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農林省時代

 「食糧管理法」の法案づくりに精出す

 遠藤は昭和五年、東大を卒業して農林省に入った。
 この年、内務省にも受かったのだが、「自分は農家出身。農林省へ入って一生、農民のために尽くそう」ということで、農林省を選んだ (関係者の話)
 農林省時代の遠藤はエリート官僚≠サのものの生き方をした。
 特に法律づくりでは活躍した。
 なかでも太平洋戦争ぼっ発直後の昭和十七年二月二日に施行された「食糧管理法」の法案づくりに努力したことはあまりにも有名だ。
 この食管法は、食糧難の時代、国民に公平に食糧を分配しようという目的で制定されたものだが、遠藤は当時、食糧管理局第一部企画課長として、この法案作成に寝食を忘れてがんばった。
 ところで、問題ほこの法案作成に際しての遠藤先生のお考えですね。
 それが見事だったのです。哲学があったのです。
 これは後世の人にもぜひ知っておいてほしいと思いますので、ご紹介させ七頂きます。
 食管法をつくることに閲し、当初、企画院の考えは
 「食糧統制をやるからには思い切ってやるべきである」
 ということだったんですね。
 つまり、同じ統制をやるのなら「すべての食糧品を対象にすべきである」という考えだったようなんです。
 これに対して農林省側は、統制を行う食糧品は「米、麦、甘薯、馬鈴薯、その他省令で
もって定めるもの」という考えでいたのです。遠藤先生も当然、この考えでした。
 企画院と考えが並行していては事が進まない。
 省議でもこの話が持ち上がったんです。
 この席で、遠藤先生がおっしゃった言葉がふるっているんです。
 次のようなことをおっしゃったんですね。
 「企画院のお考えも一理ある。しかし、戦争というものはそんなに長く続くものとは思えません。必らず平和な時代はやってくる。
 いま、われわれは強力な国家統制をやろうと考えている。だが、その一方で、平和な時代が訪れた時、いかに混乱なく平和体制にもどれるかを考えておかなければならない。
 そのためには統制範囲は、必要最少限に限定しておくべきである」
 遠藤先生は戦争の終った時のことも頭に入れて法案作成に当たっていたんですね。
 これには居並ぶ農林省幹部も舌を巻いたようです。 時の農林大臣は井野碩哉さん。
 大臣にも異論があるわけがなく、
 「よし、農林省の考えはこれでいこう」
 とおっしゃって農林省の見解が正式に決まりました。
 この見解は企画院にも了承され、最終的な法案作成にこぎつけたわけです。
 ところが、もう一つ難関があったのです。
 法制局との折衝です。
 法制局側は
 「現在、わが国には国家総動員法という大きな国家統制基本法があり、現に、それに基づいて食糧統制が行われている。何も事新しく食管法をつくって食糧統制をやる必要はないではないか」
 という考えなんですね。
 法制局の了承を得られなければ法案の提出はできない。
 法制局の考えも立法論に立てばその通りなんです。
 これについても省議が開かれ、論議が交わされたんです。
 この時も遠藤先生が一席ぶったんです。
 それは次のようなことなんです。
 「いま、太平洋戦争が始まり、各省でもいろいろな施策を打ち出している。
 農林省だけ省令で食糧管理をやっていて示しがつくだろうか。
 食糧事情は日に日に悪化の状況を迎えている。
 ここで大切なのは食糧危機打開のために農林省も立ち上がったんだ。また、重大な決意を固めたんだということを国民の前に示すことだ。つまり食糧危機宣言〃です。
 食管法をつくるというのはこういう意味も持ち合わせているのです」
 これにも井野大臣は 「その通りだ」
 とおっしゃり、省議は終りました。
 その後、法案は法制局の了承を得て国会に提出され、十七年二月二日に施行されました。
 新しくできた食管法は、当初の農林省案どおり、主食類を一元集荷、一元配給にするものでした。
 この配給を実施するため各県に一つずつ食糧営団もつくられることになりました。
 当時としては画期的な法律だったのです》
 遠藤は、この法律ができた時、「食糧管理法と食糧営団」(十七年、週刊産業社発行)と、「食糧政策論」(十八年、商工行政社発行)という本を書いている。
 「食糧管理法と食糧営団」の本は、戦時下のわが国の食糧事情を説明したうえ、食糧管理法制定の理由、食管法の構成、食糧営団の説明などを記したものである。
 この本の序で遠藤は、食管法の内容と将来展望を次のように述べている。
 「食糧管理法は主要食糧の集荷部面に於ける国家管理体制を強化すると共に、その配給部面に於ては食糧営団の設立運営による配給機構の整備をはかり、以て国民食糧の確保及び国民経済の安定を期せんとする要請から平戦両時を通じたる恒久的立法として制定されたものであり、わが国の食糧政策の現在及び将来の指針を示したものだということができる」
 また、「食糧政策論」の本は、@わが国の食糧政策の性格A戦時食糧政策の展開−などをメインテーマに、日本をはじめ諸外国の食糧政策の推移などを解説したものである。
 いずれも当時は、食管法の手引書として重用されたものだという。
 このようにして制定された食管法も終戦になってから何回か手直しされ、五十六年から五十七年にかけては大改正が行われた。
 食糧庁などによると、この時の改正は@配給制度の停止A自主流通制度の法定化B販売業者を登録制から許可制にする−などが骨子となっている。
 ところが、最近、この食管法についていろいろ意見をいう人が出てきていることもまた事実である。
 これについて村田は
 「時代の推移によって法が改正されていくのは当然のことでしょう。
 しかし、法の根幹になっている管理の原則ははっきりと残しておくべきだと思います。
 どこの国の歴史を見ても食糧が不足した時、どういう事態が起こっているか。
 そのことを考えると、安全弁だけは常に保っておく必要があると私は考えるのです」
 といっている。

