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幼少、学生時代

富士を背に建つ銅像

 富士を背にした静岡県裾野市今里の高原の一角に、いまは亡き一人の政治家の銅像が建っている。
 銅像の主は、かつて建設大臣をやったことのある遠藤三郎だ。
 台座には次のような一文が記されている。

「正三位勲一等故遠藤三郎先生は、国家の進展と郷土・静岡県の繁栄に献身され、幾多の功績を残された偉大な政治家であります。」
 遠藤三郎先生は一九〇四年(明治三十七年)四月、静岡県裾野市(旧富岡村)に生を享け、旧制沼津中学校、第一高等学校、東京帝国大学法律学科を卒業、直ちに内務省に入省されましたが、その後、志を農政に立て農林省に進まれました。
 官界にあっては食糧庁企画課長、和歌山県経済部長を経て農林省総務局長、畜産局長などの要職を歴任され、わが国の農林水産行政の発展に大きな貢献をされました。
 ついで一九四九年(昭和二十四年)の総選挙に静岡県第二区より立候補し、初当選を飾り、政界に進出されました。
 爾来、連続当選九回、二十二年間の長期にわたり、選挙区の皆さんの熱烈な支持を得られ、国政に情熱を注がれたのであります。
 その間、大蔵政務次官、建設大臣のほか自由民主党にあっては副幹事長、政調副会長、農林漁業基本政策調査会長、経済調査会長などの重職に就かれました。特に国土の開発、農林水産業の振興に力をそそがれ、当地区の交通網の根幹をなす東名高速道路を自ら建設促進議員連盟会長として議員立法をもってその建設に尽力されました。
 また、郷土を襲った狩野川台風の復旧に建設大臣としてその陣頭に立ち大きな実績を挙げるなどその偉大なるご功績は枚挙にいとまがありません。
一九七一年(昭和四十六年)十二月二十七日、県民の皆さまをはじめ多くの中央政、財、官界の友人達から惜しまれつつ六十七歳の生涯を閉じられました。
 ここに故人の豊かな人間性と抜群の政治力とその遺徳を讃え、永く後世に語り継ぎたく有志相はかり、故人ゆかりのこの地に生前の英姿を偲び、ご冥福をお祈りし、銅像を建立した次第であります。
 一九八六年 (昭和六十一年)五月吉日
 副総理・総務庁長官・江崎真澄」

 そしてこの台座には岸信介元内閣総理大臣が揮豪した「遠藤三郎先生の像」の銘盤がはめ込まれている。
 銅像を製作したのは日展会員で、彫塑家の館野弘青(熱海市在住)である。
 この銅像は碑文にもあるように昭和六十一年五月、除幕式が行われ、当初は裾野市の中央公園内に置かれていたが、裾野市が同市今里の高原に大規模な「市民運動公園」をつくることを計画したのを機に同六十二年十一月十四日、現在の場所に移したものだ。
 裾野市によると、この「市民運動公園」は、陸上自衛隊東富士演習場すぐそばの広々とした高原の一角、約十二ヘクタールの敷地に、総工費約二十七億円をかけて野球場、陸上競技場、テニスコート、多目的広場、芝生の丘、展望広場、冒険の森、水の広場、やすらぎの森、中央広場などの施設をつくろうというもので、平成七年末の完成が予定されている。
 市では、この公園を、「市民が行きたくなる公園にしたい」と張り切っているので、完成すれば、市民の憩いの場となることは確実である。
 銅像は、この公園の入口に予定されている場所のすぐそばに建てられている。
 ここはすばらしい眺めの場所で、晴れた日には、うしろに富士の麗姿、前方にははるか駿河湾も見渡せる。
 いまはまだ、草も生い茂り、雑然としているが、整地され、運動公園が出来上がると眺めはもっとすばらしくなることだろう。
 遠藤の銅像は、ここから自分が実現に力を注いだ東名高速道路を指さすようにして建てられており、往時をなつかしがっているように見える。 

