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「妙中正一伝」平成13年8月10日発行より

 

 

 

 

偉大な紀州のおやじ



衆議院議員 二階俊博


妙中正一先生 妙中正一先生逝きて、早や十七年の星霜が過ぎようとしています。
 先生の訃報に接したのは、私が国政を目指し、選挙運動に最後の追い込みをかけている確か昭和五十八年八月のお盆の前の頃でした。
 今でも忘れもしませんが、富田川のほとりを後援者の家に向かって車を走らせているその車中、和歌山放送のニュースによって、和歌山県政の巨星――――妙中正一元県議会議長の訃報に接しました。
 夕陽が沈む時の真っ赤な輝きを見せてくれる、丁度、夕暮れの時でした。
 私は当然の如く、直ちに高野口に向けて車を走らせなくてはならない。一方その日の夜は座談会が何ヶ所か既に設営されている―――一瞬、迷いましたが、ご葬儀には、日程を変更してでも伺うことにして、そのまま選挙運動に専念させて頂くことに致しました。
 美しい夕日で輝く富田川のほとりで車を走らせながら、突然接した先生のご逝去の報は、私には大きな衝撃でした。選挙区は、当時、一区と二区に分かれていても、妙中先生の全県にかけての影響力は計り知れないものがあり、当時、緒戦を前に、私のよき理解者として常にご指導を頂いて、今日まで戦いを進めてきた私にとっては、父を失ったようなショックと、温容でしかも激しい気性を内に秘めた偉大なる「紀州のおやじ」がこんなにも早く一人旅立たれてしまったのかと惜別の想いがこみ上げてくるのでした。
 先生も私の亡父 俊太郎と県政の議席をともにさせて頂いた昭和三十四年の春からの二期八年の間、「妙中さん」という高野口出身の県会議員が、まだ二期目の議員であるが、県政の中で、最も実力のある政治家であるということを早くから父から聞いていました。
 妙中さんと私が最初にお目にかかったのは、確か、昭和三十九年の十一月に行われた自民党の総裁選挙のころでした。
 当時、藤山愛一郎先生を総理にと意気込む藤山派の参謀を務める遠藤三郎代議士(戦前、農林省より出向で本県経済部長を務め、後に、静岡県第二区より衆議院議員に当選)の秘書をしていた私は、自民党県連の幹事長をされていた妙中先生との連絡役でした。
 藤山愛一郎先生は、財界から岸内閣の外相として、政界入りをされ、最初から総理を目指しておられました。
 その頃の藤山派には、江崎真澄、小沢佐重喜、南条徳男、さらには加藤紘一氏の父、現総理の父 小泉純也氏等多彩な有力な顔ぶれが揃う集団でした。
 しかし、内外の期待を集めながら、幾度かの挑戦の末、遂に総理の座を勝ち取ることが出来ない悲運の政治家でした。同じように、実業界から政治の道に進まれた妙中先生にとっては、藤山愛一郎という存在は、確かに魅力のある気になる政治家であったことには違いなく、その後も、紀の川の河川改修事業で、事業調整費の獲得のため、経済企画庁長官をつとめておられた藤山愛一郎先生のもとに、遠藤三郎先生の命により、私が妙中先生をご案内させていただいたことがありました。
 妙中先生からの連絡は、当時自民党県連の事務局長の辻周良氏(現県薬務課長辻和良君の父)からであった。
時が移り妙中先生の一世一代の勝負の時―――それは、有名な大橋正雄氏と平越孝一氏の紀州政界を真二つに、雌雄を決する知事選挙の時でした。
妙中先生から藤山経済企画庁長官を大橋さんの応援に来てもらいたいという依頼が寄せられました。
早速、そのことを遠藤先生にお伝えすると、直ちに藤山先生に会って頼んでくると言って出かけられました。
間もなく、遠藤先生から私に電話で「藤山先生が和歌山の知事選挙に行って下さることになったので、妙中さんに連絡して上げて下さい」とのことでした。
満員の和歌山市立体育館の演壇に藤山愛一郎長官が姿を現した時、会場は一瞬どっと沸いた。私は、些か妙中先生の顔を立てることが出来たという満足感を覚えたものでした。
 昭和五十年春の県議選に初当選した私は、選挙の際、自民党から公認されずに無所属の当選であった。
それが理由で、初当選の際、十二人で一年生県議を中心に清新クラブを結成。後、大橋知事の急逝の後の知事選の際、全員自民党に入党して、清新自民党県議団を結成、そのことがその後、妙中先生率いる「自民党県議団」と対立、野党の他の会派と連携して、「六派連合」を結び、最大会派の自民党県議団の思いのままに県政をさせないという強いシグナルを発信しながら若い同志と共に県政に新風をと意気込んだ日のことが今、懐かしく想い起こされます。
 国政で私が野党時代、当時の野党各党の皆さんと連携を組むことがしばしばありました。
その時、以前県会議員の頃、公明、社会、共産の先輩の猛者に鍛えられた日のことを思い浮かべ、こんなことを私はすでに経験して来ていると先輩たちの顔、顔、顔を想い浮かべたものだった。
