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政治家時代

 初出馬、最高点で当選

 そして昭和二十四年一月二十三日に実施された第二十四回衆議院議員絵選挙に静岡県第二区から民主自由党(現在の自民党)から出馬、見事初当選を果たしたのである。四十五歳だった。
 六九一二九票、新人としてはめずらしい最高点の当選だった。
 選挙母体となったのは、酪農団体をはじめとする農林水産業団体、母校の沼津中学同窓生たちだった。
 この選挙のさい、遠藤は過去の経歴をフルに利用、「水産、酪農の遠藤」をキャッチ・フレーズに闘い、選挙カーにはウシの絵をかいた幕を張り、選挙区内を走り回った。
 この話は地元ではあまりにも有名である。
 こうして遠藤の政治家としての人生が始まる。
 遠藤はその後八回出馬するが、すべて高い得票で当選を重ねていく。
 「サブちゃんはな。それはそれは面倒見のいい人でしたよ。
 カレはね。大向うをうならすような演説は得意としなかったが、話の内容に説得力があった。一度話を聞いたら離れられないようになってしまうんだな。そういう魅力をもっていたんだ。
 面倒見といえば、サブちゃんはよく地元へ帰っていた。そしていろいろとみんなの詩を聞き、お世話をしていたよ。
 農作業の帰りに農良着のまま訪ねてもよくきた、よくきた。トマトはうまく成長しているかね″とか、野菜のとれぐあいはどうかね″とか、だれとでも気さくに話し、みんなから愛され、親しまれていたよ。
 本当にわれわれの代表っていう感じの人だったよ」
 これはイトコの利男の遠藤評″である。
 また、
「地味だが、着実に仕事をした人」
「地元の発展のため走り回った人」
他の選挙民たちの評価もそれぞれに高い。
このような性格、仕事ぶりが買われ、遠藤に連続九回もの当選を果たさせたのだろう。
 政治家になってからの遠藤はおもに政務畑を歩く。
 衆院農林委員(二十四年)、同委理事(二十六年)、衆院予算委貞(二十七年)、衆院経済安定委員長(二十七年)と順調なコースを歩み続け、二十九年には大蔵政務次官になる。
 この間、遠藤は矢つぎ早やに立法作業を手がける。
 「酪農業振興臨時措置法」、「農業機械化促進法」、「植物防疫法」などの法案作成がそれだ。
 いずれも農林省時代の経験を生かしてのものだった。
 このうちの「酪農業振興臨時措置法案」は、遠藤らが中心になって作成、二十四年に議員立法として提案したものだ。遠藤が政治家になってからの初仕事でもあった。
遠藤は同年五月二十日の衆院農林委員会の質疑応答の中で、同法案を提案した理由の一つとして大要次のようなことを述べている。
 「日本の酪農業が置かれている事情を反省してみると、ご承知のように乳価が高くなってきている。この乳価を下げていかなければ日本の酪農業は成り立ちにくい状況にある。
 乳価を下げるにはコストの問題を考えなければならないが、ここに大きな問題が出てきた。それは為替レートが一本になったことによって現在の飼料価格が二倍、品物によっては三倍にもなるものが出てくる心配があるということだ。
 このようなことからみて乳価を下げていく一番大きな筋金はやはり農家の自家飼料を確保するというところに根本があるという考えに立って飼料圃をつくっていくということだ。これを基礎において酪農業振興臨時措置法案を考えた」(第五国会衆院農林委員会議録第二九号)
 この法案はこの時点では審議されたものの成立はしなかった。しかし、これがたたき台になって二十九年、こんどは政府の手で提案され、新しい「酪農振興法」として八月に施行された。
 遠藤らの努力が実ったわけだ。
 この「酪農振興法」も時代の流れにそって五十八年に大きな改正が行われた。
 このころの遠藤は酪農問題についてはことのほか熱心だった。農林委員をしていた関係でもある。
 二十五年七月三十一日の衆院農林委員会でも畜産小委員長の立場で大要次のような発言を行っている。
 「小学校の子供に対する牛乳その他乳製品の給食の問題は大賛成。その理由は日本の今後の食生活は単なる米麦というような澱粉質食糧だけでまかなっていくという行き方をやめて蛋白質食糧を十分に取り入れて、そして国内で自給自足していくのだ。そういう大きな理想を達成するために子供の時代から食生活をかえていくというところに大きなねらいがある。そういう意味で乳製品の給食に対しては全幅の賛意を現わし、強く要望している次第である」(第八国会衆院農林委員会議録第十号)
 これは将来へ向けての食生活の改善を訴えたもので、農林委員会の意見として他の報告事項とともに政府へ申し入れられることにもなった。