戦争ごっこに明け暮れた幼少時代

 遠藤は日露戦争ぼっ発の年の明治三十七年四月十五日、静岡県駿東郡富岡村葛山(現在の裾野市)で、儀一郎と、よしの間に生をうけた。兄四人、姉二人の七人兄弟の末っ子だった。
 遠藤が生まれたころ、遠藤一家は農業を営むかたわら竹でキセルのラムをつくる仕事をしていた。
 儀一郎、よし夫妻は、こどもの教育にはあまりうるさくはいわなかったが、兄弟はみんな学業優秀で育っていく。
 ゆくゆく父親″がわりになって遠藤のめんどうをみる次男の佐市郎は東京帝大文学部を卒業して旧制浦和高校の教師を勤めたあと、生まれ故郷の富岡村長、裾野町長、裾野市長などの職にあったことでも有名だ。
 また、四男の吾一は、一家の期待を担って海兵に進んだが、惜しくも卒業を待たずに死亡した。
 吾一の優秀さはいまでも語り草になっている。
 遠藤一家を知る人は口をそろえる。
「吾一さんはそれはそれは優秀なお方だったそうです。吾一さんがもし長生きしていらっしゃれば、間違いなく世に名前を残されたことだろうと、当時、みんなが語り合ったということです。この話は、ここらでは伝説のようにもなっています」
 このような優秀なこどもたちを育てた両親はいったいどういう人だったのだろう。
 佐市郎は、その著「人生と教育」(全国協同出版株式会社発行)の中で、自分を育ててくれた両親について次のように記している。
「私が物心つくようになった頃、両親は農業を営んでいた。
 父は大まかな性格であったが、損得に拘わらず好んで人の世話をした。母は記憶力もよく胸算用も達者であった。ことに人情に厚い生まれつきで、非常に子ぼんのうであった。
 貧しい生活の中にも私を非常に愛し、私に大きな期待をかけていた。
 私は子供心にもそれが嬉しく、親のありがたさは幼い私の骨身に徹していた。
 私はそのために親の心を心として親の喜びを我が喜びとし、親の悲しみを我が悲しみとして、親にほめられ、親をよろこばせることに一心になった。
 私が生涯に於いて自分のこと、世の中の人のこと、自然界のことにどんなささやかなことでも有難味をもつことが出来るようになったのも、皆幼少の頃、家庭に於いて母によって養われた賜であると信じている」
 そして、同書の中で、
 「私の両親は人一倍働き者であった。だからその両親をよろこばせるには尋常では駄目であることを知っていた。
 私は出来ないながらも、同年の者にはまけないように働いた。それが何よりも楽しみであった」
 とも述べている。
 遠藤の兄弟が、そろって学業優秀だったのも佐市郎がいっているように、親の心を心としてそれぞれに人一倍がんばったからではなかろうか。
 遠藤はこのような両親と環境のもとで育った。
 遠藤は五男なのに「三郎」という名前がついている。 これにはいわれがあるようだ。
 のちに遠藤の秘書になった矢田保久によると、 「私が聞いた話では、昔、遠藤先生のお父さんが、島田三郎″という大物政治家を尊敬していらっしゃった。たいへん演説の上手なお方だったということです。このため先生がお生まれになった時、あのような人になってほしいと願い、三郎″という名をおつけになったそうです」
 という。
 これからすると、儀一郎は、遠藤が生まれた時から将来は政治家にすることを夢見ていたのかも知れない。
