、寄付金集めに走ってまわった。
 それ以外にも、いろいろな細かい打ち合せや小道具づくりなどに忙殺された。そのおかげで時間の都合がつかず、高校生活の思い出となる修学旅行に参加できなかった。
 四月一日、甲子園が開幕した。
 日高高校は、いきなり初日の開会式直後の第一試合に富山県の滑川高校との対戦、雨天のなか白熱した投手戦となった。
 応援団員は、わずか一か月の急造とは思えぬほど、みごとな応援ぶりを披露した。女子リーダーも、注目の的となった。報道陣が取り囲み、しきりにカメラで撮影している。
 二階はほくそえんだ。
〈このくらい盛り上がれば、選手も発奮してくれるだろう〉
 試合は、一対一のまま延長戦に突入した。
 このとき、それまで小降りであった雨が激しく降り出した。延長一〇回を終えた段階で引き分けとなり、翌日、再試合が行なわれることになった。
 二階は頭を抱えこんだ。
〈最悪の結果になってしまった〉
 二階は口では、「一回戦は、絶対突破できる」と長谷川治監督や選手たちは言ったものの、本心では勝てるとは思っていなかった。それゆえ、応援団の旅費も、一回戦で終わるという段取りしかしていない。前日の宿泊費は用意していた。が、もう一泊するだけの余裕はなかった。
 二階は応援団員に向かって頭を下げた。
「みなさん全員を宿泊させる予算がありません。大阪や兵庫に親戚のある人は、そこに泊めてもらってください。そうでない方は、いったん自宅に戻ってください。そしてもう一度、明日、応援にきてください」
 しかし、翌日も日高高校は第一試合に組まれている。これが、第二試合、第三試合なら時間的に間に合うであろう。が、朝早い第一試合に電車で駆け付けることなど不可能であった。
 翌朝、二階は日高高校の応援席側である三塁側のアルプススタンドに入った。開始時間が迫っても、やはりスタンドには空席が目立っていた。頼みの綱である御坊中学校のブラスバンド部も来ていない。
〈野球部には、もうしわけないな‥‥‥‥〉
 二階はふとスタンドの後方を見た。すると、第二試合に出場する広島商業の応援団がすでに来ていた。
 二階は思いついた。
〈そうだ、かれらに協力してもらおう〉
 二階は広島商業の応援団長に事情を説明し、話をもちかけた。
「あまりにも寂しいので、鳴り物を協力してくれませんか。その代わり、われわれも第二試合に残って、広商を応援しますから」
 話はついた。日高高校応援団は、太鼓を叩き、広島商業応援団は伝統の宮島のしゃもじを使って応援してくれた。幸いなことに、両校とも一回戦を突破した。
 日高高校は、トーナメント方式の妙で第三回戦に進んだ。一回戦勝っただけで、なんとベスト8入りしたのである。地元も盛り上がりを見せた。応援団を甲子園に送りこもうと寄付金も集まった。
 第三回戦の対戦相手は、優勝候補の東京の日大三高であった。のちに、プロ野球の阪神タイガースに入団する並木輝男をエースに擁していた。
 当日、二階らがスタンドに入ると、地元の県立尼崎高校の応援団が試合を終え、帰り支度をしていた。二階はスタンドの最前列に置かれている大きな台に眼をつけた。県立尼崎高校のエースは、のちにプロ野球の中日ドラゴンズに入団する今津光男であった。応援にも熱を入れ、応援団のリーダーが動きやすくするため、大きな台を持ち込んでいた。
 二階は、尼崎高校の応援団長をつかまえると、頭を下げた。
「この台を貸してくれませんか」
「いいですよ」
 二階は、広島商業応援団に続き、尼崎高校応援団の協力も得ることになった。
 日高高校は、優勝候補の日大三高を相手に互角の勝負を展開した。自然と応援にも熱が入った。二階は、応援団長として、喉が張り裂けんばかりの大声を出した。
 回は進み、日高高校の攻撃になった。先頭打者のキャプテンの田端保雄が、二塁打を放った。追加点のチャンスである。スタンドは、沸き返った。ところが、いきなり歓声が溜め息に変わった。
 応援団長は、グランドに背を向けている。それゆえ、二階には、事情が呑み込めなかった。後を振り返ると、二塁走者が、すごすごとベンチに帰ってくるではないか。
〈何が起こったのだろう‥‥‥‥〉
 二階は、眼の前にいる観客に訊いた。
「どうしたんですか」
「いやぁ、隠し玉にあったんですよ」
 二階は肩を落とした。
〈やはり都会のチームだな。隠し玉を使うなんて、思いもよらないよ‥‥‥‥〉
 この隠し玉が影響したのか、それまで日高高校の押せ押せムードであった試合の流れが、がらりと変わってしまった。波に乗れず、二対四で惜敗した。
 だが、二階には悔いはなかった。
〈やるだけのことはやった。修学旅行にはいけなかったが、野球部のおかげで、楽しい青春の一ページを飾ることができた〉
 なお、甲子園大会終了後、日高高校応援団は新聞記者などが投票する優秀応援団の一校に選ばれた。このときの応援団の型は、現在も受け継がれ、当時の応援団員と野球部員は、いまでも年に一回集まり、当時のことを思い出しながら、酒をくみかわしている。



 ・ 高校時代、生徒会長

 昭和三十一年春、二階俊博は和歌山県立日高高校の三年生に進級した。
 まもなく、生徒会長選挙が行なわれることになった。日高高校の生徒会長の任期は、四月から九月まで前期、残りを後期として務める二期制であった。
 応援団長として獅子奮迅の働きをし、そのリーダーシップが認められた二階は、応援団員、野球部員から立候補を勧められた。
「生徒会長選挙に出ろよ。おまえなら、絶対に当選する。おれたちも、一生懸命応援するから」
 しかし、二階はあまり乗り気ではなかった。
「無投票なら、やってもいいけどな」
「そんなこと言わずに、出ろよ」
 二階は執拗に勧められ、どうしても断りきれなくなった。やむなく立候補した。
 立候補者は、二階を含め二人であった。投票の結果、二階は圧倒的勝利をおさめた。
 それからまもなくのことである。全学連の影響から、県下の各校で授業料値上げ反対運動が起こった。二階のもとに、県下生徒会長会議の通知が届けられた。
 二階は顔をしかめた。
〈勉強するための環境を改善しようという趣旨ならいい。だが、授業料の値上げ問題に踏み込み、なおかつ署名を携えて県知事に直接話をしにいくなんていうのは、本来の生徒会の仕事じゃない〉
 県下生徒会長会議の話を聞きつけたのであろう。やがて、松山儀蔵校長から呼び出しを受けた。校長は、言ってきた。
「生徒会長会議があるようだが、きみも出席するつもりか」
 二階はきっぱりと答えた。
「出席しますが、授業料値上げ反対運動に同調するつもりはありません」
 校長は安堵の表情を浮かべた。
「そうか、良かった。きみも知ってのとおり、今度、わが校は、普通科と商業・工業科に分離することになった。教育委員会にも、県にも、世話になっている。それなのに、授業料値上げ反対運動なんてやってもらったのでは、学校としても校長としても、県に対して困るからなぁ」
 二階は言った。
「ただお願いがあります。授業料値上げ反対運動をしない代わりに、その捌け口として、校内緑化運動をやりたいと思います。金をかけるなら、植木屋に頼めばいい。しかし、金はいっさい使わず、全校生徒の協力で校庭のまわりに花壇をつくり、緑を植えるんです。田んぼの畦道を歩けば、クローバーなどいくらでも生えている。それを、全校生徒でとりに出かけるのです」
「なるほど、いいだろう」
 二階は校長のお墨付をもらうと、すかさず校内緑化運動に取りかかった。緑を植える花壇には、やわらかい土がいる。そこで、ダンプカーを持っている生徒の父親の協力を得て、山から土を運んできてもらった。全校生徒が汗を流して花壇をつくり、緑を植えた。
 二階は苦労してつくりあげた花壇を荒らされぬよう看板を立てることにした。しかし、「入るな!」という看板では、いくらなんでもかっこうが悪い。そこで、英語の辞書を引っ張ってみた。「KEEP THE GRASS」という言葉を見つけた。
〈これにしよう〉
 二階は看板にその英語を書いて立てた。
 初夏を迎え、学校祭が行なわれることになった。二階は、その際、あることを考えていた。国旗掲揚と国歌斉唱である。
 二階は小学校のころから不満に思っていた。
〈世界中のどこの国にも、その国の象徴としての国旗があり、国歌がある。それなのに、なぜ入学式や卒業式などの記念すべき日に、日の丸を掲げてはいけないのか。君が代を歌っては、いけないのか〉
 二階はひそかに準備にかかった。極秘裡に全校生徒に根回しをした。
「学校祭当日の開会式で、国旗掲揚と国歌斉唱をする」
 しかし、校庭には国旗を掲揚するポールがなかった。そこで同級生の父親の原見柳氏に約二五メートルほどの檜づくりのポールをつくってもらった。
 さらに、親しかった音楽の祐田信雄先生に頼み込んだ。
「学校祭当日、開会式で君が代を斉唱します。そのとき、タクトを振ってくれませんか。しかし、そのことは、職員会議などでうるさいかもしれませんが、生徒会から頼まれたと言ってください」
 国旗掲揚と国歌斉唱をすることを前もって発覚したら、大変なことになる。そんな時代であった。
 音楽の祐田先生は、理解を示してくれた。
「わかった。タクトをふることが、音楽教師の務めだ」
 その日がやってきた。学校祭の開会式の時間になると、先生たちが職員室から校庭に出てきた。校庭には、昨日までなかった国旗掲揚の立派なポールが立っている。唖然とした表情で見つめていた。
 進行担当の生徒が、号令をかけた。
「国旗掲揚台に向かって、回れ右! 国歌斉唱」
 生徒たちは、いっせいに回れ右をした。
 しかし、まったく動こうとしない同級生が二人いた。二階は不思議に思った。
〈どうして、この二人は、回れ右をしないのだろう‥‥‥‥〉
 二階はその二人と仲が良かった。文句があるなら面と向かって言ってくるはずである。が、それもなかった。のちに、二階はかれらが左翼にかなり傾いていたことを知る‥‥‥。
 秋を迎え、本格的な受験シーズンが到来した。が、二階は自分の将来について、それほど深く考えていなかった。
 周囲は、「お父さんのあとを継いで、政治家になれ」「お母さんのあとを継いで、医者になれ」とやかましく言ってくる。
 しかし、二階は政治家になるつもりはまったくなかった。昭和三十年四月、公職追放を解除された父親の俊太郎は、県議選に出馬した。が、落選していた。息子と同じ苦労を孫にも味わせたくないのであろう。二階は祖母の加津からも言われた。
「政治の道なんか、やめたほうがいいよ。家の者は、みんな苦労するんだから、大変だよ」
 二階も思っていた。
〈たしかに、政治家はあまり魅力のある仕事ではないな‥‥‥‥〉
 そうかといって、二階は、医者になるつもりもなかった。母親を見ていると、めったに休みがとれない。深夜でも平気で診察をさせられる。わりに合わない仕事だ、と思っていた。
 それに二階は医者の息子でありながら、注射が大嫌いであった。自分が嫌いなものを、人にすることなどもってのほかだった。
 二階は、漠然と考えていた。
〈どこかの企業に入って、サラリーマンにでもなろう。大学は、どこでもいい〉
 二階は地元から近い立命舘や同志社など関西の大学を受験しようと考えた。が、新聞部の顧問の津本誠一郎先生の一言が、妙に心に引っかかっていた。
「男なら、箱根を越えないといけない。関西にも立派な大学はたくさんあるが、できれば東京にいったほうがいい。政治家や文学者、経済人など、いろんな人にあえる。講演も聞ける。それもまた、勉強のひとつだ」
 二階はその言葉に影響され父親が学んだ東京の中央大学を受験することにした。こうして、昭和三十二年四月、中央大学法学部政治学科に入学した。



