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病と聞いながら政治活動

第一回目の発作は三十七年四月

  遠藤が脳いっ血の最初の発作を起こしたのは三十七年四月だった。二階はその前後の模様を次のように話している。
《あの時(倒れた日)のことは、はっきりとおぼえています。国会に入る前ごろから
「気分が悪い」
とはおっしゃっていたようですが、その時はそのまま国会にお入りになりました。しかし、やはり無理と思われたのか、すぐ出てきて、車で家にお帰りになりました。それが第一回目の発作だったんですね。
先生はすぐ東大病院に入院なさいました。それから間もなく大きな問題が起こりましてね。
 建設省の高野務・道路局長が
 「先生に会いたい」
 といってきたんです。
 そのころ遠藤先生は、ちょうど東名高速道路の建設促進議員連盟の会長をしている時期でしてねぇ。
 その高野局長は
 「実は、東名高速の路線決定の問題で、近く河野建設大臣に報告することになっているんですが、その前に議員連盟の会長である遠藤先生のご了解を得ておきたいと思いまして」
 というんです。
 先生はその時、東大病院に入院中ですよね。
 どう答えていいか。一般的に政治家の病気は隠すことが多い。私ら秘書は迷いに迷いました。そんなことは、高野局長は知らないんですからね。
「なんだったらおうちに伺ってもいい。また、ご出張中なら東京駅でお待ちしてもいい」
 というんです。
 さあ、どうしよう。
 しかし、よくよく考えてみると、事は国政上の重要な問題。しかも先生が心血を注いでこられた東名の浜名湖を通る路線の問題である。
 いいかげんなことをいうわけにはいかない。
 私は先輩の秘書グループと相談のうえ、
 遠藤先生は
 「このことは高野道路局長におまかせする」
 とおっしゃったと伝えました。
 「実は…」
 といって、先生が病院に入院中であることを話すわけにはいかず、さりとて行政の停滞は許されず、その時は、ひや汗をかいたものですが、あとで考えると今でもあの措置は正しかったと思います》
 また、二階は、遠藤の療養の期間、ずっと身辺に付き添っていた。
《遠藤先生は二カ月ほど東大病院に入院し、このあと長野県下の鹿教湯温泉に療養に出かけられました。期間は三カ月ほどでした。
 私もその間、ずっと付き添っていました。
 生活を共にしたんですね。
あの病気にはお湯がいいということだったんで、一日に三回も四回もいっしょにお風呂へ入ったこともあります。
 言語もやや不自由になっていたので、それを元にもどすためには発声訓練が大事ということで、宮本武蔵の本を買ってきてお渡ししたこともあります。
 足腰を鍛えるため散歩も日課にしました。
 腕の感覚を取り戻させようと、釣り堀にもお連れしました。
 獲った魚は
 「これはきょうの収獲だよ」
 といって宿の人にあげたりしましてねぇ。
 食事の時にもいろいろなことがありました。
 食卓に玉子の目玉焼が並ぶこともあるんですよね。
 コレステロールの関係で黄味はよくないだろうと、私が先生の黄味を二つ取り、四つ並べ、先生に白味を差し上げてお互に笑いながら食べたこともあります。
 また、先生はトウモロコシが大好きなので、近くの農家にもらいに行き、食べてもらったこともあります。
 味気なく、苦しい毎日だったでしょうが、先生は本当に辛抱強くがんばられました。
 おかげで、おからだのほうはぐっとよくなられました》
 二階がいうように、遠藤は再度、政界で活躍することになる。
 三十八年の夏ごろには、次の選挙に備えて沼津市など二カ所で、選挙民の前に、元気に回復した姿を披露した。
 この席には江崎真澄ら同じ藤山派の議員もかけつけ、激励した。
 選挙はその年の十一月二十一日に行われたが、遠藤は堂々と七回目の当選を飾り、不死身ぶりを発揮した。
 しかし、それから八年後の四十六年九月二十二日、二回目の発作に見舞われることになる。倒れたのは自宅である。
 遠藤は、東京の虎の門病院に入院した。
 この時も遠藤は不死身ぶりを発揮、三たび赤じゅうたんを踏む。

 