 「植物防疫法」も遠藤らが中心となって法案づくりが進められ、政府の手で提案され、 この提案は一部字句の修正が行われただけで採択された。
 もう一つ、遠藤がその成立に力を注いだ「農業機械化促進法」も二十八年十一月二十日施行されている。
 さらに地元の問題としては
 「伊東国際観光温泉文化都市建設法の一部を改正する法律案」の提案者にもなり、二十七年五月二十八日の建設委員会で、その趣旨説明を行うなどの活躍をしている。

 晴れて建設大臣に

 三十三年六月十二日、第二次岸内閣の発足で遠藤は待望の建設大臣に就任した。五十五歳だった。
 この建設大臣就任は地元の人たちを大喜びさせた。
 イトコの遠藤利男が代弁する。
《あれは草薙球場ができた時だったな。そのおひろめの帰りにサブちゃんが岸総理や自民党の川島副総裁らを連れてきて私たちと食事を共にしたことがありましてね。
 その時、私たちは岸総理にいったんだ。
 「こんど内閣改造があったら遠藤を大臣にして下さい」
 とね。
 これに対し岸総理は、
 「遠藤君はなくてはならない人だ。私の片腕のようなもんだからな」
 とおっしゃった。
 この言葉を聞いた時、私はこんど改造があれば、サブちゃんは必らず大臣になれると思ったんだ。
 それから数カ月経って内閣改造の情報が入った。
 私は東京にすっとんで行った。
 そしてサブちゃんのところで呼び出しを待っていたんだが、なかなかお声がかからない。
 私はサブちゃんに
 大丈夫かな″
 と聞いた。
するとサブちゃんは
「落ちつけ」
という。
 本人は確信があったんだろうが、こちらは心配でならない。
 そのうちにやっと呼び出しがあった。
「建設大臣だ」
というのだ。
うれしかったな。なにしろ念願の大臣になったんだからな。さっそく地元へ連絡したよ。ところがだ。建設大臣に就任して間もなくあの狩野川台風だ。サブちゃんは活躍したよ。地元が大被害を受けたんだからな。
サブちゃんの努力で、りっぱな狩野川放水路もでき、以後の洪水対策も万全になった。
 いま思えば、狩野川台風処理のため建設大臣をやったようなもんだが、地元のために活躍できてよかったと思うよ》
 遠藤が建設大臣に在職したのは三十三年六月十二日から三十四年六月十八日までのまる一年間だったが、在職中の大きな仕事といえば遠藤利男がいうように、狩野川台風の事後処理と、もう一つは首都高速道路公団の設立だろう。
 狩野川台風は、遠藤が建設大臣に就任した三カ月後の三十三年九月二十六日に襲来、翌二十七日にかけて流域の家屋や水田に大被害をもたらせ、一一八九人もの死者・行方不明者(警察庁)を出すという悲惨なものだった。
 この台風の襲来で、遠藤は二十七日、小型機に乗って被災地に飛んだ。
 それだけではおさまらず、翌二十八日にも再び、ヘリコプターに乗り、悲惨な状況を空から視察した。
 その時の模様を第一回目の視察に同行した当時の秘書の矢田保久は次のように話す。
 《あの時の大臣の活躍は、たいへんなものでしたよ。
 一回目の視察の時は、私も同じ小型機に乗って同行しましたがね。
 空から見ると、一面が水の海。どう手を施したらいいのかわからないような状況でした。
 大臣はこの状況を目を皿のようにして視察され、そのあとで、県庁や三島の対策本部に足を運ばれ、説明を受けました。
 しかし、それだけでは納得できなかったのでしょう。
 その日は沼津にお泊りになり、翌二十八日、再びヘリコプターに乗って視察に出かけられました。
 この時は、台風の襲来がウソのような快晴でしてね。風も吹いていない。
 だからヘリコプターも思うように舞い上がらない。
 それでも一機だけは何とか飛ぶことができるというわけで、大臣と中部地建の局長だけが乗って視察に向かわれました。
 大臣はそれぞれの被災地と直接連絡をとってみたい。しかし、電話線はズタズタに切れており、それはできない。それがはがゆくて二度も空から視察なさったのだと思います。
 あとで大臣はこんなことをおっしゃっていましたよ。
 「原始的なことをいうようだが、役所などには伝書バトを飼っておく必要があるな」
 とね。
 大臣は被災直後、現地と直接連絡とれなかったことがよほど残念だったのだと思います》
 遠藤とヘリコプターにいっしょに乗った当時の中部地方建設局長・梶谷薫は、建設省沼津工事務所が発行した「狩野川放水路工事誌」の中で、空からの視察の模様を次のように記している。
 「ヘリコプターで伊豆半島の上空を縦走し、豪雨による山地の崩壊等を見ようということになった。……。