 ・ 大学時代

 中央大学時代、二階には心に残る三人の教授がいた。
 一人は公明選挙理事を歴任し、昭和三十四年に急逝する川原吉次郎教授である。川原教授は生前、語っていた。
「満員電車の状況を体験したものでないと、本当の政治は語れない」
 国会議員は、大きな車の後部座席にふんぞりかえって座っているイメージのあった時代である。それだけに、川原教授の言葉がひどく胸に残った。
 小松春男教授の人情味、人間味あふれる西洋政治史の名調子の講義も印象的であった。
 二階が特にショッキングだったのは、中央大学に講師として招かれ、大衆文化を講義してくれた社会学の樺俊雄教授であった。樺教授は、昭和三十五年六月十五日に安保改定阻止のデモ隊のひとりとして国会に突入し、死亡した樺美智子の父親である。娘の死という悲しみを乗り越え、その後も講義を続けた。ノンポリであった二階は、デモ隊に参加はしなかったが、樺教授にどのように慰めの声をかけていいのかわからなかった。
 やがて大学四年生となり、就職シーズンを迎えた。が、国内は安保改定の嵐が尾を引き、学生は就職難に陥っていた。
 二階は思った。
〈このまますぐに就職せず、この際、一年遊んでやれ。まだ若いし、一年くらいの遅れはどうにでもなる。さて、何をしようか‥‥‥‥〉
 そんなある日のことである。
 二階は文京区公会堂で開かれた自民党の大演説会にぶらりと立ち寄った。江ア真澄、中曽根康弘、安井謙、中村梅吉らが、三〇〇〇人の聴衆を相手に次々と演説をぶった。なかでも、江アと中曽根の演説のうまさは秀でていた。安保改定で混乱している世相を、わずか二〇分たらずの持ち時間で、快刀乱麻を断つごとくバッサバッサと切っていく。三〇〇〇人の聴衆は、すっかり魅了されてしまった。
 二階は興奮した。
〈すごい‥‥‥‥。安保をめぐっての大混乱のなかで、国の将来の展望をみごとに指し示す政治家とは、えらいもんなんだな〉
 演説会終了後、二階はそのまま神田の本屋に向かった。江ア真澄にひどく興味を抱いていた。
 ある雑誌を開くと、江アのことが載っていた。江アは、小沢佐重喜、遠藤三郎らと、近く岸内閣の外相を務めた藤山愛一郎を領袖とする藤山派を旗揚げすると書かれている。
 二階は胸を踊らせた。
〈よし、江ア先生の秘書をやらせてもらおう。政治家になるつもりはないが、政治の側から世の中を見てみるのも勉強だ〉
 二階はさっそく郷里和歌山県にいる父親に連絡をとった。父親の俊太郎は、昭和三十四年四月、自民党非公認の悪条件のまま県議選に出馬し、十数年ぶりに県議に返り咲いていた。
 二階は言った。
「よく子供の頃から話してくれた遠藤先生を、紹介してもらえませんか」
 遠藤は戦時中の昭和十七年、農林省から和歌山県の経済部長として出向してきた。そのとき、県会議員であった俊太郎と親しくなり、遠藤が東京に帰ってからも、交流が続いていた。二階はそのことを思いついたのである。
 父親が訊いてきた。
「紹介することは、やぶさかでない。しかし、なにをお願いしにいくんだ」
 二階は素直に打ち明けた。
「じつは、江ア真澄先生の秘書になりたいんです」
 父親は大声を上げた。
「なんだ! 秘書だと‥‥‥‥」
「ええ、遠藤先生に、江ア先生を紹介してもらいたいんです」
 父親は反対した。
「悪いことはいわない。秘書なんて、やめたほうがいい。秘書は大変な仕事だぞ。その政治家に心底惚れ込まないと、努まらん」
 二階は答えた。
「いや、長くやるつもりはないんだ。一年でいい。そのあとは、どこかの企業に就職するから」
「そうか。いずれにしても、遠藤先生に会うことは、悪いことではない。紹介するから、会いにいってこい」
 二階は遠藤のもとを訪ねた。父親から事情を聞かされたのであろう。あっさりと言った。
「よし、わかった。江アさんに言っておいてあげるよ」
「よろしくお願いします」
 まもなく、下宿先に遠藤から電話があった。二階は、後楽園球場の近くに下宿していた。
「秘書の件だが、江アさんは、ついこの間、やはり秘書になりたいという地元後援会の有力者の子弟を断ったばかりだと言うんだ。その矢先に、きみを雇うわけにはいかないだろう」
 二階は答えた。
「そうですか。残念です‥‥‥‥」
 遠藤は続けた。
「そこでだが、藤山愛一郎さんは、大物政治家だ。近い将来、絶対に総理大臣になる。その藤山さんの秘書になったら、どうか」
 二階は唐突に言われ、迷ってしまった。
〈どうしようか‥‥‥‥〉
 が、乗りかかった船である。
 覚悟を決めた。
「わかりました。それで、どうすればよろしいでしょうか」
「きみのお父さんの意思も確かめないといかんだろう。お父さんに上京してもらって、三人で藤山さんに会いにいこう」
 こうして、二階は、父親と遠藤と三人で港区赤坂にあるホテル・ニュージャパン内の藤山の個人事務所を訪ねた。藤山は政界入りする前、大日本製糖、日本化学、蔵王鉱業、日東製紙の四社を中心に十数社による藤山コンツェルンの総帥であった。四十四歳の若さで日本商工会議所会頭のポストにも就き、財界トップの座にあった。それだけに、ひどく上品なたたずまいをしていた。品のいい銀髪が特に印象的であった。
 やがて、遠藤から電話がかかってきた。
「藤山さんが、オーケーしてくれた」
「そうですか。ありがとうございます」
「しかしな、藤山さんは、有力な総理大臣候補だ。それだけに大日本製糖の役員や外務省の参事官、はたまた新聞社の政治部キャップなど錚々たるメンバーが秘書として仕えている。きみは、その下になってしまう。それで、いいか。たしかに、『藤山の秘書です』と名乗れるのは、かっこうがいい。だけど、政治の勉強にならないかもしれないぞ。ほんとうに政治を勉強したいなら、ぼくのところにきたらいい」
 遠藤は二階が父親のあとを継ぎ、政治の道を目指すため、秘書になりたいのだと思っていたのであろう。二階の将来を考えてのはからいであった。
 だが、当の二階は政治家になるつもりはまったくなかった。ましてや、遠藤の秘書になることなど夢にも思っていない。
 しかし、自分の将来について親身になって相談にのってくれた遠藤に「先生の秘書になるなど考えてもいませんでした」とは口が裂けても言えない。
 二階は窮余の一策を講じた。
〈とりあえず、半年だけ秘書をやらせてもらおう。そのあと、どこかのサラリーマンになればいい〉
 二階は申し出た。
「それでは、半年だけお願いできますか」
 こうして、二階は昭和三十六年春、中央大学法学部政治学科を卒業後、遠藤の秘書として社会人の第一歩を踏み出した。



 ・ 遠藤三郎代議士秘書時代

 遠藤は選挙区の陳情処理の合間を縫って、勉強の機会を与えてくれた。
「暇があれば、国会の委員会や党の会合へ出て、勉強しなさい」
 福田赳夫をはじめ自民党の重鎮や財界の五島昇などの会合にも同席を許された。
 ときには、夜の会合から車で自宅に帰る途中、わざわざ文京区初音町の二階の下宿先まで送ってくれた。降りる段になると、言葉をかけられた。
「お父さんから預かったきみに、酒を呑むことばかり教えているわけではない。帰ったら、勉強しなさい。この間、役所から経済白書がきただろう。あれは、文章が長すぎる。役人の書いた文章ではなく、政治家の文章として、コンパクトにまとめてみろ。それだけでも、十分に勉強になるぞ」
 半年ほどたったある日、沼津市の自宅で、遠藤は二階に言った。
「きみは、たしか半年ほど秘書をやりたいと言っていたが、今後、どうするつもりでいるんだ。ぼくが頼めば、ある大企業の社長秘書になれる。政治家になるには、企業の安定したバックアップも必要だぞ」
 二階はもうすこし遠藤のそばにいたかった。
「いえ、あと半年、先生のもとに置いてください。そこから先は、自分で決めたいと思います」
「よし、わかった」
 ところが、秘書になって一年を迎えた昭和三十七年春、思いもよらぬ出来事が起こった。朝、院内に入った遠藤は、突然、気分が悪くなり、倒れてしまった。軽い脳血であった。そのまま、東大病院に入院した。二階は心のなかでまるで大木が音をたてて倒れていくような大きな衝撃を受けた。
〈これから、どうなるんだ‥‥‥‥〉
 幸いなことに、遠藤は入院後しばらくして意識を回復した。
 やがて、長野県の鹿教湯温泉にリハビリに出かけることになり、二階は、そのお供をすることになった。
 奥さんの衣江が東京へ帰った後は、遠藤、二階、事務所の笹原の三人での共同生活が始まった。遠藤は懸命にリハビリに励んだ。声を出す稽古として、吉川英治の小説「宮本武蔵」を朗読し、朝の散歩や階段の昇り降りの練習を熱心にこなした。人里離れた山奥で、ひたすら政界復帰を目指して努力を重ねる遠藤の姿に、二階はつくづく感心させられた。
〈先生は、単に頭脳明晰だけでなく、努力のひとだ〉
 遠藤は温泉治療のために、一日五回も入浴した。二階はそのたびにいっしょに入った。おかげで手のひらが真っ白に変色してしまうこともあった。
 遠藤は茶目っけたっぷりに言った。
「きみは、病人じゃないんだから毎回、入らなくてもいいんだよ。上で時間を計ってくれればいいんだ」
 だが、もし湯船につかっている最中に発作でも起きて、湯船の中で転んだら大変なことになる。むろん、遠藤もそのことはわかっていた。
 懸命のリハビリで遠藤は順調に回復していった。いくぶん手足の不自由さは残ったが、五か月後には、政界復帰のお披露目である後援会組織・遠藤会の大集会を開けるまでになった。
 二階は自らに言いきかせた。
〈遠藤先生が政治活動を続ける限り、側にいて役に立てるよう頑張ろう〉
 遠藤はその後、三回の総選挙を経て、約十年の政治活動を続けた。その間、工業整備特別地域整備促進法、自転車専用道路の整備等に関する法案を提案し、成立にこぎつけるなど足跡を残した。



 ・ 遠藤代議士の死

 暮れも押し迫った昭和四十六年十二月二十六日、藤山派のメンバーが会合を開いた。
 翌二十七日には、党政調会長、通産相、蔵相を歴任した水田三喜男が、村上派、藤山派を吸収して水田派を結成することになっていた。
 藤山派は、この日の会合でそろって水田派に参加することを申し合わせた。遠藤は、あまり積極的ではなかった。が、最終的には参加を了承した。
 昼間はホテルで会議をし、夜は宴会となった。遠藤は、早々に帰宅することにした。
「寒気もするし、今日は帰る」
 その日、二階は遠藤から電話を受けた。
「今夜、水田派の結成会がある。ぼくは体の具合が思わしくないので、きみが代わりに出てくれないか」
 二階は、困惑した。
〈国会議員が集まって酒を飲む席に、秘書である自分など出席できない。しかし、それにしても、だいぶ具合が悪そうだな〉
 その電話のやりとりが十一年間仕えた遠藤との最後の会話になった。午後七時過ぎ、遠藤は突然、発作に襲われ、そのまま帰らぬひととなった。
 昭和四十七年一月十一日、静岡県沼津市公会堂において、しめやかに葬儀が行なわれた。葬儀委員長は、藤山愛一郎、友人代表の挨拶は、江ア真澄が行なった。
 その数日前、二階は江アに頼まれた。
「きみが自分の思いを書いてくれて結構だから、原稿の下書きをつくってみてくれ。そのうえで、ぼくが直すから‥‥‥‥」
 二階は、いざ弔辞の原稿を書く段階になると、遠藤との思い出が脳裏に蘇り、知らず知らず涙が溢れてきた。
〈先生は、脳血をみごとに克服し、現職の政治家として、その使命をまっとうされた。私も、微力ながら先生のためにベストを尽くした。悔いはないが、寂しい‥‥‥‥〉
 数日後、二階は元旧制浦和高校の教授や地元の裾野市長を務めた遠藤の兄佐市郎のもとに挨拶に出向いた。佐市郎は白内障で、ほとんど眼が見えなくなっていた。
 佐市郎が言った。
「残念なことに、私にはあなたの姿がもう見えません。しかし、あなたの様子は、声を聞いていてわかります。あなたは三郎のために、じつによく尽くしてくれました。大変な苦労をかけたと思います。政治の世界には、いろいろあると思いますが、やはりあなたが三郎の跡を継いでくれるのが一番いいと思ってます」
 佐市郎は、遠藤の後継者として総選挙に出馬しないかというのである。
 二階はきっぱりと断った。
「いえ、私は、そのようなことは夢にも思っておりません。これまで期待もしてこなかった。しかし、私が遠藤先生に十一年間務めたことは、佐市郎さんのその一言で、十分に報われました。郷里には、ぼくの帰りを待ってくれているひとたちがいます。私は、郷里に帰ります」
 二階はこのとき、昭和四十二年の県議選で落選の憂き目にあった父親のあとを継ぎ、県議選に出馬する肚を固めていた。



 ・ 帰郷、県議選出馬

 翌年に県会議員選挙をひかえた昭和四十九年春、二階は東京での生活に別れを告げた。地元にどっかりと根をおろし、選挙活動に本腰を入れることになった。
 このとき、後援会の中心となってくれたのが日高高校時代の野球部や応援団を中心とした仲間たち、特に力になってくれたのが小学校や中学校の同級生たちであり、さらに父俊太郎の古くからの熱心な支持者たちであった。
 昭和五十年四月、和歌山県議選が行なわれた。満を持して出馬した二階は、ベテランの有力県議とぶつかった。
 選挙は定数一名を争うまさに小選挙区であり、和歌山県政史上に残るような大激戦を演じた。この時、衆議院当選二回の若き日の小沢一郎や、静岡県知事の山本敬三郎、沼津市長の原精一、さらに鹿児島県選出の中馬辰猪代議士、のちの建設大臣や、日本道路公団副総裁を務めた佐藤寛政らの豪華メンバーが応援に駆けつけた。大接戦の結果、二階は初陣を飾った。
 投票率九一、六%、わずか一一〇票の差であった。
 その年、九月の県議会で、二階は日高川上流の椿山多目的ダム建設問題などについて初質問することになった。
 二階は事前に過去の県会議事録を調べてみた。複数の議員が議場でダム問題について質問演説をしている。しかし、一番はじめにダムの必要性を訴えたのは、なんと父親の俊太郎であった。
 二階は不思議な因縁を感じた。
〈奇しくも、父子二代にわたって県政壇上で、まったく同じ問題をとらえて演説するのか〉
 二階は自分の考えをまとめると、椿山ダムの問題について先輩である父親のもとを訪ねた。約一時間ばかり意見を交わした。
 二階の説明に、父親が答えた。
「いきさつや考えは、その通りだ。しかし、あの七・一八水害当時の御坊周辺のひとたちの水害の悲惨な姿をもっと強く訴えて、ダム建設を遅らせてはならないということを当局に迫るべきだ」
「わかりました」
 このとき、二階はこれが父親と語り合った最後の会話になるとは夢にも思わなかった‥‥‥‥。
 十月三日、二階はある式典に出席していた。その最中、自宅から連絡が入った。
「お父さんの様子が、おかしい」
 二階は式典を終えると、急いで駆けつけた。
 父親は布団で寝ていた。
 二階は声をかけた。
「今日は、これから県庁に行くことになっているが、行ってもいいですか」
 父親は、小さいながらも、はっきりした口調で答えた。
「だいじょうぶだ」
 二階は父親の病状を気にかけながら県庁に出向いた。
 その夜、県の当時の財政課長涌井洋治(元大蔵省主計局長)や砂防利水課長の中村堅(故人)ら当局との打ち合わせで遅くなった。二階は和歌山市のホテルに宿泊した。深夜二時、電話のベルで叩き起こされた。先輩県議の笹野勇からの電話であった。
「大橋知事の病状が、急変したぞ」
 二階は直ちに和歌山医大に駆けつけた。先輩や同僚議員と朝まで病院で過ごした。
 だが、大橋知事はその翌朝に亡くなった。二階は大橋知事の遺体を公舎にお見送りし、県庁に戻った。二階ら同志の県議は、知事急逝後の県政について打ち合わせをするため、場所をかえて会合を持つことになった。
 ところが、夕方、父親の容体が急変した。連絡を受けた二階は、急いで自宅に戻った。が、父親の最後には立ち会えなかった。
 二階は県政の父大橋知事と、実の父を同じ日に失うという二重の悲しみと衝撃を受け、このときほど人生の無常を感じたことはなかった。



