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思いで「情理兼ね備わった政治家」

竹山 祐太郎

 遠藤さんと私は、戦前の農林省経済更生部総務課で机を並べていたころからの古いおつきあいである。事務官一人、技師二人の課であったが、その一人の事務官が遠藤さんで、私と川井君という技師と三人で、農村の自力更生運動の企画立案をした。私にとっても、遠藤さんにとっても、一番働きがいのあった時代で、同じ静岡県の出身という因縁もあって、本当に心許した親友であった。
 戦後、はからずも遠藤さんが二区から代議士となって出てこられた。私は戦後第一回の総選挙で出たので、遠藤さんは三年ほど後であったが、当時私は野党、遠藤さんは与党の自由党に属し、非常に活発なご活躍をされ、建設大臣にもなられた。私は鳩山内閣で建設大臣をやっていたので、私のすぐあとでなかったけれども、非常に私にとっては何かにつけ好都合で、ありがたかったことを忘れることはできない。
 その後保守合同になり、同じ自由民主党の立場で国政にのぞんできたわけであるが、遠藤さんの選挙区の二区はなかなかの激戦区で、石橋湛山先生もいるし、社会党の強力な候補もいるというぐあいで大変だったと思う。しかしなんといっても、二区は遠藤さんが大きくまとめてこられ、ことに自民党は遠藤さんのお力でまとめられてきたことは事実だと考えている。
 当時県連会長は、代議士の場合一期づつ持ちまわり式にする習慣がいつのまにかできていて、一、二、三区を交互に、年かさや、当選回数の多い順からやっていた。私は野党に属していたこともあり、あまり県連会長のポストには好ましいとは思わなかったので、しまいまでやる気はなかったが、そうもならなくなって、三区の順番のときに初めて県連会長をお引き受けしたが、私のちょうど前の県連会長が遠藤さんであった。
 昭和四十一年に、たまたま知事選挙の問題が起き、遠藤さんが口火を切ったような形になって私を知事候補に引っぱり出したということも、因縁といえば因縁で、私はほかならぬ遠藤さんが言い出したこともあるものだから、やる気は毛頭なかったが、頭からいやだとダダをこねることもできず、内心非常に因っていた次第であった。
 そこで私は遠藤さんに「君、困るじゃないか」ということで、私の心境を披歴して訴えたけれども、遠藤さんはガンとして受けつけない。とうとう押しきられてしまったようなわけだが、私を知事にした急先鋒の一人が遠藤さんであったことは事実である。
 かくて私の政治進路には大変革が起こったわけであるが、いまさら亡き遠藤さんに愚痴をいうことではなく、私にとっては、ほかならぬ遠藤さんという存在は、政治上の大きなきずなとなっていたわけである。
 しいてその後の思い出をいえば、遠藤さんが非常に苦労したマーガレット・ライン−道路公団建設になる南伊豆のバイパスについてで、これは私ももちろん協力はしたが、あのポツンと離れたところへ道路公団にやらせるという大仕事をあそこまで実現させたのは、なんといっても遠藤さんの力である。
 私が知事再選を果たして、しばらくしてこの道路が完成し、開通式というときには、肝心の遠藤さんは急逝されておられない。まことに残念千万であった。そこで私は思いつきではあるが、遠藤さんの奥さんにわざわざきていただいて、テープカットのときに奥さんにも一本引いてもらって、一緒にテープカットをした花束をお贈りするとともに、奥さんにもご一緒していただいて初乗りをし、亡き遠藤さんに報告した。
 同時に私はあいさつの中で「伊豆の人々、地元関係者の皆さんは、今日あるはひとえに遠藤先生のお力であることを決して忘れてはいけない。私どもがやった仕事ではなく、もっぱら遠藤先生のお力でできたということを、孫子の代まで言い伝えてもらわなければ、先生に申しわけない。そういう意味で今日は奥さんにもきていただいた次第である」ということを、ひとくさり述べたわけである。
 マーガレット・ラインに限らず、二区にはそういう多くの思い出がたくさんあることと思うが、私はあまり個々の政治的な問題に深入りしないことが、政治家仲間の仁義だと考え、ことさらご無沙汰をしてきたが、友人としての私にとっては、非常に心に残ることがたくさんある。しかしこれは、政治家仲間の仁義という、冷酷なことからくることで、友人としての遠藤さんは地下でよくわかってくれていることと思う。
 政界にあっての遠藤さんは、もともと岸派の領袖をされ、途中から藤山さんを支持する方にまわったが、これは岸さんから頼まれたにちがいないと私はにらんでいた。藤山派の最高幹部として、藤山さんを盛り立てるむずかしい役割りを引き受けられたことは、はたから見ていても非常に私には感銘深く受けとれたが、むずかしい藤山派を長い間一生懸命、最後まで守り通したということも、あの人情味溢れる遠藤さんという政治家のやりそうなことで、政治家はすべからく、かくあるべきだということを世間に示したと私は思っている。
 次に思い出すのは、東名高速道路で、これは先行していた中央道案とのかねあいから、非常に苦労した問題であった。すでに中央道の方は議員提案で成立しており、長野県の国会議員などは、東名についてものすごい反対をする。われわれは、中央道をやめろということではなく、やると決まっているんだから東名もやらせろというのだが、向うは感情的になっていろいろ妨害をする。
 そこで中央道、東名というふうにダブっている分はあとまわしにし、名神は競争線がないから、まず先に道路公団をつくって、この名神高速道路に手をつけることにした。そして名神はできたが、それを結ぶ肝心の東名が遅れては困る。そこで思いきって建設省には内々の話をするとともに、東名沿線の、東京、神奈川、静岡、愛知選出の国会議員によって、議員提案で東名をつくらざるをえないことにした。
 その議員提案をやる一番の代表世話人に、みんな期せずして意見が一致して、遠藤さんが選ばれ、遠藤さんを会長とする議員提案で、東名高速道路法案というものが陽の目を見た。しかしそこまで持っていくのがまた大変で、会議を何回開いても、静岡と愛知は出るが、神奈川は出てこない。何度催促しても出てこない。そこで私は何かのおりに、懇意だった河野謙三氏に「あなたに似合わない横着をするじゃないか」といったら「君だから正直に白状するが、東名は私のところではさっぱり人気が出ない。むしろ逆に農民から、そんな道路の実現に熱心に動くと、次の選挙で落とすぞといわれる。というのは、あんな道路をつくると、静岡や愛知の農民はトクをするが、神奈川の農民はちっともありがたみはない。だから出席する人がいないんだ」と。
 私はさもありなんと思ったが、いまさらそれに理屈を並べても始まらない。こういうむずかしい中を、うまく全体をまとめて、とうとう東名高速道路法案を議員提案でモノにし、実現にもっていった推進力が遠藤さんであった。
 情理兼ね備わった、本当の意味の実力者であった遠藤さんは、ふだんから選挙民の面倒をよくみるとともに、いつも、地元の人々が困っていることは何か、何を欲しているかを知ろうと努めてこられた。だからいざ選挙というときには、金を使うというやり方とは無縁だったようで、この点では三区で選挙をやっていた私と似ていたと思う。
 農林省の役人を一緒にやっていた時代からの、五十年になんなんとする交友関係であったが、四十六年、私が知事再選を果たしたその年の暮れの十二月に急逝された。何かにつけてよき相談相手であっただけに、私は当時、深いショックとともに、心の支えを失なったような寂蓼感に襲われたものである。いまでもありし日の遠藤さんの温顔が私の瞼のうらに焼きついて離れない。

(元静岡県知事)
(自由民主党静岡県連二十五年史より)

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