ついに不帰の人に

 その遠藤が、四十六年十二月二十七日、またまた倒れたのである。二階がふり返る。
《その日は昼間、都内のホテルで水田派の旗揚げがあったんですね。先生はこの会に出席していました。その日の夕方のことですがね。確か五時ごろだったと思います。私に電話があったんです。
 「寒くなったので、家に帰って休む。あとは頼む。水田派の夜の会合はキミが行ってくれ」
 そういう内容のものでした。その日は、夜も会合が予定されていたのですが、先生はこれに出られなくなったということです。
 体調が思わしくないのかな。
 それともお疲れになったのかな。
 その時は、それぐらいにしか考えていませんでした。
 それから夜になってお亡くなりになった、という連
絡が入ったんです。
 びっくりしましたねぇ。
 あの電話が私と遠藤先生との十一年間のおつき合い
の最後になってしまったんですから…。》
 つまり、遠藤は、その日の夜、他界したのである。
 遠藤は自民党では、岸信介と行動を共にしていたが、のち岸の奨めもあって藤山派に移る。
 その藤山派が解消することになって、こんどは旧大野派の船田、村上派などといっしょに「巽会」水田派をつくろうということになり、十二月二十七日、都内のホテルで、その旗揚げが行われた。遠藤はその会合に出席していたというわけである。
 この水田派″の旗揚げの会には、田村元(前衆議院議長)も出席していた。
 田村は、遠藤が倒れた時の模様を次のように話す。
 《あの会には、水田三喜男さんのほか遠藤さん、江崎真澄さんらたくさんの人が集まっていました。
 私も出席、遠藤さんの側に座っていました。
 途中まで会議が進んだ時のことです。
 遠藤さんが、グラグラっとされたんですね。
 遠藤さんは、前にも倒れられたことがあり、片手が不自由だった。一緒にいる時、たまにグラグラっとされる時もあったので、私はそんなに大事だとは思わず、遠藤さんを抱き、確かソファーだったと思うが、横にしてさしあげた。
 会議は続行されたが、遠藤さんは途中でお帰りになった。
 驚いたことにその夜お亡くなりになったんですね。
 私が遠藤さんとお会いしたのはあの時が最後でしたが、国会議員で、遠藤さんを最後に抱いたのは私ということにもなります。
 もし、遠藤さんがその後元気を回復され、政治家活動をお続けになっていらっしゃったら、もうあの時のことは忘れていたかもわかりません。しかし、お亡くなりになったということで強烈に印象が残っているということです。
 結局、遠藤さんは水田派″に参加して活躍なさることはできなかったわけですが、非常に残念であったと思います。
 いま遠藤さんのことを振り返ってみますと、遠藤さんはインテリで、慎重で、地味なお方だったが、一本強いシンをお持ちであった。
 ある一つのことをお決めになる時もあらゆる角度から検討され、最善のものをお求めになる。そして、いったんお決めになるとテコでも動かない。そういうお方だったということです。
 遠藤さんからは、本当にさまざまなことを教わりました。
 ある会議があるとしますね。
 遠藤さんは、その会議で出る議論をだまって聞いていらっしゃる。そしてようやく議論が煮詰まってきた時にやおら口をお開きになる。
 「みなさん、ここはどうなっていますか」
 といったぐあいにね。
 その質問が本当に的を射ていらっしゃる。
 われわれはその洞察力というか見識にはホトホト感心させられたものです。
 また、遠藤さんは、われわれが間違った方向へ走り出そうとした時は、さりげなく注意をして下さった。決して大声でどなったりはなさらなかった。
しかし、そのさりげなく注意をして下さることがズシンと胸に響く。遠藤さんはそういうご立派なお方だったのです。
 もっと長生きしてわが国の発展につくしてもらうとともに後輩の指導にあたってほしかった。
 私はいまでもそう思い続けています》
 藤山派で、行動を共にした江崎真澄は遠藤とのつき合いを次のように話す。
 《私が遠藤さんと直接行動を共にするようになったのは藤山さんのもとでいっしょに仕事をするようになってからです。
 忘れもしない三十三年初春のころのことです。岸総理に呼ばれて「今後、藤山さんに協力してほしい。自分のところからは遠藤君を出す」といわれた。
 私が衆院予算委員長をやっていたころのことだな。
 その席には藤山さんもいましてね。