 ・ 清新自民党県議団結成

 昭和五十年十月四日、大橋和歌山県知事が死去した。和歌山県議会議員であった二階俊博は、「清新クラブ」の仲間たちと今後の対応について協議した。
 そもそも、「清新クラブ」は、この年四月の県議選で初当選した若手議員十二人と共に結成された。
 和歌山県会は、三期、四期、五期と当選を重ね、経験を積んだ古参議員でないと、役職がまわってこない、意見が通らないという閉塞社会にあった。そのような閉塞社会を打破するために結成したものであった。現在自民党代議士の岸本光造も、名を連ねていた。すでに議長を経験し、今や県政界の重鎮である馬頭哲弥、門三佐博、西本長弘らが中心メンバーであった。
 二階らは、意見を交換した。
「われわれは、大橋知事の死を悲しんでばかりもいられない。知事選に、どう対応すべきだろうか」
「新しい知事を選ぶには、どうしても自民党公認が重要な要素になってくる。放っておくと、自民党県議団の幹部たちが勝手に自分たちの都合のいい知事をつくるぞ」
「そうさせないためにも、われわれは、自民党に入党しようじゃないか」
 協議の末、「清新クラブ」は、この日、自民党に入党した。「清新クラブ」の「清新」をとり、「清新自民党県議団」が結成された。
 当時、和歌山県議会には、自民党、社会党、公明党、民社党、共産党、県民クラブ、そして「清新クラブ」の七会派があった。
 自民党は中央政界では政権党であるにもかかわらず、定数四十六の過半数を占めていなかった。自民党をのぞく六党派の議席数の合計は、過半数を上回っていた。
 自民党は、「清新クラブ」の一二人が加わったため、ようやく過半数を維持することができた。そのため、二階らは一期生でありながら、議長選挙や首長選挙などをはじめ、あらゆることにキャスティングボードを握ることになった。
 二階らはまず政治献金問題について訴えた。
「われわれ清新自民党県議団は、特別な企業や偏った団体から政治資金を集めるのはやめにしましょう。広く多くのひとから支持を受けるべきです」
 その主張が受け入れられ、各選挙区で一万円会費の資金集めパーティーが行なわれることになった。ホスト役となる議員は、それぞれゲストを呼ぶことにした。
 二階は考えた。
〈私の選挙区には、どなたにおいで頂こうか‥‥‥‥〉
 二階はピンとひらめいた。
〈そうだ、小沢一郎先生にお願いしよう〉
 小沢は昭和五十一年十二月、福田内閣発足と共に建設政務次官に就任していた。
 じつは、二階は、小沢とは、小沢が代議士になる前から顔見知りであった。
 昭和四十三年五月八日、小沢の父親の佐重喜が死去した。佐重喜は、二階が秘書として十一年間仕えた遠藤三郎とともに藤山派の重鎮であった。遠藤は佐重喜の地元岩手県で行なわれた葬儀に出席するため、飛行機で岩手県入りした。脳血で倒れ、療養中の身であった遠藤が、その生涯を終えるまでの十年間の間、飛行機に乗ったのは、その一回だけであった。
 数日後、小沢と小沢の母親のみちが議員会館の遠藤の自室にやってきた。佐重喜の葬儀に出席してくれたことへのお礼の挨拶をするためである。しかし、あいにく遠藤は外出中で不在であった。遠藤に代わって、二階が挨拶を受けた。
 小沢は言った。
「先日はお忙しいところ、遠藤先生に父親の葬儀に出席して頂き、誠にありがとうございました」
 二階は眼を丸くした。
〈この方が、ご子息なのか‥‥‥‥。ずいぶんと若いんだな〉
 これまでにも、政治家の不幸に際し、その子息がお礼の挨拶にやって来られることが、しばしばあった。が、子息といっても、良くいえば円熟味を増し、悪くいえば峠を越しているひとがほとんどであった。
 しかし、小沢は極端に若かった。話を聞いてみると、日本大学の大学院に通っている大学院生だという。二階より三歳年下の二十六歳であった。小沢は、それから一年半後の昭和四十四年十二月の総選挙でみごと初当選を果たした。
 二階は、そのとき、江ア真澄に言われた。
「今度、小沢佐重喜さんの息子さんが当選した。きみは、かれを知っていたかな」
 二階は答えた。
「ええ。一度、議員会館のほうにご挨拶に見えられました」
「そうか。小沢君ときみは、歳もそう違わない。なにかのときには、お手伝いをしてあげてくれ」
「はい。わかりました」
 二階は同年代という親しみもあり、小沢と急速に親しくなっていく。
 さて、二階が小沢に連絡をとると、和歌山県議会の清新クラブのパーティーのゲストとして出席してくれるとの承諾を得た。二階はどのような形でパーティーを開くかを思案した。
 二階は県議選出馬の際、「3ラブ・キャンペーン」という公約を掲げていた。「3ラブ」とは、スポーツを愛する「ラブ・スポーツ」、花を愛する「ラブ・フラワー」、そして川を愛する「ラブ・リバー」である。
 その「3ラブ」のなかの「ラブ・リバー」キャンペーンの一環として、安珍清姫で有名な日高川の支流に鯉などの稚魚を放流することにした。安珍清姫とは、僧侶に恋をした女が愛を拒絶されたのを怨み、蛇身となって男を追い、日高川を泳ぎ渡り、道成寺の鐘に巻きついて、その中に隠れていた男をいぶり殺してしまう、すさまじい恋の物語の主人公二人につけられた名前である。
 当日、二階は小沢を稚魚の放流場所に案内した。稚魚は、県の稚魚養殖センターで購入していた。
 放流場所には、すでに数百人の子供たちが詰めかけていた。放流の模様を映そうとテレビ局もやってきた。大変な盛り上がりを見せた。小沢は二階の出身地である御坊市島の善明寺橋の畔に記念植樹をしてくれた。なお、この記念植樹は、現在も大きく成長している。
 昭和五十四年四月、二階は県議選で再選をはたした。この県議選は、対立候補が出馬せず、無投票であった。が、それにもかかわらず、五〇〇〇人の後援者を集めて行なわれた選挙前の決起集会にも、初当選の時と同様に小沢は出席してくれた。
 二階は小沢に感謝した。
〈いつか、小沢さんの友情に報いなければいけない‥‥‥‥〉
 現在、二階は小沢党首の側近、あるいは直近と呼ばれている。二階はそのことについて、
「そういわれることは光栄なことだが、私は、そのことについて否定も肯定もしていない。しかし、小沢さんが実力者になったからといって、急に擦り寄っていくようなことは一度もしたわけではない。信頼関係というのは、ひとつひとつ階段の積み重ねである。私は代議士になる以前から、小沢党首と友情関係があった」



 ・ 亡父の意思を継いで

 さて、二階は元県会議員であった亡き父親俊太郎の遺志を継ぐべく、日高川上流の椿山多目的ダム建設に尽力した。
 さらに、高速道路の紀南までの延長を提唱した。和歌山県には、阪和自動車道と通じる海南市から湯浅町までの海南湯浅道路だけしか高速道路がなかった。紀南の県民は、不便な生活を送っていた。その海南湯浅道路を御坊までつないで、さらに紀伊半島を一周しようというのである。
 二階は高速道路紀南延長促進議員連盟を結成し、自ら初代の事務局長に就任した。与野党問わず、全県会議員が会員になってくれた。高速道路を開通させるためには、十数年の歳月が必要とされる。二階は紀南延長に精力的に取り組んだ。県民に訴え、粘り強く県議会に、建設省に、国会に働きかけた。
 そのときの建設省における若手技官として二階のよき相談相手となってくれたのが、元日本道路公団総裁の鈴木道雄、現首都高速道路公団理事長の三谷浩、元関西国際空港柾務の本山蓊、元建設次官の藤井治芳、元建設技監の佐藤信彦らであった。
 平成八年三月三十日、その苦労がようやく報われた。二階の地元日高郡や御坊市に湯浅御坊道路が開通した。
 二階は日高港湾の建設も提唱した。御坊市や日高郡は、紀伊水道に面している。それにもかかわらず、港らしい港がなかった。
 二階は考えた。
〈過疎化を防ぎ、地域を発展させるためにも日高港湾を建設しよう〉
 しかし、漁業補償がまとまらないため、なかなか着工できなかっので二階は何度も運輸省の港湾局長に働きかけた。そのおかげで、歴代の港湾局長と顔見知りになった。
 平成十一年十一月五日、立場がかわり、二階は運輸大臣として和歌山県西口知事に対し公有水面埋め立てを認可し、現在、平成十六年完成に向け工事が進められている。
 昭和五十四年十月八日、総選挙が行なわれた。自民党の獲得議席は、前回の二四九議席を割り、二四八議席となった。その後直ちに保守系無所属一〇名の入党が決められ、二五八議席に達し、かろうじて過半数を確保した。
 三木武夫、福田赳夫、中曾根康弘らは、総選挙敗北の責任を求め、大平正芳首相に辞任を迫ったが、田中角栄の後押しを受けている大平首相は、頑として突っぱね、自民党は大混乱に陥った。いわゆる「四十日抗争」である。
 昭和五十三年十一月に行なわれた自民党総裁予備選挙で、現職絶対優勢といわれながら敗れ去った福田は、首相の座への未練が鎌首をもたげ、大平首相と激しくぶつかった。そのあまりの激しさゆえ「福田派が自民党を飛び出すのではないか」という動きがあった。
 このとき、のちに二階の選挙区になる和歌山二区の自民党国会議員は、早川崇、正示啓次郎の二人であり、偶然、二人とも福田派であった。もし、福田派が自民党を離党でもすれば、和歌山県二区は自民党空白区になってしまう。自民党主流派である大平派、田中派は、万が一のことを考え、立候補予定者の準備を始めた。
 二階は個人事務所で自らが協会長を務める御坊市バレーボール協会の打ち合わせをしていた。そこに、江ア真澄から連絡が入った。江アは水田派を経て、昭和五十年に田中派木曜クラブに入会していた。
 江アは唐突に言ってきた。
「こんな状態だから、いつ解散になるかわからない。どうだ、次期総選挙に出馬しないか。角さんとも話をしたし、伊東(正義)官房長官にも話を通してある」
 二階は突然の誘いに、内心驚きを隠せなかった。が、きっぱりと答えた。
「今回は、出るつもりはありません。私は小さな町の県会議員です。まだ、顔も名前も知られておりません」
 二階は、自分にはまだ国政に挑む条件が整っているとは思えなかった。それに、早川、正示とも、それぞれ深いつながりがあり、不意打ちのような形で出馬することは避けたかった。
 しかし、江アは、さらに勧めてきた。
「選挙ともなれば、東京から有力な幹部や閣僚たちをどんどん応援にいかせる。一週間もすれば、県下全域に名前が知れ渡るよ。そんなことを気にしないで、決意しないか」
 しかし、二階は首を縦に振らなかった。
 やがて、何の前触れもなく後援者が続々と集まってきた。
 二階は首をひねった。
〈いったい、なんだろう‥‥‥‥〉
 かれらは、口々に訴えかけてきた。
「解散になるかもしれません。ぜひ、総選挙に出馬してくだざい」
 しかし、二階には出るつもりはなかった。
 きっぱりと断わった。
「いや、今回は出るつもりはありません」
 ところで、この出馬要請の話が、どこから漏れたのであろう。「二階が出馬するらしい」と噂が広まってしまった。
 二階は頭をかかえこんだ。
〈まいったな‥‥‥‥〉
 数日後、二階はわざわざ不出馬宣言を行なった。



 ・ 衆議院選出馬を決意

 それから二年後のある日のことである。
 日高郡印南町真妻地区の有力者たちが、二階の自宅にやってきた。かれらは、御坊市と奈良県十津川村を結ぶ御坊十津川線を国道に昇格してほしいと切望していた。印南町は、県会における二階の選挙区ではない。だが、しばしば相談にやってくるため、すっかり顔見知りになっていた。
 二階は声をかけた。
「今日は、皆さんおそろいで、どこかに行かれるんですか」
「じつは、これから新潟に行くんです」
「新潟? 新潟の、どこに行くんですか」
「田中角栄先生の選挙事務所に」
 二階は大声をあげた。
「えっ! 田中先生のところに‥‥‥‥」
「はい、二階さんにもお願いしていますが、やがては御坊十津川線を国道に昇格してほしいと陳情に行くんですが、今回は選挙事務所へ陣中見舞いに行くんです」
「あなたがたは、田中先生を知っておられるんですか」
「いえ、一度も会ったことはありません。しかし、田中先生なら、私たちの気持ちをわかってくれるはずだと考えましてね」
 ひとりが、腕時計に眼をやった。
「ああ、もうこんな時間だ。急がないと、電車にまにあわないぞ」
 二階は時間に余裕があったため、御坊駅まで車で送っていくことにした。
 笑顔でかれらを見送った。が、内心、憂鬱であった。自宅にもどる途中、情けない気分になった。
〈地元に力のある国会議員がおれば、知り合いでもない田中先生のところに、わざわざ陳情にいかなくてもすむ。よし、なんとか国道に昇格できるように力を尽くそう〉
 二階は「国道昇格運動」を展開することにした。が、ただ国道昇格を訴えるだけでは迫力がない。そこで、乗用車六〇台、総勢二〇〇人のキャラバン隊を編成し、御坊市から十津川まで走行するキャンペーンを考えた。
 しかし、六〇台ものキャラバン隊を編成するためには、所轄の警察署の通行許可証を取らなければならない。それに、十津川にたどりつくためには、和歌山県、奈良県の二県にまたがるいくつもの所轄警察署の通行許可証が必要になってくる。
 二階は所轄の警察署に申請した。
 しかし、なかなか許可がおりなかった。
 二階は地元のひとたちに相談した。
「どうしましょうか」
 かれらは、熱っぽく言った。
「われわれはぜひやりたい」
 二階はかれらの強い決意を知り、大きくうなずいた。
「それでは、あまり仰々しくやらないようにしましょう」
 二階は警察署の担当者に、電話を入れた。
「キャラバン隊は、中止します」
 そのうえで、実行に移した。
 早朝、日高県事務所前にキャラバン隊が集結し、道なき道を越えて、奈良県十津川村までキャンペーンを繰り広げた。
 その夜、キャラバン隊に参加した真妻の住人三、四〇人が二階の自宅へ押しかけてきた。かれらは、口々に訴えかけた。
「なんとしても、次期総選挙に出馬してください」
 二階はかぶりを振った。
「一町内会の皆さんから『出てくれ』といわれて、『はい、出ます』と簡単にいくもんじゃありませんよ」
「われわれ全員で、考えに考え抜いてきたんです。真面目に、受け取ってください」
「わかりました。考えてみます」
 二階は「四十日抗争」以来、江アからも、たびたび言われていた。
「きみを国政に迎え入れたい。なにも田中派木曜クラブの数を増やそうということで、言っているんじゃないよ。きみのような若い力が、国会に必要なんだ」
 二階は決意した。
〈微力ながら、和歌山県の県民生活を発展させるために尽力しよう〉