《衆院事務局などによると、島田三郎は嘉永五年十一月七日に生まれ、明治二十三年の総選挙に神奈川県下から出馬して当選、衆院副議長や同議長もつとめた》
 七歳になった遠藤は地元の富岡獄南尋常小学校へ進むが、小学生時代は、遊びの天オ≠ナもあったらしい。
 学校から帰ると、近所の友だちを誘っては野や山をかけ回り、戦争ごっこに明け暮れる毎日だった。
 遠藤の母の実家のイトコで、幼い時の遊び友だちだった遠藤利男はいう。
 「サブちゃんは私より二つ上。幼い時は、サブちゃんのうしろにくっついてよく遊び回ったもんですよ。
 当時、われわれこどもたちの間では、大名竹で鉄砲をつくることが流行していましてね。それを持ってよく野や山をかけ回ったもんです。戦争ごっこというやつですよ。
 サブちゃんはその遊びが大好きでね。
 近所の友だちを集めては号令をかけていたもんです。竹鉄砲といえば思い出すなあ。
 ある日、サブちゃんの家で、この竹鉄砲に使う火薬をつくろうということで、トイレのそばの土と、桐の木を焼いた灰を持ってきておわんの中でこね回していたんですねぇ。
 その時、何の拍子かで、火がおわんの中に入り、それが飛び出してタタミをこがしてしまったんです。
 サブちゃんのおやじさんにこっぴどくしかられたもんです。
 それにしてもサブちゃん、あの火薬づくり、どこでおぼえてきたんでしょうかねぇ。
 よほど戦争ごっこが好きだったんでしょうよ」
 小学校時代、遠藤の一年上だった三尋木俊平も同じように証言する。
 「そうだ。そうだ。よく竹鉄砲を持って戦争ごっこをしたもんだな。サブちゃんはみんなから尊敬されていて、カレが一声かければ、すぐみんな集まったもんだ」
 遠藤は、このような戦争ごっこの時も決して大将にはならず、参謀で通した。
 「戦争というものは大将ではなく、参謀によって勝ち負けが決まるもんだ」
 と、仲間に説明していたという。
 遠藤は、のちに政治家になってからも表面に出るというよりむしろ参謀的な仕事が多かったようだが、これはこのような考えが裏付けになっているようにも思える。
 遠藤は戦争ごっこに限らず、水遊びも好きだったようである。遠藤の生家の近くには、いまと違ってきれいな水が流れる小さな川があった。
 遠藤は夏になると、近所のこどもたちとよくこの川に水泳に行った。
 遠藤によく水泳に連れて行ってもらったという中野茂の話。
 「三郎さんはな。こどもの時から面倒見のいい人で、私などもよく背中にのせて泳いでくれたもんです。私にとっては尊敬するお兄さんのような存在でした」
《裾野市によると、遠藤が生まれた裾野市の歴史は昭和二十七年、小泉村と泉村が合併して裾野町が誕生、三十一年、深良村、三十二年、富岡村、須山村が編入、四十六年一月一日、市制を施行した。市の名称に示されるように富士の裾野に広がる風光明媚な都市。
 六十二年四月現在の面積は約三八平方キロ、人口は約四万六千人。
 現在、西歴二〇〇〇年を目標年次とした「裾野市総合計画」を策定。これに基づいて発展をとげている。
 将来像は「豊かな緑と清流のもと、ふれあいとつながりをたかめる富士裾野文化都市」という。
歌人、若山牧水もこの裾野をたいへん愛し、
富士が嶺や
 すそのに来り仰ぐとき
  いよよ親しき山にありける
の歌を残している。
その歌碑はいま、裾野市中央公園にある。》