 機中は操縦士、整備士のほかに遠藤建設大臣と私の二人である。
 ベルトを締めると、やがて出発地点で見送った人々を雫にして機は伊豆の山をよじ登るようにして上っていく。
 ふと見ると山肌に大きく巨人がひっかいた様な崩壊があり、無残にも赤ちゃけた姿を見せている……。
 これらが皆立木を伴って流れ出したとなると河川ではとても受けきれまい。それこそたまったものではない。
 遠藤大臣がゆびさして何か言っているが、ごう音でよく聞き取れない。いつの間にか二人ともベルトをはずしている。
 整備士が気をきかせて窓を開けてくれる。
 機は手をのばせば生い繁った木にとどくかと思われる程の高さを飛んでいる。開かれた窓から山の霊気を含んだようなひやりとした空気が吹き込んで来る。窓から二人とも身を乗り出してこわさもわすれて一心に周囲を見まわした。やがて修善寺の町の屋根が見えはじめた。校庭に降り立つと町の人々、近郊の人々が集まっている。校舎に入ってここで皆の話を聞くが、橋は落ち、谷は壊れ、電話も不通の個所が多く、はなれた場所のことはうわさ話か想像の域を出ぬものが多い。修善寺の温泉旅館付近は大した被害はないようだ。・・・・・・」
 遠藤はこの台風の事後処理にほん走する。
 矢田はいう。
 「九月末といえば翌年度の予算編成期でもありますしね。
 大臣は寝食を忘れて復旧対策や今後の治水対策について指示を与えておられました。
 狩野川放水路も大臣ががんばられてあのような立派なものになったのです。
 いまご覧になればわかりますが、放水路は水を流す穴が二つあいています。最初の計画では穴は一つの予定だったんですからね。 
  その後の洪水対策は万全なものとなっています。大臣の汗の結晶ともいえるでしょう。
 また、あの台風では田畑も水浸しになり、手がつけられないような状態になりました。
 この事後処理についても大臣は農林省に勤めたことがあり、後輩たちとの呼吸もあい、早く進めることができました。
 あの台風の事後処理に大臣の果たした役割は極めて大きいといえます」
 《建設省沼津工事事務所が出しているパンフレットによると、狩野川放水路は二十六年に工事に着手、用地問題や漁業補償が解決したあと三十二年から本格的な工事が始まった。
 ところが、三十三年に狩野川台風が襲来したため本川とともに全面的な見直しが行われ、これに基づいて工事が始められ、四十年七月に完成した。総工費は当時の金で六十六億円だった。
 完成した放水路は、静岡県田方郡伊豆長岡町墹之上の狩野川分流点から沼津市口野の駿河湾に流れ込む仕組みになっており、全長約三キロ、平均幅員約一〇〇メートル、三分の一はトンネルになっている》
 遠藤は首都高速道路の建設にも力を注いだ。
 首都高速道路公団によると、首都高速道路は急速な交通量の増大と、都市構造の変化に対処するため建設されることになったもので、実現までの歴史は次のような経過をたどる。
 まず二十六年ごろから東京都による予備調査が始められ、二十八年四月には、首都建設委員会(のちの首都圏整備委員会)が首都高速道路綱の新設を建設省と東京都に勧告。これに基づいて三十二年七月、建設省が「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を決定。ついで三十二年十二月、東京都市計画高速道路調査特別委員会が「首都高速道路綱計画」を策定するなどして着々準備が進められ、三十四年二月の第三一通常国会に「首都高速道路公団法」が提出され、同年四月八日、同法が可決され、四月十四日に公布、施行された。
 これによって同公団は同年六月十七日に設立され、首都高速道路の建設に着手することになる。(首都高速道路公団発行の同公団二十年史)
 この「首都高速道路公団法」が成立したのは遠藤が建設大臣の時だったが、成立までの過程では立場によってそれぞれに意見があったことも確かなようだ。
 計画が進められていたころの自民党首都圏整備特別委員会(中村梅吉委員長)は、当初から新公団設立にはきわめて積極的で三十一年一月に「東京高速道路公団(仮称)」の設立構想を発表。その中で、「東京における都市高速道路の建設と管理に当る事業主体について建設省や東京都とは別に、これを新たに設けてそれに専念させるべきである」と主張した。
 また、東京都議会も三十三年三月、全議員の提案により「高速道路建設促進に関する意見書」を議決し、国の関係省庁に促進を要請した。
しかし、その一方で、すでに日本道路公団も設立されており、新たに公団を設けることは屋上屋を重ねるものであるという意見もないではなかった。
 建設大臣に就任してから遠藤はその調整やら新公団の必要性を説くのに関係者の間を走り回った。