 ・ 田中派(木曜クラブ)から出馬

 二階は江アに出馬の決意を伝えるため、後援者となってくれた日高郡の町村長と共に上京し、江アの事務所が入っている砂防会館に出向いた。砂防会館には、田中派の派閥事務所もある。江アと談笑していると、やがて小沢一郎、愛野興一郎が顔を見せた。愛野とは、二階が遠藤三郎の秘書を務めていた時代からの知り合いであった。
 二階は後援者を紹介していった。
 すると、小沢は感心して言った。
「郡の全町長、全村長さんが来てくれるなんて、すごいな。そんな簡単にできるもんじゃないよ。おれは十年以上、代議士をやっているけど、あんたは、まだ代議士にもなっていないのにな」
 その後、二階は江アや小沢との関係もあり、田中派の候補として出馬することを決めた。江アに連れられて、砂防会館の近くのイトーピア平河町ビル内にある田中角栄の個人事務所に出向いた。
 田中は二階の顔をじっくりと見ながら言った。
「ここにいる江ア君をはじめ旧藤山派のひとたちのほとんどが、木曜クラブにきている。遠藤三郎さんの秘書だった二階君が、うちにくるのは、自然の姿だよ。きみは、外から見ると、欠点はなさそうだし、間違いなく当選するよ」
 田中は選挙の神様といわれている。その田中に「当選する」と言われて悪い気はしない。しかし、二階はにわかに信じがたかった。思わず、聞き返した。
「そんなこと、どうしてわかるんですか」
 田中は手に持った扇子をせわしなくあおぎながら、茶目っ気たっぷりに言った。
「おれは毎日、馬を見て暮らしているんだ。この馬は、中央競馬に出してだいじょうぶか、この馬は地方競馬どまりか、この馬は馬車馬にしかならない、ということをずっと見てきた。だいじょうぶ、きみは中央競馬に出れるよ」
 その後、二階は記者会見を開き、次期総選挙に出馬することを明らかにした。県議の後継者も指名した。
 ところが、予期せぬことが起こった。和歌山二区選出の早川が急死してしまったのである。しかも、その後継者に参議院議員を三期務め、宗教政治研究会を主宰する実力者玉置和郎が座った。二階は厳しい戦いを強いられることになった。
 さらに、二階は知り合いの中央紙の記者に言われた。
「いつ選挙になるかわからないが、十月にはロッキード事件で逮捕された角栄さんの判決が出る。ベテランや力のある現職国会議員なら別だけど、新人が田中派を名乗って出馬するのは、大変なことだよ」
 その記者は、二階のことを思って助言してくれたのであろう。
 しかし、二階は覚悟を決めていた。
〈私は、すでに田中先生の門をたたき、江ア先生や小沢先生をはじめ田中派の議員とかねてより親しくおつき合いし、ご指導を頂いている。新人に不利だからといって、別の派閥から出ます、ということは性格に合わない。火薬庫が爆発して、自分のようなものは、木っ端微塵に吹き飛ばされるかもしれない。しかし、それでもいい。前進あるのみだ〉
 昭和五十八年九月十二日、著書「明日への挑戦」の出版記念パーティーが東京プリンスホテルで開かれることになった。出版記念パーティーといっても、決起集会のようなものである。地元から後援者がバス一〇台を連ねてやってくることになった。
 田中角栄も、ゲストとして出席してくれることになった。しかも、後援者たちといっしょに写真に収まってくれるという。後援者にとっては、それが楽しみのひとつであった。
 ところが、出版記念パーティーを数日後にひかえたある日、愛宕警察署から電話が入った。愛宕警察署は、東京プリンスホテルを所轄していた。
「御存じのように、田中先生は、十月十二日に裁判の判決をひかえています。大変、緊迫した状況にあり、身辺警護も容易ではありません。パーティーに出席することは仕方ありませんが、後援者と写真を撮るのだけはやめてもらえませんか。どうしても、そのときだけ警備が手薄になりますから」
 二階は憮然として答えた。
「田中先生ご自身が、『危険だから、やめる』と言うなら、一も二もなく従います。ただ、それは田中先生の判断ではないでしょうか。とりあえず、私のほうから田中先生に相談してみます」
 二階は直ちに田中に連絡を入れ、事情を説明した。
 田中はきっぱりと言った。
「おれは、そんなことを心配していない。恐れる気持ちもない。計画どおりやってくれればいい」
 二階は胸をなでおろした。
〈これで、田中先生といっしょに写真が撮れることを楽しみにしている後援者たちにも、喜んでもらえる〉
 パーティー当日は、裁判の判決をひかえているため、テレビ局をはじめとする報道関係者が多数詰めかけた。田中がゲストとして挨拶に立った。その一流の話術で出席者を魅了していく。そのなかで、のちにたびたびテレビで放映されることになる有名な言葉を吐いた。
「まぁ、皆さん、夕涼みをしていれば、アブも飛んでくるし、蜂にも刺されますよ」
 田中の秘書榎本敏夫の妻三恵子が爆弾発言をし、話題となった「蜂の一刺し」を皮肉っての発言であった。
 十月十二日、二階は、選挙運動の打ち合わせをするため、和歌山市にある連絡事務所に向かった。連絡事務所に到着すると、テレビ局の中継車が三台も四台も連絡事務所前に止まっていた。二階はいぶかしんだ。
〈今日は、なにかあるのかな‥‥‥‥〉
 二階が連絡事務所に入ると、テレビ局の記者が、声をかけてきた。
「十時に田中さんの判決が出ますので、その感想をカメラに向かって話してください」
 なんと、二階のコメントをとるためにテレビ局が集まっていたのである。
 二階はとまどった。
〈おれのような新人候補のコメントをとりにくるとは、思いもしなかったな‥‥‥‥〉
 午前十時、判決が下った。東京地裁の岡田光了裁判長は田中に対し、懲役四年、追徴金五億円の実刑を宣告した。首相の職権を利用した収賄事件で、実刑判決が出たのは、初めてのことであった。
 二階はカメラに向かって語りかけた。
「田中先生は、新潟の雪深い雪国から国政に出てこられ、郷土のため、さらには国のために懸命に働いてこられた。これから、この裁判がどのように展開していくのかわかりませんが、裁判は裁判として考え、私はこれまで通り、人間としておつき合いさせて頂きます。どんな立場になろうとも、私は田中先生と何もなかったと、その関係を否定するつもりはまったくありません。今後も、政治家としてのご指導を頂きます」



 ・ 初陣を飾る

 十一月二十八日、中曾根康弘首相は衆議院を解散した。十二月十八日投票の、いわゆる「田中判決選挙」に突入することになった。
 告示の三日前、田中角栄から、電話が入った。
「選挙の情勢を聞きたいから、すぐ上京するように」
 紀伊半島南端の新宮市から夜行列車に乗って、目白の田中邸に向かった。
 田中は二階の顔を見るなり、訊いた。
「きみの選挙区には、どのくらい市町村があるんだ」
「三十三市町村です」
「そうか。それじゃ、そのひとつひとつの状況を言ってみろ」
 二階は眼を丸くした。
「えっ! ひとつひとつですか‥‥‥‥」
「そうだ」
 二階は、言われた通り、三十三市町村の状況をひとつひとつ報告していった。
 田中は熱心に耳を傾け、「なぜ、そんなに少ないんだ」「そうか、そんなに取れるのか」といった具合に点検してくる。
 二階はそのたびに理由を説明した。
 二階は有田郡清水町について報告した。
「清水町の有権者は、四〇〇〇人ですが、私は、一〇〇票しか取れないでしょう」
 田中はダミ声で訊いてきた。
「一〇〇票とは、なんだ!」
 二階は説明した。
「ここは、正示先生の生まれ故郷なんです。ですから、敢えて入らないようにしているんです。生まれ故郷の地盤を荒らすようなことは、私の性に合いませんからね」
 田中は鼻をならした。
「ふーん、そうか。ま、一〇〇票だったら、ただの泡沫候補でも取れるな」
 二階は思わず苦笑した。
 まもなく、三十三市町村すべての点検が終わった。二階は、新人候補のために、わざわざ時間をかけて、ひとつひとつ点検してくれた田中を心から尊敬した。
〈なんて、頼りがいのあるひとなんだろう〉
 田中は激励してくれた。
「ここで負ければ、少なくともあと三年間はこれまでと同じように選挙区回りをしないといけない。きみも辛いだろうが、おれもそういうことをきみにさせたくない。だから、なんとしても、石にかじりついてでも、この選挙で当選させてもらえるよう頑張れ! おれがきみのためになにをすればいいか、なんでも言ってくれ」
 二階は、答えた。
「私は、県議時代に高速道路の紀南延長を訴え続けてきました。その裏付けをしてもらう意味でも、内海英男建設大臣にきて頂きたいのですが‥‥‥‥」
 内海は田中派の一員であった。
 田中はすかさず言った。
「わかった。内海君に行ってもらおう」
「ありがとうございます。しかし、内海大臣には、どのように連絡すればよろしいんですか」
「きみは、そんなことは心配しなくていい。内海君のほうから、きみのほうに連絡がいくようにしておく」
 最後に、田中は念を押した。
「大丈夫か!」
 二階は初陣に強敵を相手に大丈夫なわけはなかった。が、田中派の新人は自分ひとりではない。田中に少しでも心配をかけまいと思い、きっぱりと答えた。
「大丈夫です」
 のちに田中は、このときの様子を再現して二階をひやかした。
 まもなく、内海建設大臣の秘書官から連絡が入り、応援にきてもらうことになった。
 江ア真澄、林義郎厚生大臣をはじめ田中派の議員も続々と応援に駆け付けてくれた。ただ、小沢一郎は、選挙を取り仕切る党総務局長に就任したため、自民党本部で陣頭指揮をとらなければならない。そこで、小沢と同期で仲の良かった羽田孜を代わりに応援に寄越してくれた。
 十二月十八日の投票日、二階は五万三六一一票を獲得し、第二位、みごと初陣を飾った。
 十二月二十七日、国会が召集されることになった。この日朝八時、二階は地元の後援会の幹部数人と共に目白の田中邸に出向いた。当選のお礼の挨拶をするためである。
 田中は、開口一番、言った。
「おーい、二階君。よく当選したな。たくさんの票を取ったな。良かったな、本当に良かった‥‥‥‥」
 田中の読みでは、二階は、当選ラインぎりぎりだったのであろう。まるで、自分のことのように喜んでくれた。
 しばらくして、田中派新人議員の歓迎会が料理屋で開かれた。田中をはじめ二階堂進、江ア真澄、竹下登、後藤田正晴ら錚々たる顔ぶれが集まった。渡部恒三、奥田敬和、羽田孜らの初入閣が決まった夜であった。一回生議員は、幹部らと相対する形で座敷に一列に並んで座らされた。
 司会役の議員は、口をひらいた。
「それでは、ひとりづつ自己紹介をしてもらいましょうか」
 そう言い終わるやいなや、田中がいきなり立ち上がった。
「おれが紹介する」
 なんと、田中自ら紹介していくというのである。
 田中は、ひとりひとり、すべて空で紹介していった。
「かれは、××県××区選出で、こういう経歴の持ち主だ。かれの公約は、こうだ。対立候補は、××派の××だな」
 やがて、二階の番になった。田中は、すらすらと紹介していく。驚いたことに、名前や数字をひとつも間違わない。最後に言った。
「二階君は、農林省の局長をやった遠藤三郎先生の秘書を十一年も務めてきたから、長い政治経験をもっているんだ」
 二階は照れ臭そうに下を向いた。
 同期当選組のひとりに田中の娘婿田中直紀がいた。そのため、目白の田中邸で、田中を囲む勉強会が定期的に開かれた。
 田中は二階らに、いろいろなことを教えてくれた。
「いいか、一生懸命勉強して議員立法を成立させていくんだ。そうやって実力をつけていけば、たとえ一年生議員であろうと、大臣の椅子に座って説明や答弁ができる。マスコミに取り上げてもらおうと、おべんちゃらを言っているようでは駄目だ。政治家は行動しないといけない。行動して、仕事をすれば、マスコミは自然についてくる。政治家のなかには、朝刊を読んで、初めて行動するものもおるが、そんなのは政治家じゃない」
「政治家の基準、評価は難しく、やはり当選回数というのが大きくものをいってくる。ときには、抜擢人事を行なうが、これは、じつにむずかしい。抜擢されたものは、喜ぶが、同期や他のひとに恨まれてしまう。しかし、知事経験者や事務次官経験者は、一期早く大臣になってもらうからな」
「昨日、夜中に眼がさめたので、北海道から沖縄まで、わが派の議員の名前を書いて朝までかかって点検してみた。そしたら、これは応援にいってあげないといけない、このひとは役につけてあげないといけない、このひとは資金を援助してあげないといけない、といろんなことがわかった。しかし、紙がなかったのでチリ紙に書いた。中身をもちろん見せることはできんがな」
「いいか、政治家の資質は、五〇人の前で話ができるひと、五〇〇人の前で話ができるひと、一〇〇〇人の前で話ができるひと、という具合に分けられる。しかし、五〇〇〇人の前で話をし、私語をさせないでぴたっと聞かせることができるのは、そうはいない。いまのところ、中曾根康弘と田中角栄くらいなもんだな。きみらも、そうなれるように頑張れ」
 さて、二階ら自民党一回生は、昭和五十八年に当選したことにちなみ、超派閥の「五・八会」を結成した。奈良県選出の鍵田忠三郎(故人)、長崎二区選出で河本派の松田九郎が世話役となった。
 あるとき、「五・八会」で各派の領袖を順次招いて話を聞こうということになった。各派の領袖に伺いを立てると、おおむね賛同してくれた。ただし、一回生議員の顔や名前が一致しないため、全員、名札をつけてくれということになった。
 中曾根派領袖の中曾根康弘、河本派の前身三木派の領袖であった三木武夫らに話をしてもらった。
 田中角栄にも来てもらった。
 田中は、一くさり話を終えると、おもむろに立ち上がった。一人ひとりの席をまわって話をはじめた。
 名札をのぞきこみ、声をかける。
「あんたは、××さんの息子だな。××さんは、元気でやっているか」
「きみは、何度も選挙に挑戦して、苦労してきたな。ようやく当選できて、本当に良かった」
 驚いたことに、田中は他派の議員の出身や経歴についても、じつによく知っていた。
 二階は舌を巻いた。
〈田中先生はさすがだな。これは、かなわないや〉
 田中は自派の議員の席にくると、「ああ、これはうちのひとだからいい」と言って飛ばしていった。自派の議員よりも、他派の議員を優先してまわった。これまで、そのような領袖は、ひとりもいなかった。他派の議員は、すっかり田中の魅力に引き込まれた。田中ファンになってしまった。
 やがて、お開きの時間となった。
 二階は田中から声をかけられた。
「遠藤先生の奥さんたちは、元気にしておられるか」
 二階は小声で言った。
「じつはこのあと、遠藤先生のご家族、それに秘書時代の先輩たちと、この店の別室で会合をするんです。帰り際に五分でも顔を出して頂けますか」
 田中は、酔いがまわったのか、顔を赤らめながら、上機嫌で言った。
「なにをいうか。五分といわずに、いこうじゃないか」
 二階は田中を連れて遠藤家御一党の待つ部屋に入った。予期せぬスペシャルゲストの飛び入り参加に、みんなは驚いた表情をしている。
 田中はしみじみと遠藤の思い出話を語った。
「遠藤先生は、農林省の役人だったが、官僚に似合わぬスマートなひとだったな」
 そのころ、店の前で張っていた田中番の新聞記者たちは、「五・八会」の会合が終わっても、なかなか田中が出てこないので、大騒ぎになっていたという。