福田、前尾、西村(直)とは一高同期

 富岡獄南尋常小学校を終えた遠藤は、佐野実業学校を経て県立沼津中学校へと進学する。遊び好きだった少年・遠藤もこのころから勉強一筋へと転身する。沼津中学への通学は汽車を使った。沼津中学へ通う所用時間は二時間余り。遠藤は毎朝五時ごろには起き、五キロ離れた国鉄(現在のJR)裾野駅に急いだ。帰宅もほとんど夜になるという日課だ。だから家で勉強はほとんど出来ない。
 それでも成績は常に上位クラス。
 学校以外ではどこで勉強していたのだろうか。遠藤の姉・いよの元へ養子に入った遠藤彰次が、後日、この点をいよに確かめたところ、通学の時間を勉強に当てていた、と聞かされた。
 「いやあ、感心したというより驚きましたね。おじさんはよく天才といわれましたが、努力家だったんですね。
 この話を聞いた時は、本当に頭が下がる思いがしました」
 彰次は、いまでもその日のことをはっきりおぼえている。
 この努力が実って遠藤は沼津中学校四年修了と同時に一高に進学した。一高時代の遠藤は勉強もしたが、血気盛んな青年でもあった。
 生家の近所の勝又文雄が証言する。
 「これはウチのものから聞いたことなんですがね。大正の末期、獄南尋常小学校の移転問題が持ち上がったことがあったらしいんです。
 いまの場所に移転しようということですね。
 そのころ、遠藤先生は一高生だったんですが、その遠藤先生が制服を着て近くの忠魂碑の前に立ち、移転の必要性を理論整然とぶったそうです。
 これには集まっていた人たちもすっかり感心。若いのにしっかりしている≠ニ、口々に話し合ったということです。
 これは若いころの遠藤先生を物語る一つのエピソードですね」
 《裾野市教育委員会の資料によると、嶽南尋常小学校は昭和四年八月三十一日、現在の場所に移転したことになっている。勝又が話す移転問題というのはこの時のことをいっているのではなかろうか。
 勝又も「おそらくそうだと思います。実際に新設されたのは昭和四年であっても話はずっと以前から出ているはずですから」といっている》
 青春もあった。
 遠藤は一高在学中にある女性に思いを寄せた。
 のちに妻となる衣江にである。
 衣江がいう。
 「なにぶん昔の話でしてねぇ。あれは大震災のあった年ですからよくおぼえています。大正十二年のことですね。カレが一高生、私が三島高女の女学生の時です。当時私は寄宿舎にいました。上級生を通じて手紙が届いたんです。遠藤からのものでした。手紙はローマ字で書いており、内容はお交き合いしよう≠ニいうものでした。
 遠藤と私は同じ村だったんですが、年齢が五つ離れていたこともあって前々から知っていたというわけではありません。
 それから間もなく震災があり、私は別の場所から学校に通うようになりました。
 すると、その通う道筋にある本屋さんにカレがよく姿をみせているんですね。おそらく学校が休みだったんではないでしょうか。そういうこともあってお交き合いが始まったというわけです」
 そして二人はのちに結婚へと進むことになる。
 一高の同級生で自民党の国会議員になったのは四人いる。
 福田起夫(元総理)、前尾繁三郎(元衆院議長)、西村直己(元防衛庁長官)、それに遠藤である。
 福田は文科丙類(通称、仏法)、前尾、遠藤は文科乙類(同、独法)、西村は文科甲類(同、英法)と、クラスはそれぞれ違っていたので、学生時代からみんなが顔なじみだったというわけではないが、政界に入ってからは何らかの形でかかわりを持ち、お互いに助け合っている。
 遠藤はこのうち前尾とはクラスがいっしょだったので、学生時代から竹馬の友のような関係にあり、共に酒を飲み歩いたり、政治談議に花を咲かせていたことがあるようだ。
 《衣江の話「前尾先生とは学生時代はもとよりそれ以降もずっと仲がよかったようで、家にもよくお見えになっていました。
 なにしろ長男(統=すめら)の名前も前尾先生にいわれて決めたというほどですから」》
 福田とは政界に入ってから話し合うようになったようだ。
 福田がいう。
 「遠藤君とは同じ大正十二年に一高に入った。しかし、クラスが違っていたのでね。当時は全寮制だったので、同じように食堂で食事をしたり、時に同じ教室で講議を受けることもあったと思うが、直接話し合うチャンスはなかったね。
 ただ、あのころは高校間の各種対抗試合が盛んでしてね。私も野球部マネージャーだった関係から野球の試合には必らず参加した。