 「当時の日本道路公団総裁は岸道三さん。大臣は岸総裁とは学生時代からの知り合いだったので、よくお会いして新公団設立についての話し合いをなさっていました」
 と、矢田保久は話している。
 新公団設立の裏には、このような遠藤の努力もあったのだ。
 矢田はつけ加える。
 「公団法が成立した時には、中村梅吉先生がわざわざ大臣室まであいさつにお出になったのもおぼえています」
 新公団の初代理事長には神崎丈二が就任したが、この選任にも遠藤は一肌脱いだのだ、と矢田は説明している。
 《首都高速道路公団の資料によると、現在首都高速道路を利用する車は東京都と神奈川県下を合わせて一日にざっと百万台にのぼる。
 これからみてもいかに同道路の利用度が高いかがうかがえる。
 もし、この道路がなかったら…考えただけでもぞっとする思いがする》

 趣味は囲碁

 ここらでちょっと遠藤の素顔にスポットを当ててみよう。
 遠藤の代議士時代の趣味は囲碁とパチンコだった。
 囲碁の腕前については人によって評価がマナマチだが、好きであったことは間違いないようだ。
 まず、森崎守夫が証言する。
 「そうですねぇ。遠藤先生の趣味といえばやはり囲碁だったでしょうねぇ。
 遠藤先生は代議士になりたてのころ神田神保町に農政調査委員会≠ニいう事務所を設けておられました。私は農林省に入った直後、そこで起居したことがあります。
そのころ先生はよく囲碁をやっていました。私は先生にしばしば飲みに連れて行ってもらいましたが、先生は店でも囲碁をやるほどでしたから。
 腕前ですか。そうですねぇ。最終的には五段ぐらいにはなっていたんではないでしょうか。私が知っている限りでは四段の免状は持っていたようです。
 囲碁は根っから好きだったんでしょうねぇ。
 なにしろ農林省を辞めた時にもらった退職金で、カヤの木でつくられた高価な碁盤を買ったほどですからね」
 次に、遠藤の秘書をつとめたことのある自民党代議士・二階俊博の証言。
 「やはり一番の趣味といえば囲碁だったでしょうねぇ。
 囲碁といえばこんなことがありましたよ。
 私が先生の秘書になりたてのころのことですがね。
 ある日、国会の廊下を歩いていたら当時、自民党政調会長をやっていた福田赳夫先生にバッタリ会った。
 福田先生が、
 おい、遠藤君はどうしているかね
 とおたずねになるんですね。
 私が
 先生は碁をうっていらっしゃいます
 とお答えすると、
 福田先生は
 遠藤君の碁など碁のうちに入らんよ
 と笑いながらおっしゃる。
 私は部屋にもどって遠藤先生に、福田先生がおっしゃった通りを話すと、遠藤先生は、
 そうなんだよな。そういわれても仕方がないんだ。オレは福田さんを通じて初段の免状をもらったんだからね
 とおっしゃいました。
 囲碁の腕前の面では福田先生には頭が上がらなかったようですね」
 《福田赳夫の話「ほう、そんなことがあったかねぇ。なにしろ私は日本棋院から八段の免状をもらっているんだからねぇ。
 政界で八段の免状を持っているのは私がただ一人、一人なんだよ。ハ、ハ、ハ…」
 遠藤の棋力については聞き出すことができなかった》
 遠藤彰次の証言。
「先生は最終的にはかなり強くなっていたと思いますよ。日本棋院の坂田栄男先生にうってもらったことがあるらしく、それを自慢にしていましたね」
 代議士時代は、パチンコにもよく出かけていたようだ。
 最初にパチンコに連れていったというかつての秘書、佐々木雅が裏話を披露する。
 《遠藤先生が代議士時代のある日、
 「先生、おつかれになっているんでしょう。気晴らしにパチンコに行ってみませんか」
 とお誘いしてみたんですね。
 すると、先生は「そうだね。行ってみようか」
とおっしゃったので、新橋のパチンコ屋にお連れしたんです。
それがよほどお気に召したんでしょうね。
それからは一人でもお行きになるようになった。
先生はパチンコに行く時は、議員バッジを裏返しになさっていた。
ある時はこんなこともありましてねぇ。
「ちょっとタバコを買ってくるから」
といって一人でお出かけになった。
適当な時間が経って部屋におもどりになった。
私が、
「先生、きょうの成果はいかがでしたか」
とおたずねすると、
「どうしてだ」
とおっしゃる。
そこで私が、議員バッジを指さすと
 「あ、そうか」
 といってお笑いになった。
 パチンコへお行きになるのは、仕事の合い間をぬってわずかな時間でしたか、ストレスの解消に役立ったんでしょうねぇ。よくお出かけになったもんです。
 そしてこんなこともおっしゃっていました。