 ・ 竹下派経世会発足

 昭和五十九年、暮れも押し詰まった十二月二十五日クリスマスの夜、築地二丁目の料亭「桂」で田中派の竹下登を中心とする勉強会の旗揚げ準備会が極秘裡に開かれた。のちの創政会である。メンバーの人選は、竹下の後見人である金丸信が中心となり、竹下、小渕恵三、梶山静六とで行なわれた。
 年が明けてまもなく、二階は衆議院議員運営委員長に就任した小沢一郎に呼ばれた。その席で、打ち明けられた。
「じつは、先日、竹下さんを中心とする勉強会旗揚げの準備会が行なわれた。メンバーを人選したため、きみを誘わなかったが、旗揚げに参加してくれないか」
 二階は田中派の外様議員である江ア真澄の系列と見られていた。江アは田中派の会長代理として田中の名代的存在である。派内に勉強会結成の動きがあることを知られたらまずい。それゆえ、二階には声がかからなかったのである。
 二階は答えた。
「竹下先生を中心にした勉強会ができることは、大変、結構なことだと思います。しかし、田中先生の祝福をあびて出発すべきではないでしょうか。もし、それができなければ、結成式を延ばすべきです」
 小沢は眉をひそめた。
「なかなか、そうもいかないんだ‥‥‥‥。一週間のちに、また会おう」
 一週間後、二階はふたたび小沢のもとを訪ねた。
 小沢は訊いてきた。
「どうだ、いっしょにやってくれるか」
 しかし、二階は、いくら小沢からの誘いとはいえ、なかなか踏ん切りがつかなかった。
「よく考えたのですが、やはり、この間の考えと変わりはありません。田中先生の祝福をあびて、出発すべきです」
 そうこうするうちに、昭和六十年一月二十八日、毎日新聞の朝刊に『竹下氏が政策集団を旗揚げ』というスクープ記事が躍った。
 翌二十九日、それまでの創政会側がとってきた極秘行動が白日のもとにさらされると、田中は、怒り狂った。
「おれは佐藤(栄作)が派閥をやめると言ったからこそ、田中派をつくったんだぞ。竹下はおれが派閥をやめないと言っているのに、それでもつくりおって‥‥‥‥」
 田中の腹心である木曜クラブ会長の二階堂進をはじめ、会長代理の江ア真澄、事務総長の小沢辰男、田中の秘書の早坂茂三、佐藤昭らは、創政会の参加を表明した議員の個別の切り崩しをはかった。
 一方、創政会のメンバーは、メンバー集めに躍起になった。
「事が公となったからには、一刻も早く人数を増やすしかない」
 二階のもとにも、小渕恵三や創政会の中核メンバーから次々に誘いの電話が入った。
 しかし、二階は丁重に断った。
「勉強会をつくることは賛成です。しかし、田中先生の祝福を浴びる形で出発できなければ、いまは参加できません」
 二月七日午前八時、砂防会館別館三階の田中派事務所で、ついに創政会の設立総会が開かれた。出席者は、衆議院議員二九人、参議院議員一一人の計四〇人であった。
 それから二十日後の二月二十七日、田中は突然、自宅で倒れた。病名は、脳梗塞であった。この日以来、田中は、政治の表舞台に復帰することなく政界を去ることになる‥‥‥。
 三月初め、二階のもとに、奥田敬和から電話がかかってきた。奥田は、田中の「鉄砲玉」の役割を一貫して果たしてきた。田中の意向を聞き、それを派内の幹部、中堅を問わず伝えてきた。いやな役目が多かった。そのため、田中に近いとされ、現職の郵政大臣だったこともあり、創政会の準備会には誘われなかった。むろん、設立総会にも出席しなかった。が、そうかといって、二階堂や江アらとも立場を異にしていた。いわゆる、中間派であった。
「今度、アフリカのトーゴで列国議会同盟(IPU)会議が開かれる。おれは、その団長として出席するんだが、きみもいっしょに行かないか。すぐに返事をくれ。なぜ、きみを誘ったかは、アフリカへ行ってから話す‥‥‥‥」
「日数は、どのくらいですか」
「会議のあとエチオピアを視察すると、十六日間だ」
 二階は考えた。
〈一回生の私が、十六日間も国を離れるわけにはいかんな‥‥‥‥〉
 二階は即答を避けた。
「申し訳ありませんが、日程の調整もありますので、しばらく時間をください」
 数時間後、ふたたび奥田から電話がかかてきた。
「どうだ、考えはまとまったか」
 二階は、思案した末、この機会を逸したら、アフリカへ行くチャンスはないかもしれないと考え、同行する旨を伝えた。
 二階ら議員団を乗せた飛行機がコートジボワールに向けて成田空港を飛び立った。その機中、二階は奥田から打ち明けられた。
「おれが、なぜ、きみを誘ったのか、知っているか」
「いえ」
「じつはな、郵政大臣を退任したあと、すぐに田中のオヤジに挨拶にいったんだ。そのとき、オヤジに、こう言った。『一人前になったとはいいませんが、大臣を無事に務めさせてもらいました。これから先は、派内の若いひとのために力を尽くさないといけないと考えています。だれを応援したら、いいでしょうか』と。そしたら、オヤジは、『今度、和歌山から出てきた二階を手助けしてやってくれ』と言った。それが頭に残っていたんで、きみを誘ったんだ」
 二階は感謝の気持ちでいっぱいだった。
〈田中先生は、そこまで心配してくださっていたのか‥‥‥‥〉
 二階は列国議会同盟会議に出席後、超党派の国会議員団とともに飢餓に苦しむエチオピアを訪れ、現地を視察した。帰国後、直ちに「日本・エチオピア友好議員連盟」を設立した。奥田を会長に、二階は事務局長に就任した。二階は奥田から外交のイロハを教わっていった。
 昭和六十二年六月三日、ホテル・オークラにおいて、「竹下先生を総裁選に推薦する会」が開催されることになった。創政会の中核隊は、この日を実質的な竹下派旗揚げと秋の総裁選に向けての竹下の出馬表明の場にしようともくろんでいた。
 田村元、奥田敬和を大将格とする中間派の議員は、こぞって参加することを決めた。
 しかし、二階堂グループの江ア真澄、小坂徳三郎、山下元利、田中直紀らは、そろって欠席することを決めた。
 その日、二階は江アに電話を入れた。
 二階ら中間派の若手議員は、竹下派に参加する意志を固めていた。
 二階は思っていた。
〈最後まで田中先生に尽くすことが、筋かもしれない。しかし、われわれ国会議員は、政治の流れをみきわめて、郷土の期待にも応えなければならない。苦しい選択だが、やむをえない〉
 しかし、なかなか二階堂グループの幹部に打ち明けられなかった。二階は、まわりにせっつかれた。
「二階さんは、江ア先生と親しいんだから、報告してきてくださいよ」
 二階は大役を担い、これまで六度も江アに会った。が、いざとなると、切り出せないでいた。
 二階は思い切って、電話で打ち明けた。
「われわれは、今日の竹下先生の候補擁立集会に参加します。ご了解を頂きたい」
 江アは答えた。
「おれは、二階堂さんと行動を共にしないといけないので参加はできないが、きみはしっかり頑張れ」
 二階は江アの了解を得ると、直ちに小沢一郎に電話を入れた。
「遅くなりましたが、これから参加させて頂きます」
 この日は、田中角栄を含めた田中派の議員一四一人中、代理出席を含めなんと一一八人もが集まった。
 一か月後の七月四日、田中派が分裂し、竹下派経世会が発足した。



 ・ 空飛ぶシルクロード

 さて、二階は当選早々、竹下に言われた。
「今度、大蔵省の役人と勉強会をつくってみないか」
「といいますと‥‥‥‥」
「おれの経験からいうと、県議出身の国会議員と大蔵官僚が激突することが多い。しかし、この両者が力を合わせれば、ものすごい力になる。各派にちらばっている昭和五十八年初当選組のなかの県議出身者の有志と大蔵官僚とで勉強会をつくり、親交を深めればいい」
 こうして、竹下のはからいで大島理森、額賀福志郎らと勉強会を発足させた。勉強会の名称は、大蔵省の「大」と昭和五十八年初当選組の「八」をとって、「大八会」と命名された。以来、定期的に「大八会」の勉強会は続けられ、二階にとってかけがえのない財産のひとつとなった。今、その時のメンバーが大蔵省の幹部として重要なポストを占めている。
 昭和六十三年七月二日、金丸信を団長とする「日本・トルコ友好親善使節団」、いわゆる「空飛ぶシルクロード」がトルコを訪問することになった。
 この使節団は、「日本・トルコ航空路線開設に関する委員会(渡部恒三委員長)」が主催し、日本トルコ友好議員連盟の後援により計画されたものであった。国会議員三〇人を含む総勢三〇〇人という異例の大使節団となった。
 じつは、全日空の若狭会長の全面的な協力を取りつけ、チャーター便でキャンペーン・ツアーを実現させたのは、「日本・トルコ友好親善使節団」の事務局長の二階であった。
 二階は、昭和六十二年七月、スポーツ文化交流使節団の団長として、アフリカのチュニジア、カメルーン、コードジボワール各国を訪問した。その後、金丸の親書を携えてトルコを訪問した。小松宮殿下訪土百年記念事業として、バレーボールの親善試合、マンドリンコンサート、生け花のデモンストレーションなどを行ない、同時に多くの要人と接してきた。
 二階はトルコと浅からぬ縁で結ばれていた。明治二十三年九月十六日、二階の地元和歌山県西牟婁郡串本町の大島の沖(樫野崎)で、当時のオスマントルコ帝国から派遣され、サルタンの親書と最高勲章を明治天皇に捧呈して帰途についたトルコ軍艦・エルトゥールル号が、台風に遭遇し、沈没した。乗員六五〇名のうち五八一名が死亡するという大事故であった。
 そのとき、串本町の旧大島村の住人が深い人道的立場から助かった六九名の介護にあたった。そのことが、トルコ国民の胸に焼きついていた。串本町には「トルコ軍艦遭難記念碑」が建立され、以来、毎年慰霊祭を行なっている。これが、日本とトルコの友好の原点ともいわれていた。
 そのような関係もあり、二階は、ケマル・オル土日友好議員連盟会長をはじめ、多くの政府および議会の有力者から、強い要望を受けた。
「日本とトルコの航空路開設の促進と共に、第二ボスポラス橋の開通式に合わせて使節団を派遣してください」
 第二ボスポラス橋とは、アジアとヨーロッパを結ぶ二つ目の橋で、日本の企業共同体が中心になって建設されたものであった。
 二階はトルコ側の要望に応えるため、関係者に呼びかけ、日本・トルコ航空路開設に関する委員会(渡部恒三委員長)を結成し、自ら事務局長として活動してきた。
 七月三日に行なわれた第二ボスポラス橋の式典には、オザール首相ほかトルコ政府要人、外国高官ら多数が出席し、日本政府代表として越智伊平建設大臣、三谷建設省道路局長(現首都高速道路公団理事長)らが出席した。
 七月四日には、両国の宿願となっていた日本・トルコ航空路開設について、「来年の六月頃から、週二便、トルコ航空が成田へ乗り入れる」ことで合意し、さらに日本側も定期便開設の準備を行なうことに最大限の努力を約束した。
 二階は多くのトルコの人々に接し、温かい歓迎を受けながら、しみじみと思った。
〈中東平和に重要な役割を担うトルコとの友好の輪を広げることは、日本にとって重要な外交課題となっている。その意味で、民間の人々が多数参加した今回の使節団訪問の役割は大きい〉