 

吉田総理に政界入り奨められる

 遠藤はこのあと食糧管理局第二部監理課長、和歌山県経済部長を経て農林省に戻り、大臣官房会計課長、総務局長、畜産局長などを歴任する。
 その課程の総務局長時代に大きな転機があった。
 その時のことを遠藤の事務所に下宿したこともある農林省出身の森崎守夫は、
「これは遠藤先生から聞いた話なんですが」
 と前置きして次のような話を紹介する。
 《遠藤先生が農林省の絵務局長をなさっていた時のことなんです。
 吉田内閣の時代ですね。
 農林大臣の和田博雄さんがお辞めになって吉田総理が農林大臣を兼務なさった時期があったんです。そのころ、あの有名な二・一ゼネスト″(昭和二十二年)がありましてね。吉田総理が農林大臣室に入ろうにも入れない状態になったんです。
 この責任をめぐって幹部が辞表を出す事態になった。
 遠藤先生も当然辞表を提出なさった。
 これを見て吉田総理は
 「キミはまだ若い。辞める必要はない」
 とおっしゃった。
 しかし、遠藤先生は
 「せっかくのご慰留ではございますが、私も幹部の一人。どうしても辞めさせて頂きます」
 とお答えした。
 すると吉田総理は
 「そんなに固い決心をしているのなら準備をして政界に入ってはどうか。私の党から出なさい。応援するよ」
 とおっしゃったということです。
 いま考えてみると、どうもそれが政界に出る直接のキッカケではなかったかと思います》
 遠藤はこのあと畜産局長に転出する。
 総務局長から畜産局長へ。
 これはどうも本人の希望もあってのことではなかろうかと、遠藤を知る人たちは推測する。
 森崎もそのような見方をしている一人だ。
 「選挙に出るには畜産局長のほうが出やすいですからね。特に先生の地元の静岡県は北海道、兵庫と肩を並べる三大酪農道県でもありますしね。先生もオレは好んで畜産局長になったんだ≠ニおっしゃっていましたよ。
 畜産局長になってからは、日曜日になるとよく地元に帰っていました。
 選挙の準備をやっていたんでしょうね」
 遠藤は畜産局長を一年つとめて農林省を退職した。
 選挙に出るためである。
 それからの遠藤の動きは早かった。まず、静岡県の南部に酪農組合を設立。これを足場に、二十三年五月、静岡県酪農農業協同組合連合会会長に就任、二十三年七月には全国酪農協会会長になった。
 これで選挙準備は整ったことになる。

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