 「パチンコは永遠に廃れないだろうな。だってわずかなお金で夢が買えるんだから。
 庶民に愛される娯楽というものは長持ちするもんだよ」
 とね。
 いつの間にか自分なりのパチンコ哲学までお持ちになっていたようです》
 これは趣味とは異なるが、遠藤はタバコが大好きだった。
 遠藤を語るうえにこのタバコを抜きにすることはできない。
 タバコは当初、「光」党だったが、光が店頭から消えてからはもっばらピースを口にくわえていた。
 多い日には二十箱も口にすることがあったという。
 このタバコについてはいろいろの逸話がある。
 二階がいう。
 「遠藤先生は本当にタバコが好きでしてねぇ。
 どこへ行くにもまず、自分の両側のポケットにいっぱい詰められる。
 それだけでは足りないんですね。
 だから秘書である私もあらかじめポケットに一箱入れていたものです。
 それだけではないんです。
 別に袋にも入れて車に積んでおいたりもしました。
 そうでもしないと安心できないんです。
 タバコといえば、こんな詰もありましたよ。
 国会の委員会の席で、先生が私をお呼びになったんですね。タバコを買いに行かせるためだったんです。
 ところが、ある代議士さんが自分を呼んでいるのではないかとお思いになり、先生のところへ行ったんですね。
 これには遠藤先生もまいったらしく、あなたではありませんとすごく恐縮されていました。
 先生とタバコを語るうえには、これも忘れられない話です」
 これと同じような話は遠藤の秘書をやっていた人からは誰からも聞かされた。
 また、遠藤彰次は別の一面を披露した。
 「先生はね。タバコがなくなると、指のツメをかみ出すんです。それでがまんができなくなると今度はタタミをむしりはじめるんです。とにかくタバコがなければじっとしておられなかったんでしょう。
 しかし、その先生も晩年はお医者さんにいわれてタバコをだいぶ控えていましたね」
 晩年はコイを飼うのにも興味を持っていた。
 沼津の自宅の池には何匹ものコイが泳いでた。
「私が先生のお宅にお伺いすると、よく庭の木に巣くっている虫のサナギをとらされたもんです。コイのエサにするためですよね。
 先生はこのエサをコイにやるのが好きだったようで、その時は童心にか、えったような表情をなさっていました」
 これは遠藤彰次の話である。
 「イブシ銀のような政治家」と評され、真面目一本の男のようにみられがちだった遠藤にも茶目っ気な面はあった。
 これは二階俊博が明かすその茶目っ気ぶりである。
 《私が遠藤先生の選挙区である沼津市内のある焼鳥屋で秘書仲間と飲んでいた時のことなんです。
 焼鳥屋のおばさんとの間で、遠藤先生の話が出たんです。
 私が
 「遠藤先生の写真を持ってくるからここに飾ってくれるか」
 と話すと、われわれを秘書と知らないおばさんは、
 「本当にそんな偉い人の写真を持ってこれるんですか。お持ちになれば飾らせて頂きますけど…」
 というんですね。
 そこで、私はそばにいた同僚にこっそり耳うちして事務所から遠藤先生の写真を運んでもらい、おばさんに手渡した。
 すると、おばさんは
 「本当にお持ちになったんですね」
 といって約束通り、写真を店に飾ってくれた。
 このことを後日遠藤先生に話したところ、選挙の最中に、先生は演説会の帰りにこの店へこっそりとお行きになったんですね。
 そして私に電話をかけてきて
 「すぐ来い」
 とおっしゃる。
 私は選挙事務所で急ぎの用をしていたので、
 「忙しいので、お伺いすることはできませんが…」
 というと、
 「かまわんからすぐ来い」
 とたたみかけられる。
 やむなくお店に出かけると、先生はニコニコ笑っていらっしゃる。
 焼鳥屋に自分の写真が飾られていたことが余程気に入ったのでしょうね。焼鳥屋のおばさんもまさか写真の主の大臣が店にくるとは思ってもみなかったんでしょうよ。びっくりするやら驚くやらの顔つきでした。あの頃、沼津の名物の焼鳥屋街でしたので、あの時は焼鳥屋さん達の店主はみんな遠藤先生に入れたような気がします。庶民政治家の魅力ですよ》
 また、長女の道子(現杉原姓、主婦)は、こんな秘話も明かす。
 「父は若い時はモダーンでしてね。スキーやダンスもよくやっていたようです。
 また、編み物も得意だったようで、私たちこどもにもセーターなどを編んでくれたりしたこともあります。
 さらにつけ加えさせて頂きますと、ちょっとお金が入ると山や刀を買っていました。当時は山も安かったので、父のお金でも買うことができたんでしょうねえ。だから選挙に出る時は、この山を売って資金にしたのだと思います。