 ・ 運輸政務次官に就任

 平成三年十一月下旬、東京都庁の鹿谷崇義副知事が鈴木俊一知事の意向を受けて、二階のもとにやってきた。
「鈴木知事が、小笠原空港建設計画でお世話になっているので、食事でもさしあげたいと申しております。ご出席願えませんか」
 二階は答えた。
「私には、そんなご心配は結構です。それより、小笠原の空港を最初にいって来られたのは小沢先生です。ですから、それなら小沢先生や金丸先生とおやりになった方が‥‥‥‥」
 小沢一郎と鈴木知事は、保守が分裂したこの年四月の都知事選で対立して以来、断絶状態であった。
 鹿谷副知事は言葉を濁した。
「いえ、まぁ‥‥‥‥。そんなことができれば、きっと鈴木知事もお喜びになると思います」
 じつは、二階に小笠原空港建設計画を持ちかけてきたのは、自民党幹事長時代の小沢であった。
 平成二年二月、二階は、海部内閣の運輸政務次官に就任した。それからまもなく、二階に、小沢幹事長から小笠原空港の陳情書とメモが届けられた。
「小笠原に飛行場をつくりたいという陳情がきている。調査してほしい」
 東京都から一〇〇〇キロあまり南にある小笠原村に都営空港を建設する計画は、運輸省や環境庁も自然保護や財源問題を理由に難色を示していた。
 二階はしばらくして幹事長室に出向いた。
「本気でやれ、とおっしゃるんですか」
「離島のひとたちの生活状況を考えたら、気の毒じゃないか。だから、なんとか飛行場ができないものかという思いでいる」
「わかりました」
 六月、二階は運輸省として初の小笠原の視察をした。
 そのような経緯があるため、二階は、一計を案じた。
〈鈴木都知事と金丸先生や小沢先生がいつまでも仲違いをしているのは、東京都のためにはもちろんのこと、日本のためにも良くない。この機会にお互いが仲直りするように努力してみよう〉
 二階はさっそく金丸と会い、切り出した。金丸は、自民党副総裁に就任していた。
「副総裁の立場にあるひとと日本の首都東京の知事とが、なんとなく仲違いしているのは、都民にとっても、日本にとっても良くないことだと思いますよ」
「そりゃ、そうだ」
「今度、鈴木知事との食事の会に出て頂けませんか」
「そりゃ、結構なことだな。他に、どんなひとがくるんだ」
「奥田敬和先生、愛知和男先生、村岡兼造先生、西田司先生、それに運輸省の松尾航空局長、小笠原の安藤村長、宮川議長もきます」
 奥田運輸大臣は、十一月二十九日に閣議決定され、小笠原空港建設が盛り込まれた第六次空港整備五カ年計画の策定を担当した経世会の前事務総長である。村岡は、その途中までかかわった前の運輸大臣。愛知は、前環境庁長官、西田は、小笠原諸島振興開発特別措置法を所管する前国土庁長官であった。
「そうか。行こうじゃないか」
「ところで、小沢先生と鈴木都知事との間もなんとか修復されてはどうでしょうか」
 小沢は、知事選で党本部の方針に沿って反鈴木側に回った自民党都義に配慮し、これまで知事との会談に応じてこなかった。
「うん、そうだな」
「小沢先生に、このことを、金丸先生から言って頂けませんでしょうか」
 金丸はしばらく間をおくと、ぽつりと言った。
「それは、きみから小沢君に言え」
 二階は思った。
〈それがむずかしいから、金丸先生にやってもらおうと思っているのに‥‥‥‥〉
 二階は乗りかかった船だと考え、小沢に会い、要請した。
 小沢は意外にも、あっさりと答えた。
「あのとき自分といっしょに行動を共にしてくれた東京都議の皆さんもいるからね。相談してみよう」
 小沢は十一月二十六日、知事選で磯村陣営についた自民党都議八人を都内のホテルに集め、知事と会うことを説明した。
 こうして、十二月十三日昼、赤坂のフランス料理店「クレール・ド・赤坂」で昼食会が開かれることになった。
 その日、鈴木都知事は赤坂に向かう車中の自動車電話で、鹿谷副知事に対し、ぽつりと洩らしたという。
「ほんとうに金丸さんや小沢さんが、きてくれるのだろうか‥‥‥‥」
 鈴木都知事の心配をよそに、金丸、小沢は姿を現した。新聞記者やテレビ局も押しかけた。昼食会は、なごやかな雰囲気で一時間にわたって行なわれた。
 金丸、小沢の出席に骨を折った二階は、胸をなでおろした。
〈良かった‥‥‥‥〉



 ・ 新生党を結成、104,600票を獲得しトップ当選

 平成四年八月二十二日、この日、政界を揺るがすにたる一つのスクープ記事が報道された。朝日新聞朝刊の一面に「東京佐川急便の渡辺元社長『金丸氏側に五億円』と供述」と大きな見出しが踊ったのである。
 八月二十七日午後三時四十分過ぎ、竹下派経世会の金丸信会長は、佐藤守良事務総長と共に自民党本部四階に設けられた記者会見場に姿を現し、その事実を認めた。
 その後、金丸は、港区元赤坂にある自宅に閉じ籠もってしまった。閥務は、会長代行の小沢一郎が取り仕切ることになった。
 しかし、この日を境に激しい派内抗争が勃発した。小沢を支持するグループと小沢の対応に猛烈に反発する反小沢グループに真っ二つに割れた。政界の首領として君臨した金丸も、十月十四日、政界を引退した。
 経世会は、さかのぼること六年前の昭和六十二年七月に旗揚げした。所属議員は、会長の竹下登を総理大臣にしよう、竹下政権を樹立しようと燃えていた。竹下自身も、総理大臣になることを目指し、先頭に立って頑張ってきた。そこに大きな求心力が働いた。
 昭和六十二年十一月六日、竹下は、念願の総理大臣に就任した。が、就任からわずか一年七か月、リクルート事件の責任を取り、退陣に追い込まれた。
 党内最大派閥である経世会は、その後、宇野政権、海部政権、宮沢政権と、時の政権に多大な影響力をおよぼした。が、総理大臣候補を擁立している集団でなければ、やはり経世会とて求心力は失われていく。そのような状況のなかで、金丸が引退……経世会は、一挙に分裂していった。
 十月二十一日――この日は、金丸の議員辞職が正式に決定する日であり、経世会の後継会長が選出されるタイムリミットの日でもあった。小沢グループは、羽田孜を会長の座に推した。いっぽうの反小沢グループは、小渕恵三を推していた。
 小沢は正式に羽田擁立を決めるため、いわゆる小沢系の議員を午前八時に招集した。場所は、千代田区紀尾井町のホテルニューオータニ「桂の間」であった。
 午前七時半過ぎ、二階は「桂の間」に入った。すでに、「桂の間」は、異様な雰囲気に包まれていた。反小沢グループの多数派工作にもかかわらず、経世会の全衆議院議員六十七名のうち、代理出席を含め三五人が集まった。
 二階は小沢を支持することに何の迷いもなかった。
〈小沢さんは、国際社会のなかにおける日本の果たすべき役割を考え、政治家が国民に対して何をなさなければならないのかという主張など、しっかりした哲学と政策的基盤をもっている。あるいは政治的な手法においても、優れた政治家である。私は、小沢さんの主張する政治改革の道をいっしょに歩んでいこう〉
 小沢が挨拶に立った。まず、金丸の献金問題に触れた。そして、羽田を会長に推す理由を説明し、最後に言った。
「私は、同志の羽田孜さんを新会長に推挙いたします」
 集まった同志から、いっせいに拍手が沸き起こった。
 やがて、羽田が「桂の間」に姿をあらわした。羽田は会長職を引き受ける決意を述べた。
 しかし、十月二十九日、反小沢グループの推す小渕が、経世会の第三代会長に就任した。
 小沢グループも新政策集団「改革フォーラム21」の旗揚げを発表した。経世会は事実上、分裂した。「改革フォーラム21」は、のちに自民党を離党し、新生党を結成することになるが、若手議員のほとんどは、このとき、そこまで発展していくことになるとは思ってもいなかった……。
 平成五年六月十七日午前、社会、公明、民社三党の党首が、この国会での選挙制度改革法案の成立を断念した宮沢総理に対し、内閣不信任決議案を提出し、衆議院の解散を求めた。
 翌六月十八日午後八時過ぎ、宮沢内閣不信任決議案の採決が行なわれた。「改革フォーラム21」のメンバーの衆議院議員三十四人が賛成にまわり、内閣不信任決議案は可決した。宮沢首相は、衆議院を解散。七月四日公示、七月十八日投票の総選挙に突入した。
 自民党を離党した「改革フォーラム21」のメンバー衆・参合わせて四四人は、六月二十三日に新生党を結成。党首には羽田孜、代表幹事には小沢一郎が就任した。
 二階は、同志の議員たちと話し合い、熱っぽく、訴えかけた。
「みんな、必ず当選して国会に帰ってこよう。思い切り戦って、死んでもいいくらいの気概があれば、なんとかなる。『身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ』の心境で、頑張ろうじゃないか」
 解散後、二階はしばらく東京にいた。新生党から出馬したいという新人候補の相談を受けていたためである。が、知り合いの議員と顔を合わすたびに言われた。
「二階さんまだ東京にいるの?」
 じつは、これまで二階の選挙区・和歌山二区は定数三で、あった。しかも、自民党独占区であった。が、定数が是正され、三から二に減っていた。保守同士の厳しい戦いが予想され、そのことを心配してくれたのである。
 二階はふと思った。
〈皆さんが心配してくれているように、私は東京にいてはいけないんだな〉
 二階は新人候補の相談事を小沢代表幹事にお願いし、羽田空港から南紀白浜空港に向かった。
 南紀白浜空港には、一四、五人の支援者が出迎えていた。二階は眉をひそめた。
〈あーぁ、怒られるのか……。『なんで、自民党を飛び出したんだ!』と責められるんじゃないかな〉
 二階は支援者たちに取り囲まれた。一人の支援者が、二階のもとに歩み寄り、肩をポンと叩いた。
「二階さん、われわれは、どこまでも、あなたについていくよ……」
 二階はうつむきかげんであった顔をぱっと上げた。支援者たちの顔を見回すと、かれらはみな同調するように、うなずきながら笑みを浮かべている。二階は思いもよらぬ温かい出迎えに目頭が熱くなった。
〈われわれの政治改革に取り組む姿勢が認められたんだ。ありがたい、ほんとうにありがたいことだ……〉
 七月四日、総選挙が公示された。
 二階は選挙事務所での出陣式を終え、さっそく街頭に飛び出した。有権者に懸命に訴えかけた。
「いま、日本には、改革の風が吹いています。この紀伊半島からも、ぜひ改革の狼煙をあげさせて頂きたい。羽田先生、小沢先生を中心に、われわれ新生党は、この国の政治を変えるという気概で立ち上がった。いま国会議員として当選させて頂いて、東京に帰れなければ、いっしょに立ち上がった同志に対して申しわけない。私は過去三回、皆さんに当選させて頂きました。しかし、なんとしても、この戦だけは勝たせて頂きたい」
 反応は上々であった。今回、はからずも自民党を飛び出たことに対して、だれひとりからも中傷や非難めいた言葉を浴びせられなかった。後援会もひどく燃えてくれた。
 二階はうれしくなった。
〈われわれの非自民の政権をつくるということを歓迎し、理解してくれている〉
 選挙中盤には、党首の羽田孜、渡部恒三、奥田敬和、愛知和男ら幹部が応援に駆けつけてくれた。かれらの話では、全国を回っていると現職議員はもちろんのこと、新人候補も善戦しているという。それだけではない。日本新党の候補者が台風の目となり、自民党が苦戦しているという。
 二階は意を強くした。
〈自民党の議席は必ず減る。過半数は取れない。非自民連立政権も夢ではない〉
 七月十八日、投票が行なわれた。
 二階はなんと一〇万四六〇〇票を獲得し、堂々のトップ当選をはたした。前回平成二年二月の総選挙での獲得した票のほぼ倍の数字であった。しかも、一〇万票を越えたのは和歌山二区における戦前、戦後を通じてのレコードである。
 ちなみに、和歌山一区の新生党現職候補の中西啓介も九万二二七〇票を獲得し、トップ当選をはたした。二人の獲得票を合わせると、羽田の地元長野県、さらに小沢の地元岩手県よりも新生党の支持率が高く、全国一であった。
 二階はこのときの感激をいまでも忘れていない。
「このとき、和歌山県民は、われわれの改革の精神をもっとも理解してくれたと思っている。その感激、感動は、いまでも思い起こすと心にズシンとひびく。いま、時移って、新生党は解党し、新進党を経て自由党として頑張っている。いかなる苦労があっても、泥まみれになっても、そのときに改革の道を支持してくれた人たちのことを思えば、安易な道を選ぶのではなく、あえて苦難の道を選ぶ。やはり、どんなことをしてでも国民や県民の皆さんの期待に応えないといけない」
 総選挙の結果は、自民党二二三、社会党七〇、新生党五五、公明党五一、日本新党三五、共産党一五、さきがけ一三、社民連四、無所属三〇であった。



