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我が人生の師・遠藤三郎先生

二階 俊博

 遠藤先生は、戦時中の昭和十七年頃、当時の農林省から和歌山県の経済部長として出向されました。その頃、和歌山県議会では、山口喜久一郎議長(後の衆議院議長)、小野真次副議長(後の和歌山県知事)などがご活躍され、また県の警務課長には、後に法相となられた秦野章先生もおられたと聞いております。
 私の父もその当時、県議として遠藤経済部長に親しくお付き合いさせて頂き、遠藤先生が東京に帰られてからも、あるいは代議士になられてからも、親しくご指導を頂いておりました。そんなご縁で昭和三十六年の春、私は社会人としての第一歩を遠藤三郎先生の代議士秘書としてスタートさせて頂きました。
 当時遠藤先生は五十六歳、まさに男の働き盛り。「藤山政権」を目指して情熱を燃やしておられた時期でした。
 寒い冬はマフラーを首にひっかけて会合から会合に走り回り、その間、スポーツ好きの先生は、暇を見つけては後楽園球場にでかけ、日本シリーズなら巨人、ノンプロなら地元の大昭和製紙を夢中になって応援されていました。チャンスになるとスタンドでアンパンをほうばりながら、時には立ち上って声援を送っておられた姿が昨日のことのように思い出されます。またボクシング、相撲にもよくでかけました。
 そのような折りに、いつもお伴をさせて頂いたのですが、常に頭はシャープで、身のこなしは機敏、先生について廻るだけでも大変でした。
 「暇があれば、国会の委員会や党の会合へでて、勉強しなさい」といって、選挙区の方々の陳情処理の合間を縫って、勉強の機会を与えてくれました。また、夜の会合から自宅に帰る途中で、後楽園近くに下宿をしていた私を時には、送ってくださいましたが、私が降りるころになると「お父さんから預かった君に、酒を飲むことばかり教えているわけではないよ。帰ったら勉強しなさい」と、そんな言葉をかけて頂いたことが、いまも脳裡から離れません。
 選挙区の静岡県沼津市にも時々ご一緒させて頂きましたが、「世界中を廻ってきて、やはり富士山の見える静岡県が世界一だなあ」とよく述懐されており、郷里に帰ることが何よりも好きな郷土愛の強い政治家でもありました。
 選挙も強い。仕事もできる。自信に満ちた先生に秘書としてお仕えするようになってちょうど一年を迎えた頃でした。千鳥ヶ淵の桜が満開に咲き誇っていた陽春の日、先生は軽い脳溢血で倒れ、東大病院に入院されたのです。心の中で大木が音をたてて倒れ行くような大きなショックを受けたのは、私一人ではありませんでした。
 入院後、しばらくして意識を回復された先生から私への第一声は「二階君が嫌がるなら仕方がないが、佐賀県の杉原荒太先生(元防衛庁長官)の選挙のことが気になるので、当分応援に行ってくれないか」ということでした。
 遠藤先生のご長女・道子さんが、杉原先生のご長男・杉原哲太さん(弁護士)のところへ嫁いでおられた関係から、遠藤先生が心配するお気持がよく分かりました。そこで私は
「お役に立てるかどうかわかりませんが、選挙のときは朝早く起きて事務所を開ける人でも必要でしょうから、何かやれるでしょう」と言って事務所の先輩達に見送られ夜行列車に乗り佐賀県に赴いたのです。
 人生は人と人の出会いだとよく言われます。私はここで、もうひとり遠藤先生とは全く違ったタイプの政治家・杉原荒太先生とニヶ月にわたり寝食をともにさせていただき、多くのことを学びました。
 また、このとき知り合った杉原先生のご親戚に当たる若かりし日の元経済企画庁長官愛野興一郎代議士(祐徳バス副社長=当時)と知り合い、それ以来、ご交誼をいただく間柄となりました。