 私が小学校のころのことです。三島の家から沼津方面の山が見えるんですねぇ。ある日、父がそれに目をやりながらオレは政治家になるぞ≠ニいったことがあります。
 その時はすでに、山を売って選挙資金に当てようと考えていたのかも知れません」

 東名高速の実現に全力

 建設大臣を辞めてからの遠藤は、東名高速道路(第一東海自動車道路、以下通称の東名高速道路を使う)や自転車道路の実現に全力を注ぐ。
 遠藤は建設大臣を辞めて間もなく超党派の議員によって結成された同道路建設促進議員連盟の会長に就任、他の議員たちと協力、三十五年五月、議員立法による「東海道幹線自動車国道建設法」を成立させ、今日の東名高速道の実現に一肌脱いだのである。
 日本道路公団によると、わが国の高速自動車道の整備は三十一年三月、「日本道路公団法」と新「道路整備特別措置法」が制定されてから拍車がかかった。
 これによって設立された日本道路公団はまず、名神高速道路から建設を手がけ、順次、高速自動車道路の整備をはかっていくことになる。
 東京−名古屋を結ぶ高速道路については当初、中央自動車道と東名高速道路の二案があったが、財政上の問題などから優先順位、必要性などをめぐって一時、論議が交わされた。
 しかし、結局は国策上、両方とも必要ということになり三十五年五月、「国土開発縦貫自動車道建設法」第三条の規定に基づく中央自動車道の予定路線(東京−小牧)を定める法律案が政府の手で、「東海道幹線自動車国道建設法」(東名高速道路建設法)案が議員立法によってそれぞれ提出され、いずれも七月二十五日から施行の運びとなった。
 この法律の成立により、東名高速道は三十七年五月から三十八年十月にかけて計画路線全線の整備計画が策定され、施行命令が出された。
 これに基づいて工事が急がれ、第一次工事区間(東京−厚木間三五キロ、富士−静岡間四〇・三キロ、岡崎−小牧間五三・三キロ)が四十三年四月、第二次工事区間(静岡−岡崎間一三一・六キロ)が四十四年二月、第三次工事区間(厚木−大井松田間二二・九キロ、御殿場−富士間三七・八キロ)が四十四年三月、そして最終区間(大井松田−御殿場間二五・八キロ)が四十四年五月にそれぞれ完成、総延長三四六・七キロに及ぶ全線が開通した。これによって先に完工していた名神高速道路との相互乗り入れが可能となり、東京−西宮間五四〇キロのメガロポリスを結ぶ陸の大動脈が実現した。
 この実現に遠藤の果たした役割は大きい。
 その足跡をふり返ってみよう。
 「東海道幹線自動車国道建設法」案は、遠藤ほか五十八人の超党派議員によって提案されたが、三十五年五月十七日の衆院建設委員会で、遠藤はこれらの議員を代表して概要次のような提案理由の説明を行っている。
 「わが国の自動車交通は、経済のいちぢるしい発展で飛躍的に増大した。
 例えばわが国交通の中核的大動脈である国道一号線の東海道をみても交通量は年々倍増の傾向にあり、このまま推移すると今後五年を経ずして異常事態を招くおそれがある。
 これに対応するには現国道の拡幅などということも考えられないわけではないが、現実の交通需要は既定の道路整備計画をはるかに上回る状況にあり、この種のものでは本質的な解決は不可能といえる。
 そこで、この際、別途の創意構想をもって根本的な打開案を講ずる必要があると考える。
 即ち、それは(東海道に)自動車専用の高速自動車国道を早急に建設するということである」(第三四国会衆議院建設委員会議録第一九号)
 そして翌五月十八日の建設委員会で、 「この考えは東海道 (東名高速)と中央道の二者択一をはかろうというものではない」
 と追加説明し、同じ発言の中で、
 「東海道(東名高速)と中央道とは別個の法体系によって別個の目的で作っていくという建前をとっているのであり、中央道が建設されることにはわれわれも絶対賛成である」
(概要、同二十号)とも述べている。
 このように遠藤が東名高速道路をはじめとする高速自動車道の建設に前向きな姿勢を示していたのは、建設大臣をやったというだけの理由ではないようだ。
 二階がいう。
 「遠藤先生は大臣になる前に、当時、外務大臣をやっていた藤山愛一郎先生の特使として西ドイツを訪問したことがあるんです。
 その時、西ドイツの進んだアウトバーンを見て、わが国も高速道路対策を根本的に考えなければならないと思われたようです。
 そのころから高速道路建設の夢は広がっていたんではないでしょうか。
 それにしても東名高速の建設では先生はご苦労なさいましたよ」
 東名高速道といえば遠藤には次のような秘話もある。
 同道路建設に際して遠藤の生家が建設地に繰り込まれたのである。