 ・ 非自民連立細川政権の誕生

 七月二十二日夕方、二階は千代田区紀尾井町の戸田紀尾井町ビル内にある新生党本部に向かった。ビルの入口でばったり小沢代表幹事とすれちがった。小沢はどこかに出かける様子であった。
 小沢から声をかけられた。
「これから細川さんに会ってくる」
 二階は答えた。
「そうですか。いってらっしゃい」
 二階は小沢の後ろ姿を見送りながら思った。
〈小沢さんは、細川さんに、総理の座を要請するつもりだな……〉
 自民党が過半数を割ったため、政界は自民連立政権か非自民連立政権かで混沌としていた。そのキャスティングボートを握っていたのは、自民か非自民かで曖昧な態度をとっていた日本新党であった。小沢は日本新党代表の細川護煕を口説き落とし、なんとか非自民側に引き込もうとしていた。
 二階はこのとき、細川は間違いなく総理の座を引き受けると確信していた。
〈細川さんは、日本新党の代表として強烈な風を巻き起こし、たったひとりでたちあげた日本新党の議員を三五人も誕生させた。行政改革や規制緩和を断行しようと意欲にみちあふれ、気力も充実しているはずだ。普通の常識では、衆議院議員一年生が総理になるのは、なかなか容易でない。しかし、今日、政治は大きな変革を遂げている。細川さんが登場するバックグランドがあり、ステージも整っている〉
 果たして、細川は、小沢の要請を受け入れた。平成五年八月九日、非自民七党一会派による細川内閣が成立した。三十八年ぶりの非自民連立政権の誕生に国民は沸き返った。支持率は、なんと七〇%を超えた。
 しかし、細川政権は長くは続かなかった。細川総理は、自民党から執拗に、いわゆる佐川急便スキャンダルを追及され、耐えきれずに就任からわずか八か月の平成六年四月八日、退陣を表明した。
 代わって四月二十五日、今度は、新生党党首の羽田孜を首班とする非自民連立政権が誕生した。が、統一会派「改新」騒動で、社会党が政権を離脱。羽田政権は、少数与党となってしまった。
 社会党が政権を離脱した理由のひとつに、小沢一郎新生党代表幹事、市川雄一公明党書記長の、いわゆる一・一ラインの強権的な発言、政治手法に耐えきれなくなったのだと世評されている。
 しかし、二階はそれは大きな誤りだと思っている。なぜなら、羽田政権の誕生以前から、すでに社会党と自民党は裏でつながっていたのである。両党は、とりあえず非自民連立政権であっても、自民党と社会党中心の政権をつくろうという綿密な準備を進めていたのだ。
 それが証拠に、羽田内閣が総辞職すると社会党の村山富市委員長を首班とする自社さきがけ連立政権が誕生した。社会党は総選挙で非自民連立政権をつくることを公約に掲げて戦った。これまで自民党の政策に真っ向から反対し、日米安保反対、日の丸反対、自衛隊違憲を唱えてきた。その社会党が、選挙の洗礼を経ずして選挙民の了解を得ることなく、自民党と連立政権を組むことなど考えられない。
 この形の変わった組み合せの政権を正当化し、批判をカモフラージュするために一・一ラインに対する反発を巧みに利用して、非自民連立政権を離脱したのである。
 二階は思っている。
〈自社さきがけ連立政権は、社会党の村山委員長と自民党の梶山静六(元官房長官)が中心となって誕生した。村山さんと梶山さんは、かつて国対委員長同士として仲がいい。それに、この政権は、自民党が政権に戻れるなら、たとえ共産党とも悪魔とも手を組むことを辞さないという気迫、執念で政権返り咲きを狙っていたグループの手練手管の結晶だ。そんなことは、心ある国民が決して認めているわけがない。
 われわれ新進党が、いま、また社会党やさきがけとくっついても、党内でしょっちゅうゴタゴタが起こるだろう。小沢が右足を上げれば左足を上げたほうがいいだの、小沢が右にいこうと思えば、左にいったほうがいいだの、いろいろなかけ声が後ろからかかる。それでは、とても国際社会において信頼や尊敬を得られる外交や政治にはならない。やがて新進党も総選挙の洗礼を受けるが、この姿がいいのかどうか、国民に認知されるかどうか、その結果でおのずから明らかになるだろう〉



 ・ 『明日の内閣』国土・交通政策担当

 平成六年十二月二十八日夜、東北地方を中心に強い地震が発生した。いわゆる、三陸はるか沖地震である。
 その夜、新進党四回生で、「明日の内閣」国土・交通政策担当(国土庁長官、建設、運輸大臣)の二階俊博のもとに総合調整担当(官房長官)の西岡武夫から連絡が入った。
「地震担当として、直ちに現地に入ってもらいたい」
 二階は即答した。
「わかりました。しかし、党としてどういった対応を考えているのか明確でなければ、ただ見てくるだけの話になります。それについては、どうお考えですか」
「それでは、海部党首と小沢幹事長に相談しましょう」
 西岡が海部に、二階が小沢に、それぞれ連絡を取った。翌二十九日早朝、院内の新進党控室で海部、小沢、西岡、二階の四人で鳩首会議を開くことになった。その席には、国土庁の担当者も説明にやってきた。
 協議の結果、新進党として対策本部を設置し、調査団を派遣することを決めた。副本部長となった二階は、すかさず昼の飛行機で八戸市に入った。直ちに、地元の衆議院議員木村守男(現青森県知事)の案内で、綿密な調査を終え、その日のうちに政務補佐官の工藤堅太郎と共に帰京した。
 しかし、政府の調査団二〇人が新幹線でやってきたのは、その夜のことである。年末ということもあり、切符が手に入りづらいのはわかる。が、もう少し、迅速に対応できないものなのか。しかも、東京には、村山首相をはじめ担当閣僚の小沢潔国土庁長官、官庁の幹部の姿もなかった。
 二階は三十日朝、会議を開き、国土庁に対して緊急に申し入れた。
「…今回の地震発生に対し、残念ながら政府の危機管理対策に課題があることを指摘したい。先の自衛艦『なだしお』の事故、北海道南西沖地震、中華航空機事故、そして今回の地震時の例にも見られたように、役所等の御用納めの後・休暇時・緊急時の指揮、命令が十二分に機能しているかどうか一抹の不安を禁じえない。ついては政府はもとより、与野党一体となって国民が安心して国民生活を送れるよう早急な対応を図る必要がある。またわが国土が自然的、地理的条件から自然災害を受けやすい状態にあり、そのうえ都市化の進展等にともない、災害の態様も複雑化、大規模化する傾向にある。これに対応するには地方公共団体を含めた国全体として、立法措置を含む災害対策および危機管理対策を速やかに確立すべきである」
 翌平成七年一月九日、新進党の「明日の内閣」において、十七省庁の五〇名を越える担当者を呼び、国家の危機管理のありかたについて申し入れをした。しかし、政府には残念ながら何ら取り組む姿勢が見られなかった。
 そして、一週間後の一月十七日、阪神大震災が起こる。村山首相は三陸はるか沖地震の教訓をまったく生かせないまま、致命的なミスを犯すことになる。



 ・ 新進党阪神大震災現地特別対策本部長

 平成七年一月十七日午前五時四十六分、新進党「国土・交通政策担当」の二階俊博は、大阪・地下鉄御堂筋線の中津駅前にある東洋ホテル十二階のエレベーター前にいた。
 この日、午前九時から衆議院内の第二十五控室で新進党の政権準備委員会、いわゆる「明日の内閣」の閣議が招集されていた。国土・交通政策担当の二階は、その閣議に出席するため、午前六時十二分の新大阪駅発「のぞみ三〇二号」に乗り込むつもりであった。
 エレベーターが下から上がってくる途中で、ランプが消えた。
 二階はねむけまなこをこすりながら、エレベーターを待っていた。その瞬間、とてつもない揺れが二階の体を襲った。立っているのがやっとであった。
〈なんだ! いったい‥‥‥‥〉
 二階の眼の前で、信じられぬ光景が繰り広げられた。大きな植木ばちが、目の前でひっくり返る。背の高い灰皿が倒れ、コロコロと転がっていくではないか。やがて、すべての照明が消え、真暗闇の世界となった。
〈地震だ! 地震が起こったんだ〉
 まもなく、揺れがおさまった。
 だが、エレベーターは、もちろん動かない。
 二階は壁に手をつきながら非常階段に向かった。階段を一歩、一歩、確かめながら下に降りていく。まさに、手探りの状態でようやく一階のロビーに辿り着いた。
 しかし、ここも深い闇につつまれていた。非常用なのであろう、かろうじて蝋燭が一本立っていた。
 二階は顔面蒼白になっているフロントに声をかけた。
「もの凄い揺れだったね。チェック・アウトしたいんだけど」
「申し訳ございませんが、レジが開かないんです」
「それじゃ、名刺を置いていくので、請求書を送ってください」
 午前六時過ぎ、新大阪駅に到着した。新大阪駅までの道のりは、いつもと変わらない状態であった。
 しかし、新幹線は不通となっている。たとえ一時間待ったとしても、動く見込みはないと駅員が言った。
 二階は、仕方なく、伊丹空港に向かった。
 運良く、日本航空一〇二便、七時二十分発羽田行きに乗ることができた。
 羽田空港には、八時半に到着した。急ぎ足でモノレールに乗り込むと、カバンから携帯電話を取り出した。
 あれだけの揺れである。当然、官邸が何らかの対応をしているはずだ。が、念のためと思い、二、三の省庁に電話を入れてみた。が、官邸からは、何の指示も出されていないという。このとき、まだ政府は何も動いていなかったのである。
 午前九時半、二階は衆議院内の第二十五控室に入った。すると、海部が、険しい表情で仁王立ちしている。二階を見ると、怒鳴るように言った。
「直ちに、地震災害対策本部を設置する。きみは、副本部長として、いますぐ現地に飛んでくれ!ヘリコプターをチャーターしてもいい。とにかく急げ!」
 二階は大阪から東京に戻ったばかりであった。が、すぐさま神戸に引き返すことになった。
 だが、東京からヘリコプターを飛ばすのでは、あまりにも時間がかかりすぎる。時刻表を調べると羽田空港発午前十時半全日空六〇三便の岡山空港行きに乗り、そこからヘリコプターで現地に向かうのが、もっとも早く現地入りできる手段だとわかった。
 二階は、直ちに運輸省に申し入れ緊急の飛行許可をとり、岡山空港に民間のヘリコプターをチャーターした。こうして午後三時過ぎ、神戸市の上空にたどり着いた。あたり一面が凄まじい炎に包まれている。二階は現地入りした政治家のなかで、一番乗りであった。政府対策本部の責任者である小沢潔国土庁長官の現地入りは、二階から遅れること一時間後の四時二十分であった。
 二階は惨状を説明するため、ヘリコプターのなかから西岡幹事長に電話をかけた。
「もの凄い状況になっています」
 西岡が言った。
「小沢幹事長が、成田空港に到着し次第、あなたと連絡を取るように言っておられますので、よろしく」
 この日午後三時過ぎ、小沢はアメリカから帰国する予定であった。
 午後三時五十分頃、二階はヘリコプター内の携帯電話から小沢の自動車電話に連絡を入れた。二階から詳しい報告を受けた小沢が言った。
「私は、いまから現地にいこうか」
 二階が「すぐに来てください」と答えれば、成田空港から羽田空港に向かい、そのまま現地入りするといった口ぶりであった。
 二階は考えた。
〈小沢幹事長が、いまから現地入りすると、夜になってしまう。視察はできない。それに幹事長が来たら、番記者も同行する。別の意味の混乱も起こるかもしれない。かえって、騒ぎが大きくなるだけだな〉
 二階は、小沢に伝えた。
「私は、今夜、東京に帰ります。明日の朝、報告にいきますので、東京で待機していてください」
 翌日、二階は海部党首、小沢幹事長、西岡総合調整担当らに現状を説明した。党として、できることは全力を尽くして実行することを確認し、海部党首を団長にした第二次調査団を派遣することを決め、二階は再び同行した。
 その後も、二階は何度となく現地入りした。新進党のなかにも、リュックサックを背負って現地入りする議員もいた。
 あるとき、小沢が二階に言った。
「今度、リュックサックを背負って現地入りするときは、私もメンバーに加えておいてください」
 二階はさっそく執行部に相談を持ちかけた。が、執行部は、あまり乗り気ではなかった。小沢が行けば、新聞記者が同行する。返って被災者に迷惑かけるのではないかというのである。結局、そのような理由で小沢の現地入りは実現しなかった。
 一月二十日、通常国会が招集された。二階は、衆議院本会議で新進党の代表として「兵庫県南部地震」についての緊急質疑に立った。
 二階の「地震を知ったのは、いつか」という質問に対し、村山首相が答えた。
「この地震災害の発生直後の午前六時過ぎのテレビで、まず第一に知りました。直ちに秘書官に連絡をいたしまして、国土庁等からの情報収集を命じながら、午前七時三十分ごろには第一回目の報告がございまして、甚大な被害に大きく発展する可能性があるということを承りました……午前十時からの閣議におきまして非常災害対策本部を設置いたしまして、政府調査団の派遣を決めるなど、万全の対応をとってきたつもりです」
 しかし、地震発生当日の午後零時五十分、村山首相は記者団に対し、「七時半に秘書官から聞いた」とコメントしている。
 二階は思った。
〈七時半に知ったのでは、都合が悪いとでも思ったのか。しかし、それにしても午前六時に知り、午前七時半に報告を受けたというなら、その一時間半、いったい何をやっていたのか。国家の最高責任者としての自覚がなさすぎる……〉
 二階がかつて運輸政務次官だったときのことである。気象庁の新・旧の長官と懇談する機会があった。そのとき、新長官が真剣な表情で打ち明けた。
「次長のときは、上司の命令で動けばよかった。しかし、これからは、たとえば関東大震災級だといわれる東海大地震が発生すれば、混乱を未然に防ぐため、新幹線を止め、東名高速道路をストップさせることを総理に進言する責任が自分に持たされる。ずしりと重いものを感じます」
 かれのような責任の重大さを村山首相は感じているのか。総理大臣たるもの、国民の生命、財産をおびやかす戦争や災害の発生に対する危機管理は、常に考えていなければならない。ところが、村山首相は、翌十八日の朝八時から呑気に財界人と会食している。
 二階のもとに、被災にあった人の友人と称する人から電話があった。その人は隣の住人と共に生き埋めにあい、懸命に「助けてくれ」と叫び続けた。だが、隣人の声は、三日目にして途絶えた。自分は幸いにして四日目に自衛隊に助け出されたが、あと一日早く救助されれば隣人の命は奪われなかったという。
 二階は地震発生当初、村山首相をはじめ政府与党がもっと機敏に迅速に対応していれば、一〇〇〇人から一五〇〇人の死者は救えたのではないかと思っている。
 しかし、村山首相は自衛隊そのものにこだわった。たしかに自衛隊法には、「自衛隊は知事からの要請がないと出動できない」と記されている。が、自衛隊の最高指揮官は首相である。必要を感じれば、災害対策基本法の百五条に基づく各種の強制的な規制など総理に権限を広く集め、効力のある「緊急災害対策本部」を早急につくれる。そうすれば蔵相の了解なしに予備費の支出もできた。とりあえず、食費などの資金的援助が迅速にできたではないか。
 二階は十八日、新進党の海部党首とともに淡路島に入った。その際、一色町で兵庫県の貝原知事と会った。貝原は対応の難しさを訴えてきた。
「現在、三〇万人あまりの住人が避難所にいます。だが、避難所まで来られないひとがこの周囲に六〇万人はいる。一回に九〇万食、一日三食で三〇〇万食、用意しないといけません」
 もし、政府が取りあえずの財政的な援助態勢を整えさえすれば、市長や町長は、食事以外にも重要な対応ができるのである。
 ところが、村山首相はあまり権限のおよばない、法律の裏付けもない「非常災害対策本部」を設置しただけであった。そもそも災害対策基本法は、昭和三十六年、池田内閣のときに成立した。が、そのとき社会党は、この法案に執拗に反対した。そのことが村山首相の頭の片隅にあったのであろう。
 しかし、二階はそのことを実行しなかった村山首相は、首相として法律遵守の義務を怠ったと指摘されても、いいわけはできないと思っている。
〈村山さんは、戦前の国家総動員法、治安維持法などの暗い影の部分が頭から離れず、緊急災害対策本部を設置することをためらったのか。「あつものに懲りて膾を吹く」みたいな調子で、自分たちの思想信条と違った行動をしなくてはいけないと躊躇したのか。それとも……〉
 二階は暗澹たる気持ちになった。
〈総理として信じたくないが、いいわけのできない重い責任を負うことをためらっているのか。うまくいかなかった場合は、責任を取らないといけない。そういうことをやらせてはいけない、と側近が止めているのか〉
 事実、村山首相は「緊急災害対策本部」の設置についても、衆議院の二階の質問に対する答弁では前向きな発言をしていた。が、参議院になると途端に後ろ向きの発言になってしまう。ときには、わざわざ打ち消しの記者会見を開くこともある。
 二階は村山首相の決断力のなさにあきれはてた。
〈首相は広く意見を聞くことも大事だ。しかし、もっとも大事なのは、それを国の最高責任者としてどう決断するかだ。首相は、国のため、国民の安全を守るため、過去のしがらみにとらわれず、自分で決断する。そうすれば災害対策もスムースにいったはずだ〉
 村山首相は国会で、「万全の策だった」と答弁した。
 二階は激しい怒りをおぼえた。
〈これほど、間違いだらけのことをしていて、どこが万全の策なのか。国民に素直に詫びてほしい。そして、これまで自衛隊は違憲だと言っていたことに対して、悪かったと頭を下げてほしい。いまになって、自衛隊の対応が悪かったなどというのは、大間違いじゃないか〉
 二月十一日二階は神戸市役所を訪ねた。
 市庁舎の壁に、おそらく数日前に貼られたと思われる張り紙があった。
『自衛隊のみなさん、御苦労さまです』
 二階は眼を見張った。
〈だれが貼ったかしらないが、これが自衛隊の懸命な救助活動に対する神戸市民の本当の気持ちなんだろう。もし、自衛隊がけしからん、というのなら、すぐにでも破られて捨てられてしまったはずだ〉
 二階は阪神大震災における村山政権の無責任極まる対応に憤りを感じている。
 政府や兵庫県や神戸市等の役人は、不眠不休の状態で懸命になって復興作業に尽力している。いまだに家に帰らず、役所に寝泊りしているものも多い。そういう状況のなかにあって、政治は今後の災害復旧の財源対策について決断しないといけない。しかし、村山政権は難しい問題をすべて先送りしている。
 三月十七日午前、二階は災害対策特別委員会で質問に立った。ずらりと顔を揃えた各省庁の説明委員に向かって訴えた。
「皆さんは、財源手当てだけでもしてくれれば、われわれはどんな方法でもやり方はありますよ、と心で思っているのではないですか」
 村山政権は、いまだに財源の方法を明示していない。それゆえ、現行の枠内でおさめることしかできない。あれだけの大災害を受けた兵庫県の県庁の幹部でさえ、「中央の役所の壁は厚い」と打ち明ける。言葉の表現は穏やかである。が、その裏には、「政治はいったい何をしてくれているのか」「もう、お見舞いの言葉などいらない」といった激しい憤りを抱いていることが伝わってくる。
 二階は再三再四、本会議や予算委員会で適切な処置をするよう訴えている。村山首相は、それに対してあたかも本気で取り組むかのような答弁を繰り返す。だが、国会決議までしているにもかかわらず、村山首相の答弁と国会決議は]み合っていない。新進党の再三の申し入れを聞かずに、一方的に事を進めようとしている。
 しかし、新進党側は、このことを政争の具にしようという気持ちは持っていない。従って、予算の審議に協力してきた。国会審議の時間を少なくしても、大臣以下政府の幹部たちが国会に時間を取られず、適切な現地対応ができるよう配慮してきた。
 その結果、平成七年度予算は、早期成立を見ることができた。
 自民党は「これほど早く成立したことはない」と得意げに言っている。しかし、これは勘違いも甚だしい。一年前の細川政権時代には、自民党は国会の審議にまったく応じなかった。そのため、予算が大幅に遅れてしまった。新進党側は、その反省に立って是々非々でいこうと与野党の協力を呼びかけているのである。
 しかし、村山政権は野党の存在をまったく無視している。たとえば、明日、国会にかけようとする法案の名称を、その日の夕方になって平気で変えることもある。
 二階は村山首相を詰問した。
「あなたも国会対策委員長の経験者です。こんなことが許されていいのですか」
 すると、村山首相は「それは国会でお決めになることですから」と平然と答えた。
 二階には、まるで魂の入っていない答弁だと感じられてならない。村山首相には、野党や国民と協力して、この危機を乗り越えていこうという迫力も誠意も感じられなかった。