 ニヶ月余の参院選挙のお手伝いを終えて東京に帰ってみると、遠藤先生もようやく回復に向かわれて、長野県鹿教場温泉にリハビリにでかけるとのことで、私もお伴することになりました。途中、カッコーが鳴く軽井沢のホテルで一泊し、先生と奥様と私と運転手の笹原君(現在栗原祐幸代議士秘書)の四人で、まだ舗装のされていない長野県丸子町の県道を走り、目指す鹿教湯温泉に辿りついたのは、初夏の頃でした。
 間もなく奥様が東京に帰られてから、先生と私と笹原君の三人での共同生活がはじまりました。先生は声を出す稽古に小説「宮本武蔵」を朗読するほか、朝の散歩、一日数回の温泉入浴。手の感覚を取り戻すために奥様とご一緒に近くの釣り堀を訪れ、虹鱒を沢山釣り上げたこともありました。
 階段の昇り降りの練習、診療所通いなど、今になってみれば何もかも懐かしい思い出ばかりです。
 人里離れた山奥でひたすら政界復帰を目指して約五ヶ月間の訓練は、求道者の姿にも似ていました。そのとき私は、先生は単に頭脳明晰だけでなく、「努力の人だ」とつくづく感心させられたものです。
 いくぶん手足の不自由さは残りましたが、順調に回復され、その年の秋も終わりの頃、沼津市と吉原市(現富士市)で遠藤会の大集会を開くことができました。藤山愛一郎先生をはじめ当時、藤山派の重責をになっておられた江崎真澄先生、小沢佐重喜先生(小沢一郎自民党幹事長のご尊父)、藤原あき先生などが駆けつけてくださり、さらに地元出身の参議院議員で、当時厚相だった小林武治先生にもお出かけ頂きました。
 この時の厚生大臣秘書官が若き日の橋本龍太郎大蔵大臣で、大臣の日程をやりくりして頂きました。
 遠藤会の総決起大会は、大成功で「遠藤三郎健在なり」を選挙民の皆さんにお披露目するとともに、新たな結束を促し「政治家・遠藤三郎」の再出発の日となったのです。
 この後、三回の衆議院選挙、約十年の政治活動を続け、その間に工業整備特別地域整備促進法、自転車道の整備等に関する法律を議員立法で、自らが提案者となって成立に漕ぎつけ、今日の工業整備特別地域の発展や子供達の喜ぶ自転車の専用道路建設の基礎を築かれたのであります。頑健な候補者でも大変な選挙戦を三回にわたって闘い抜き、常に高い得票で当選されましたが、これは遠藤会員の皆様方の熱意あふれる支援の賜物であることは言うまでもありません。同時に郷里・静岡県の躍進と国家の発展にかけられた政治家としてのたぎるような情熱と使命感が不自由な身を押して十年のご活躍をもたらしたものと思います。
 昭和四十六年十二月二十七日。遠藤先生は静かに二十二年十一ヶ月にわたる政治生活と六十七年七ヶ月の生涯に幕を閉じられました。
 先生が逝かれた後、私は郷里和歌山県に帰り、地元の皆さんのお蔭で県会二期を勤めさせて頂き、さらに昭和五十八年十二月の総選挙で多くの方々のお力で初当選させて頂きましたが、初登院の十二月二十七日は奇しくも先生が亡くなられた日から数えて十二年目でありました。誠に不思議な巡り合わせであるとともに、自らの今日あるは、遠藤先生のお蔭であると、改めて心に刻んだものです。
 もう一つの不思議な巡り合わせがあります。
 遠藤先生が亡くなられた時、衆議院で弔辞を述べて頂いたのが、社会党委員をなされた勝間田清一先生でしたが、私は初登院の日に自民党の党議決定に基づいて、社会党の副議長候補の勝間田先生に一票を投じさせて頂いたのであります。
 戦前、食糧庁企画課長時代に、先生が心血を注がれた「食管法」は今、時代の移り変わりと共に見直しが言われ、日本の高速道路時代の草分けとなった東名高速道路は、いよいよ、第二東名道路の建設が進められるに至っております。この大きな変遷を今、先生は天国にあって、当時共にご苦労された方々と何を語り合っておられるか、興味深い思いが致します。
 いずれにせよ、これからの私自身の政治生活を通して、私の人生の師であり、偉大であった先生の名を汚すことのないよう心に誓う今日この頃であります。(衆議院議員)

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