 だから現在、東名高速道は遠藤の生家の上を走っているということになる。
 場所は裾野インターのすぐそばだ。
 これについて遠藤利男はいう。
 「そうねぇ。サブちゃんの生家の敷地はかなり大きなものだったよ。それが東名高速の建設地にひっかかったんだな。遇然といえば遇然だがね。
 だからサブちゃんと東名高速は切っても切れないエンがあるというわけだよ。
 生家を失っても東名道路を残したということだからな」
 このようにして実現した東名高速道は期待した、あるいはそれ以上の役割を十分に果たしている。
 単に車のスピードアップがはかられたというだけでなく、沿線はもとよりわが国の経済発展に大きく寄与しているのである。
 日本道路公団によると、その東名高速道路の利用状況は、車の走行が一日平均三十一万台。売り上げが同五億にものぼる。(六十一年度)
 このようなことから第二東名≠フ必要性さえ聞こえてくる現状である。
 これも時代の流れというものだろうか。

 自転車道路の実現にも

 遠藤は、自転車道路の建設にも精力的に動いた。
 二階によると、自転車道路は次のような経過をたどって実現した。
 自転車道路の建設については早くから各議員のもとへ陳情が続いていた。
 遠藤へこの話が持ち込まれたのは藤山からだった。
 「国民の健康増進と交通事故防止のため自転車道路を設けるべきである」
 という陳情を受けた藤山は
 「その問題は建設大臣をやったことのある遠藤さんにお願いしてみよう」
 と答え、遠藤にこのことを話した。
 これに対し遠藤は
 「趣旨はよくわかりました。こどもたちも喜ぶことだろうから一生懸命やってみましょう」
 といい、この間題の処理を引き受けた。
 四十二年ごろの話である。
 それからの遠藤の動きは早かった。
 さっそく志を同じくする議員たちと連絡をとりあって自転車道建設促進議員連盟≠つくり、その会長になって法案づくりを急ぎ、議員立法による「自転車道の整備等に関する法律」案を国会に提出、四十五年四月三日、施行へとこぎつけた。
 この法案提出に際しても遠藤は四十四年六月二十六日の衆院建設委員会で、みんなを代表して提案理由の説明を行っている。
 二階はいう。
 「あのころは自転車に乗っていて交通事故にあった人は全交通事故の十七%を占めていましたからね。遠藤先生は自転車道路ができればこの人たちを救うことができるのだ″と、それはそれは張り切っておられたもんです」
 この法律の施行によって自転車道路は急ピッチに進められていくことになる。
 建設省によると、六十二年四月末現在の全国の自転車道路の建設状況は、車道の側道で歩行者と自転車が共に通れるようになっている道路が四万九八〇〇キロ、自転車だけが走れるようになっている道路が二七九〇キロとなっており、利用者に便を与えるとともに事故追放にも役立っている。
 また、同法施行に際しての目玉となった千葉県銚子市と和歌山市加太を結ぶ太平洋岸自転車道(一二〇〇キロ)も約三分の一にあたる三八〇キロが完成、現在も残りの区間の工事が着々と進められている。
 このように遠藤らの手によってともされた自転車道路建設の灯はその後、二階らに引き継がれ、いまも燃え続けている。
 自民党の内海英男(国土庁長官)が会長をつとめる「自転車道路建設促進並びにサイクリング振興に関する議員連盟」がそれだ。
 二階はその事務局長をしている。
 その二階が話す。
 「せっかく遠藤先生らがともして下さった灯ですからね。それを消すことはできません。遠藤先生もおっしゃっていたように、自転車道路をつくることは、交通事故防止につながることはもちろん健康増進、さらにはこどもたちの夢にもつながることですからね。この仕事はいつまでも続けたいと思っています」
 遠藤は国立高等専門学校の実現にも努力した。
 この高専設立問題では遠藤は、国会議員有志によって結成された「高専問題懇談会」の会長になって活躍した。
 そして三十七年度にその夢が実り、全国で十九校(国立十二枚、公立二校、私立五校)が設立された。
 遠藤の地元の沼津工専もこの時開校したものである。
 この高専設立問題では、二階も遠藤の手足になって働いた。
 「先生はねぇ。これから地域産業を発展させるたあには青少年に、その地域と結びついた科学技術を教える学校が必要なんだ≠ニおっしゃってがんばっておられました。
 かっての蔵前工専のような学校を理想にえがいておられたのではないでしょうか。
 私は先生の秘書になったばかりの時期でしたが、先生のいいつけで、よく文部省にも足を運んだものです。荒木万寿夫先生が大臣で、今自民党の長老長谷川峻先生が政務次官で、文部省顧問の天城勲氏が官房長をしておられた頃でした。