 その試合ごとに熱心に旗を振って応援してくれるグループがいた。
 その中に遠藤君がいたんだね。
 あの人は誰か″
 と聞いて、遠藤君であることを知ったんだ。
 でも、直接、話し合うことはなかったね。
 前尾君とはクラスがいっしょだったんで早くから知り合っていたと思うよ」
 その福田が、遠藤と直接話し合うようになったのは政界に入ってからだ。
 「政治家になってからの遠藤君は、岸先生(元首相)の門下生というか、旗本のような存在になりましてね。岸先生にはよく協力していましたよ。
 岸先生ががんばった保守新党運動、保守合同運動、さらには安保改定などの時に遠藤君はよく働いていました。
 私も政治家になってからの遠藤君はよく知っていました。
 何というか、若いころの遠藤君の働きというのは若アユがはね回っているという感じがしましたね。
 われわれの同級生の中にもこのように活達で、しかも将来を見通す政治センスを持ち合わせた人がいたのかなとホトホト感心させられたものです。
 遠藤君からはいろいろ教わるものがありました」
 福田が見た若き日の政治家・遠藤像≠ナある。
 西村とも前尾を含めて三人組″と呼ばれたほどのよき友人だった。
 遠藤は、この一高時代の同級生にいつまでも思いをはせていたようで、彰次によると、
 「福田さんと前尾さんはいつまでも仲よくしていてほしい。お互いにケガをさせたくないんだ」と、しばしば口にしていたという。
 遠藤は昭和二年四月一日、東京帝国大学法学部に入学した。専攻は独法だった。
 東大時代、遠藤は中野にある寮から通った。一高時代もそうであったが、このころの遠藤は、当時、旧制浦和高校の教師をしていた次男の佐市郎を大きな心の支えとしており、いろいろと相談にものってもらっていたようだ。
《佐市郎は、その著「人生と教育」、「私の生涯」(葵出版社発行)などによると、明治二十四年六月二十吾、儀一郎、よしの間に次男として生まれた。小学校を出で地元の補習学校に入学したが、一年修了の時点で、一時、学校を辞め、家事の手伝いをした。
 その後、再び補習学校に戻り、卒業後、一年間、小学校の代用教員をした。
 次いで、東京都立豊島師範学校−神奈川県師範学校を経て東京高等師範学校に進み、同校を卒業して一年間、静岡師範学校に奉職したが、大正八年九月、東京帝国大学文学部に入学。大正十年三月、同大学を卒業、東京都内の旧制中学の教師をしたあと旧制浦和高校の教師となった。
 このころ、遠藤のよき相談相手になっていたわけだ。
 しかし、佐市郎は終戦を前にした昭和二十年三月、同高校を辞し、郷里に帰り、農業に従事することになった。
 そのうち、周囲に奨められ、二十二年、富岡村の初代村長に当選した。
 三十二年九月、富岡村が裾野町に合併、これに伴って村長を辞め、家でブラブラしていたが、四十三年一月十日、こんどは裾野町長に当選、四十六年、裾野町が裾野市に昇格後も市長をつとめていたが、四十七年一月、市長の職を辞した。
 この間、町長になる前ごろからだんだん目が不自由になっていくが、仕事に対する情熱は強く、村長、町長、市長の職を通じて佐市郎が地元発展に尽した功績は大きく、裾野市富岡支所の庭には胸像が建てられている》
 遠藤はこのような佐市郎から政治家になってからもいろいろとアドバイスを受ける。
 「な、三郎さん、政治家というものは地元を大事にしなければならない。ヒマがあったら必らず帰ってきてみなさんと話し合いをしなさい」
 このような話をしばしば聞かされたらしい。
 これに応えてか、遠藤も足繁く地元に帰ってきては地元の人たちとヒザを交えていたという。
 また、三男の清五郎 (伊東家に養子に行き、伊東姓を名乗る。三島市議会議長をしたこともある)にもアレコレとアドバイスやら援助を受けていたようだ。
 佐市郎の長女のムコになった農林省出身の村田豊三はいう。
 「遠藤先生は、清五郎さんにも可愛がってもらっていたんですね。学生時代に限らず農林省に入ってからも政治家になってからも…。私は農林省時代、遠藤先生の下で働きましたが、遠藤先生は金離れがよく、後輩の面倒をよく見てくれました。これはあとでわかったことなんですがスポンサーがいたんですね。清五郎さんだったってわけですよ」
 遠藤は本当によい兄弟に恵まれていた。

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