 ・ 紀伊半島−新時代

 二階は、地域の均衡ある発展、国土の均衡ある発展をはかろうと国是のようにいわれているが、はたして、そうなのか、という観点から、日本国中、どこに住んでいても、おなじような文化、教育、生活水準、あるいは医療、福祉を共有できるような社会をつくつていこうと考えている。

二階は、県議生活、国会議員生活をあわせると、すでに二十年を経過している。

地元に眼を向ければ、そろそろ自分の描く郷土発展へのグランドデザインも仕上げの段階に入らなければならない。二階は、「紀伊半島−新時代」を着実につくろうと考えている。

外交問題については、外国との信頼関係を築くためにも、政治家の交流だけでなく、あるいは外交官のプロフェッショナルの交流だけではなく、もっと国民的レベルで、スポーツや文化など、あらゆる分野で交流をはかっていこうと思っている。

二階は、いま、全国5400の旅行業者で形成する社団法人全国旅行業協会の会長をつとめている。新進党観光振興議員連盟の会長でもある。観光関係は、幅が広く、課題も多い。が、これは地域の均衡ある発展にもつながり、交通の利便性を高めることにもつながる。さらに、ひととひとの交流もあり、それぞれ生まれ育った環境と異なる国家、異なる地域をおたがいに交流することによって、また、新たな発想のようなものがでてくる。歴史、文化、それぞれの国、それぞれの地域の持つ特性を大事にする。

具体的には、日米観光交流会議、日加観光交流会議に、二度の運輸政務次官時代、それぞれ日本側代表として、定期的な会議を創設して今日まで回を重ねている。

観光関係の人だけの話ではなく、もっと広い視野で、国会議員も、積極的に参加してもらいたいと考えている。日米関係も、一口に日米関係というが、二階は、ひとつの州と日本国がしっかりと交流をはかっていくべきだと思っている。アメリカは、広大である。国内で時差もあれば、新聞も、テレビも、全米を網羅するようなことはありえない。

二階は、思っている。

(われわれは、日米関係にもうすこしキメの細かい対応をしていかないといけない。それをするには、一部の専門家が対応するだけでは駄目だ。やはり、国民的なレベルで、いいかえれば、草の根で、もっと広い視野で、交流を重ねていかないといけない。これもやはり、当然、政治が後押ししてやっていくべきではないか。そんなところに、国民的な賛同というか、共感、協力さえあれば、戦争なんてありえない。防衛にカを入れることも大事だが、別の意味での誤解を解いていく。そのようなことを、今後、ライフワークとして、国会議員であるかぎり、やっていきたいと思っている)



 ・ 「改革への誓い」−二階俊博

二 階 俊 博


 政治の世界に身を投じて、今年で丁度32年(注)、国会議員秘書11年、和歌山県議会議員8年、国会議員13年(注)思えば大学卒業の翌日から、社会人となった今日までひた走りに走り続けて来た「私の小さな道」を作家の大下英治氏の鋭い質問と熱心な取材、卓越した調査能力でもって、私にも過ぎし日をふりかえる貴重な機会を与えて頂きました。
(注 平成8年7月現在)




父のこと、母のこと今年のお盆も、父の郷里の山紫水明の日置川町、母の郷里の日本三大美人湯の龍神村のふるさとの人たちに、私の「国政報告」として、この本のことをお伝えしたいと思っています。



遠藤三郎先生のこと私はこの師にめぐり逢ったことが、人生の航路も変えたし、考え方にも最も影響を与えてくれた恩人。今でも政治の道に迷う時、ふと「この時、遠藤先生ならばどう考えるだろうか」としばしば思うことがあります。不思議なことですが、そんな時、答を暗示して下さるような気がします。遠藤先生のふるさとは静岡県裾野市で、富士山の麓。

私は、飛行機や新幹線の窓から富士山を見るとき、山の彼方のありし日の師のお姿をしのび、明日もまた頑張ろうと私の政治活動のエネルギーの源でもあります。



県議選二回、衆議院選四回、計六回の選挙に、多くの皆さまからご支援を頂き、まさに導びかれ、支えられて、今日があることを想い、あらためて感謝の気持ちが一入であります。

この感謝の気持ちが何にも優る活動の原点であり、原動力でもあります。



政治改革、行政改革、経済改革、私たちが真正面から挑む政治課題は、何れも僅か四文字でありますが、選挙の試練を受ける身にとっては、命がけの大仕事であります。単に改革ではなく、革命であります。しかし、誰かがやらねば、明日の日本はない。私たちは、今遽巡している時ではない。私たちは、この大きな課題に対して、決して逃げることも、避けることも、先送りをすることも許されないのです。一人でも多くの国民の皆さんの共感を得、賛同、協力を頂いて、日本国が立派に生き続けるための「外科手術」を思い切って断行しなければなりません。

「国のために死ぬその勇気がなければ政治家の仕事をおやめなさい。そして明日から嘘をついてもつとまる私のような作家の仕事でもされたら如何ですか。」これは何年か前、日比谷公会堂における自民党大会で、作家曾野綾子氏が述べられた祝辞の一節であります。

まさにその通りであり、党を離れた今も鮮明にこの時のことを印象深く覚えています。

ニュージーランドのボルジャー首相が細川元総理に対し、「あらゆる既得権を排し、一切の例外なしに時間をかけずにすることが大事。一時的に不人気になっても勇気を持って実施することが重要だ。」と言われたそうです。この重要な政治課題に新進党は率先して挑戦し、責務を果たす‥覚悟であります。

下民易虐




上天難欺




(下々の民は虐げ易いけれども神を欺くことはできない。)


福島県の二本松市に建立されている「戒石銘」の銘文であります。今から240年も前のものであります。政治家や公務員が今ほどこの戒めを心しなければならないときはないのであります。

決意を新たに「改革の道」に向かって前進を誓うものであります。

平成8年7月30日 和歌山県北山村東光荘にて




大下英治(おおした・えいじ)

昭和19年生まれ。

43年広島大学文学部仏文科卒業。

大宅マスコミ塾第7期生。

45年週刊文春特派記者となる。

以降、57年まで13年間活躍。

文春記者時代に『小説電通』(三一書房、現徳問文庫)を発表し作家としてデビューする。さらに月刊「文藝春秋」に発表した「三越の女帝・竹久みちの野望と金脈」が反響を呼び、岡田社長退陣のきっかけとなった。

58年に週刊文春を離れ、作家に。現在、政・財界、芸能小説まで幅広く手がけている。

著書に「小説田中軍団(上・下)「自民党の若き獅子たち」(以上、角川文庫)、「小説江副浩正・泥まみれの野望」「小説土井たか子・山が動いた」「小説安倍晋太郎」「小説郡はるみ」(以上、徳間書店)「小説三越・十三人のユタ」(新潮文庫)、「美空ひばり・時代を歌う」(新潮社)、「政界三国志(全六巻)」(広済堂文庫)、「小説佐川疑惑」(ぴいぶる社)、「小説東急王国」、「稟商小佐野賢治の昭和の三国志」「知られざる王国NHKJ「自民党燃ゆ」「NHK王国ニュースキャスターの戦場」「一を以って貫く一人問小沢一郎」(以上、講談社)、「坂本冬美・火ざくら伝説」(双葉社)ほか多数がある。