 どうしても立派な高専を沼津市につくるんだ″という先生の前向きな姿勢には本当に心をうたれたものです。いつの間にか、私もその気になって動いていましたからね。
 先生の下での初仕事ですからいまでもそのころのことははっきりおぼえています」
 二階の話である。
 文部省によると、この高専も現在は全国で六十二校(国立五十四校、公立四校、私立四校)を数えるまでになっている。
 地元の発展のために汗を流したといえば、沼津市を中心とする東駿河湾地域が、「工業整備特別地域」 に指定された時もそうだ。
 三十七年五月、「新産業都市建設促進法」ができた時、沼津市はその指定の中に入らなかった。
 丁度、遠藤は病床にいて、沼津市の工業発展を願う遠藤にとって、これは寂しかったようで、病気回復の後でさっそく志を同じくする他の議員たちに呼びかけて、新たに「工業整備特別地域整備促進法」案をつくって国会に提出した。
 同法は三十九年七月三日に施行され、全国で六地域が適用を受けたが、当然、遠藤の地元の沼津市を中心とする「東駿河湾地域」もこの中に含まれた。
 ある時は農林官僚として、ある時は団会議員として、またある時は建設大臣として八面六腎の活躍をした遠藤も痛いには勝てなかった。
 四十六年十二月二十七日、ついにこの世を去ったのである。死因は脳いっ血。六十七歳だった。
 まだ十分に活躍できる年齢だっただけに、この訃報を聞いた時、地元の人はもちろん政、財、官界の人たちは深い悲しみにつつまれた。
 四十七年二月八日の衆院本会議では、同じ静岡県出身の代議士・勝間田清一(元社会党委員長)が、その死をいたんだ追悼演説を行っている。
 勝間田はこの演説で、遠藤の生きざま、活躍ぶりをありのまま述べているので、その要約を記してみる。
 「遠藤君は明治三十七年四月、私の隣町、静岡県駿東郡裾野町にお生まれになりました。富士を間近に仰ぎ見る小農村にはぐくまれた君は、幼少より俊秀の誉れ高く、長じて沼津中学に進み、さらに第一高等学校を経て東京帝国大学法学部に学ばれました。
 農村に生まれ、農民の生活をつぶさに体験している君は昭和五年、大学卒業とともに進んで農林省に入り、農業問題に取り組んで努力研鑽を積まれました。
 若き行政官として早くから嘱目されていた君は、やがて食糧管理法の起草をなし遂げるとともに、そのうんちくを傾けた「食糧政策論」などの著書を公にするなど、その仕事ぶりは目ざましいものがありました。
 戦後、病弊と飢餓のどん底にあったあの未曽有の食糧難の時代に、総務局長、畜産局長あるいは食糧危機突破対策本部の要職についた君は、この難局を打開すべく、文字どおり寝食を忘れて努力し、そのあまりGHQと意見の衝突を招いたこともしばしばあったとのことでありまして、その硬骨ぶりは長く省内の語り草となっていたのであります。
 しかしながら、わが国再建の遅々とした状況に憂いを深くした君は、官途にとどまることにあきたらず、みずから政界に進出する決意を固められました。そして昭和二十四年一月、第二十四回衆議院議員総選挙が行われるや、君は静岡県第二区から勇躍立候補し、みごと最高点をもって初当選の栄を獲得されたのであります。
 (この間に、農業機械化促進法案などの立案に努力したことや、大蔵政務次官や建設大臣として活躍したことなどを述べる)
 しかして、私の脳裏になまなましくよみがえるのは、君が(建設)大臣在任中のあの狩野川台風のことであります。狩野川台風は各地に猛威をふるい、特に伊豆半島の狩野川流域においては、家は流され、田畑はどろ水に洗われ、その上、多数の死者を出すという惨状に遭遇いたしました。君は、直ちに現場に急行し、みずから陣頭指揮して不眠不休の救援活動に従事しましたが、このとき君の発揮した積極果敢な行動力と沈着冷静な判断力には現地のだれもが称賛を惜しまなかったのであります。

(略)

 君の御活躍は多方面に及びましたが、東名高速道路あるいは東海道遊歩道の実現に尽力し、また、自転車道の整備等に関する法律案を立案して、これが成立に寄与し、いまや自転車専用道路建設の計画は各地において着々として進められております。
 君はこのような時代の要請を先取りする新しいアイデアを次々と打ち出して国民の期待にこた、えられたのでありまして、その新鮮な感覚と実行力は高く評価されなければなりません。
 (以下略)」(官報号外・第六八国会衆議院会議録第六号)

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