ホーム プロフィール 著書など ニュース ライブラリ 明日のふるさとを考える青年の会

 

 

先生と私との間

山本 敬三郎

 私は遠藤先生の最も身近なところにいて、長い間温かく、時に酷しく育てて頂いた弟子の一人でした。
 先生は一言で言えば、役人出身にしては、他に例を見ない『変化球投手』型の政治家でありました。難かしい問題に打ち当ると、予め凡ゆる場合を考えぬいて、相手方の出方や、その場その場の雰囲気等を想定して、いくつものシナリオを用意した上で、緩急宜しく柔軟に対処しながら、いつの間にか事を成し遂げてゆくというタイプで、その知恵のひらめき、読みの深さ、さばきの巧さには絶品とも言えるほどのものがありました。
 竹山知事かつぎ出しの時は、県連会長として、各方面に周到な根廻しを済ませた上で、選考委員会では全員に言いたい放題に意見をつくさせ、混乱すると見るとわざと放り出して、暫く間をおいて沈静化させたり、タイミングを図って強く押してみたり、無理と分る無関係の会社勤めで、更に驚いたことは当時十五校もあった農業高校の志願者が少ないために、先生方が選挙運動も顔負けの熱心さで、入校生勧誘に狂奔しても到底定員に満たないという事実でした。また中卒者の東京圏等への集団就職の模様は、毎年のように県内紙上に写真入りでとり上げられておりました。他方、眼を全国紙に転じると、そこには恰も高度成長を誇るかのように、他県の臨海工業地帯造成の記事が、デカデカとまるで圧倒するかのように写し出されていました。
 その頃、沼津の田中精一氏提案の中央道案なるものが、広く一般に流布されていて、国会でも中央道派の勢力があなどり難い強いものとなっておりました。東海道沿線の先生方は新幹線はこちらに来るのだから、農民に反対の多い高速道路なんて向うに譲ってもよい位の考えの方もありました。
 私はたまたま『電力の鬼』松永安左エ門先生が主唱した東名案の論文を読んで、『これは本来産業道路であるから東名優先でなければならない』と言う重大な指摘を見て驚き、資料を求めて勉強してみると、農家の就職難を救い、県経済の活性化=工業立県を図るためには、欠くことの出来ない前提条件は東名の誘致だと確信するに到りました。
 折よく、先生が道路公団総裁岸道三氏(一高時代の友人)を連れて南伊豆の視察に来てくれました。旧ぼけた見るからに汚い妻良の公民館で中食となりました。総裁、先生、私の三人が舞台に敷いたゴザの上で弁当を喰べながらのことでした。私はいろいろなデーターを挙げて、東名誘致の必要を力説して、先生の奮起をうながしました。先生は農民の反対、国会において先行している中央道派の圧倒的な力等を話して、今からではとても無理だよとすげない態度でした。
 その時、黙って聞いていた総裁が突然口を開いて『遠藤君! 日本経済の発展のためには先に東名が必要だよ。第一、中央道ではとても採算に乗らないから、公団としては仲々ふみ切れないよ。君! 何とか一働きしてくれないか。公団として是非たのむよ。』と重大な発言をしてくれました。先生は事情はすぐのみこめた様でしたが、仲々慎重で一向に構えを崩してはくれませんでした。
 元気づけられた私は、直接松永翁に御教示を迎ぎ、翁から『私も池田総理や河野一郎君にも積極的に働きかけてみるよ』と激励され、貰ってきた幾多の資料を読みながら、さてどうして先生を引っ張り出そうかと思案にくれておりました。
 その頃、先生から一寸来てくれと呼ばれて行ってみると、開口一番『おい東名をやってみるか? 相手の動きが先行しているだけに、しかけも難しく戦争は大変なことになるが、やるしかないかなあ!』とのことで私はびっくりしてしまいました。(あとで秘書に聞いてみると、農村地域の座談会で、先生が東名のもつ役割を就職問題等を含めて細かに話してみると、聴衆の反応が今までとはまるっきり変ってきていたとのことでした。
 新しい施策を採ろうとする時は、必ず前以って自分を選んでくれた遠藤会の皆さんの理解を求めた上でなければ結論は出さないという、先生らしい凡帳面で真筆な姿勢に頭の下る想いでした。)
 先生は、これから急いで運動に取りかかるには、県の体制づくり、国会議員への説明や根廻し、隣県へ呼びかけ、マスコミ対策等について、こと細かな腹案を話され、君は黒子に徹しろよ等の注意も受け、話し合っているうちに、二人の仕事の分担も自ら定ってきたのでした。元気づいた私は先生の指示に従って、与野党を含めた先輩議員の間をとび廻って、賛成と協力を求めての努力によって、短期間のうちに、知事を会長とする県の東名期成同盟会の結成にこぎつけました。
 先生は有力議員と綿密な相談を重ねた上、夫々分担して隣県議員に勢力的に呼びかけ、終に関係一都三県の与野党議員(国会・県会回となった)全員が参加する東名の期成議員連盟なるものが出来上り、先生がこの会長に就任する運びとなりました。
 既に、数年前からの運動で立法化寸前の段階まで東ている中央道派(これの巨頭は戦前既に大臣の経験があった大物青木一男先生)に対して、出来たてほやほやの東名派が待ったをかけて、どうしても東名、中央道の両法の同時立法をと主張したのですから、元々が無理な話で、相手側が立法は今年は中央道、東名は来年にしろと主張するのは一見至極尤もな話に聞えます。ところが相手側の真の狙いは中央道さえ通して了えば、来年の東名には反対に廻って飽くまで中央道の着工完成を先にしようという魂胆が見え見えなので、東名派としては一歩も引けず、同時立法でなければどこまでも承服できないと頑張るのですから、『痛きや出ろ』式の横紙破りの果し状をつきつけたようなものでした。
 果せるかな、学者や専門家まで動員しての新聞の社説・論説・投書合戦まで始まる激しい攻防、波乱含みの陳情合戦等いくたの紆余曲折はあったものの、最後は『遠藤投手』の変化球はさすがの『青木四番打者』も打ち崩せず、同時立法で結着となりました。その間の先生のとった戦略、戦術の巧さにはただただ舌を巻くばかりでした。
 『東名』は多くの先生方が協力して、勝ちとった賜ではありましたが、先生が先頭に立って、機略に富んだ変幻自在の釆配を振うことがなかったとしたら、恐らくその完成は高度成長期後のこととなったことでしょう。東名があのような絶妙なタイミングで完成して、本県経済に量りしれないほど大きな波及効果を挙げたことを考えると、
『先生なくして『東名』はなかった』と言っても必ずしも過言ではないと思います。
 先生逝って十有余年。いま、先生快心の作品とも云える『東名』の裾野インター近くの小公園に、銅像が移設されたのも奇しき因縁″かと想われ、さぞ先生が東名の車の流れを見ながら、爪をかんでニヤニヤしている姿が眼に浮かび、往時が懐しく偲ばれてならないこのごろです。

    (前静岡県知事)

検索語   検索ガイド