 総理が帰られたあと、私は藤山さんに「あなたと一緒にやれ、ということですが、途中で放り出されるようなことがあっては困る。本当に政治をおやりになりますか」
 と覚悟のほどを聞くと、藤山さんは父親の話などをされ、強い信念を示された。
 私はその後、遠藤さんや尊敬する小沢佐重喜さん(元建設相)にも相談、藤山さんと行動を共にするようになるのだが、派(藤山派)の運営はほとんどこの三人が中心になってやったもんです。
 遠藤さんとは、それ以来、いろいろのことを相談する仲になりました。
 私が防衛庁長官をやった時も夜遅くなる日が続くと、よく激励もしてくれましてね。
 本当にできた人でしたよ。
 私らはやがて巽会(註、水田派)をつくることになるのだが、その旗揚げの行われた夜、亡くなられた。
 まだ、お若かったのに残念なことでした。
(註)銅像に江アが一文を寄せているのもこういう関係からである。》
 遠藤の急逝は身内にとっても大きなショックだった。
 長女の道子も
 「あの日の夕方、父からまだ、お母さんが帰ってこない≠ニいう電話がありました。
 母は翌日外出することになっていて美容院に行っていたのです。
 父はそれまでにも倒れたこともあったので、心配はしていたのですが、その電話は何か寂しそうに聞こえました。
 私はすぐ支度をして実家へかけつけましたが、父はすでに倒れていました。母も私が着いた時には帰っていました。
 それから間もなくして亡くなったんです。
 びっくりしましたねぇ。
 でも大往生といえるのではなかったでしょうか。
 そういえば、その前日か前々日、私に電話がかかってきて平林寺に行かないか≠ニいうんですね。私は忙がしくて行くことができなかったのですが、あとになってみれば、一緒に行っておけばよかったのに、と思うこともあります。父は寂しかったのかも知れません」
 と話している。
 また、衣江も
 「なにしろ突然のことでしたのでねぇ。驚きましたよ。聞いておかなければならないことが山ほどあったんですから…。
 主人とは年が明けたら中国によく効くハリをする人がいるので、そこに治療に行こうと話し合っていた直後のことですからね。
 それを実現することができなくて残念でした。お前も連れて行ってやる″といってくれていましたのにねぇ」
 と、その時のことを昨日のように思い出す。
 そして最後まで遠藤の秘書を続けた二階も「私は学校出たての昭和三十六年の春からずっと遠藤先生の秘書を続けましたが、先生が完全にお元気な体でお仕事をさなったのはわずか一年間でした。三十七年の春には第一回目の発作があったんですからね。
 しかし、そのような状況になってからも先生はくじけることなく仕事に精出されていました。
 そんな姿をみていると、本当に頭が下がる思いがしました。
 病気を直してあげることができれば、なんでもしてあげたい。そんな思いでお仕えしていたものです。
 中国によく効くハリの先生がいると聞いた時は、どうしても行ってほしいと思った。
 私もそれが実現できなかったことが残念でなりません」
 と、遠藤を知る人たちの声を代弁する。
 遠藤はこのように人に愛され、惜しまれて世を去った。
 しかし、その残した数々の足跡は決して消え去ることはないだろう。
 その一つ一つの仕事は後輩たちによって間違いなく引き継がれ、発展していっているのだから…。
 最後にもう一度、衣江に登場してもらう。
 「主人はたいへんな親孝行でした。農林省時代、役所からもらうボーナスはそっくり母親に送っていました。だから私はいくらもらっているのかわからなかったほどです。
 政治家になってからは確かに苦労もございました。
 ある時など、選挙演説に出かけるので、お前もこい″というので、あわててお化粧をしたのですが、急いでいたので、頭につけるポマードを顔にぬったりしたこともありましてね。思い出はつきません。
 政治家の妻として生きてきた中で、本当に幸せだなと感じたことがあります。
 その最大のものは皇后さまのお誕生日に、車に乗せてもらい、皇居に連れていってもらったことです。
 あの時のうれしさは今でも忘れることはできません」
 妻ならではの話である。
 「遠藤三郎先生」のご冥福をお祈りする。
(註) 文中の登場者の肩書は取材時点によります。(元産経新聞編集委員 中島貞夫)

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