 二期八年間の私の県政での活動は、ほとんど妙中先生たちベテランとはほとんど正反対で、常に妙中先生たちが右といえば左、左といえば右でした。
従って、最大会派の自民党県議団が議長候補をしぼれば大体その人が当選するというのが当たり前のようになっていました。それを私たちの清新自民党県議団を中心に六派が協力するといつでも逆転できるという状況が続いていました。
 ある時、妙中先生が、「君等のやり方はよく分かった。これからは君等の思う通りの県政をやってくれ」と言われました。
 それが本心であるかどうかは知る由もありませんが、「清新」の看板の通り、私たち若手の意見が徐々にではあるが県政の中に浸透しはじめました。
 いよいよ衆議院選挙に出馬を目指すための私の選挙活動が活発になった頃、盟友の門三佐博県議から「二階さんは、僕と友達だったために、あんたの出世を遅らせてしまったような気がしてすまんと思っている」と述懐されました。
 門県議は、妙中先生と同じ選挙区の伊都郡選出であるため友人として私のことを案じてそんなことを心配してくれていたのでした。
 ある時、妙中先生から
「二階君は衆議院に出る決意をして、しかも田中派から行くらしいが、ワシも田中さんには前々から可愛がってもらっているので、折角県会から衆議院議員を目指す以上、県会議員の中から田中さんに推薦する者があっても良いのではないかと考えている。」
「もし、二階君さえよければ一緒に田中さんに会いに行こうではないか」とのことでした。
 早速私は、有難いことだと思って田中先生に連絡をとったところ、箱根における田中派の青年研修会に行くので、その朝、研修会がはじまる前に来るようにとのことでした。
妙中先生と私は、早速、箱根の研修会に向かって田中角栄先生のところへ挨拶に出かけることになりました。
妙中先生は、田中先生にみやげを買いに大阪難波の「はり重」という肉屋に寄りました。
田中先生には、すき焼用の肉とステーキとどっちがよかろうかと言うことになりました。
 私も咄嗟のことで返事に困っていると、両方持って行こうかということになり、妙中先生は田中先生への土産を買ってくれました。
 私のことで行って下さるのですから、私が新幹線の切符等用意するのは当然と思っておりましたところ、若い二階君に切符を買ってもらったのでは私の立場もない。それなら僕は行かないーーー。これが親分肌の妙中先生の面目躍如とするものですが、県政では若気の至りとは言え「反対」ばかりしていた私のために、態々、田中先生を訪ねてくださるのです。
 途中、富士五湖の別荘に越山会の女王として有名な田中先生の秘書の佐藤昭女史のところへ立ち寄り、一路、箱根へ向かいました。
 その夜は、箱根湖畔のホテルの一室で妙中先生と二人で話に夢中になり夜が更けるのも忘れた程でした。
妙中先生は、若い頃、繊物業を営み、苦労した頃の話をしてくれました。
 下駄の鼻緒をつくって、大阪の問屋に行商に出かけた頃の話、商売がうまく行かない時、「家内に当り散らして、食卓をひっくり返したこともあった。若い頃苦労をかけた家内の協力のお陰で今日の自分がある」
 「鼻緒が飛ぶように売れるようになり自分のところの品物だけで間に合わなくなり、近所の同業者にもつくってもらえるようになり面白い程金儲けが出来た時があった。それが妙中パイルの最初の頃であった」
 町会議員の選挙に出たこと、県会議員の選挙に出たときのこと、大橋知事との二人三脚の和歌山県政について、そして和歌山国体の当時、県会議長として充実した政治活動についても詳しく語ってくれました。
 翌朝、私たちは約束の場所へ田中先生を訪ねました。
田中先生は、あの人なつっこい笑顔で「よく来てくれたなあ、紀州のおやじ」と両手を広げて妙中先生を迎えてくれました。
 おやじは偉いなあ、前に中西啓介君を育ててくれて、今また二階君を応援してやってくれるーーありがとう!ありがとう!とあのダミ声で田中先生はまくし立てました。
 「紀州のおやじは偉い。県政のボスは何処でも自分の言うことを聞かないと次から次へ新しいのを連れてくるが、みんな代議士になる必要はない。知事をやる人、参議院議員や県会議員や市町村長になる人、みんなで手分けしてやればいい。その点妙中さん本当にありがとう!二階君は必ず当選させるから・・・・」と周りにおられた田中派の幹部の方々にも私を紹介してくれました。
 二人は田中先生からの直々の激励を受けて意気揚々と箱根の山を降りて来た日のことをつい昨日のことのように思い出すのです。
 帰りの新幹線の中で妙中先生は「今日は二階君のお陰で田中先生に褒めて頂いた」とまるで、子供のように無邪気に喜んでおられました。
 私は妙中先生との最初にして最後となったこの箱根への旅で、妙中先生の一代記を先生自ら語って下さったことが私の脳裡に印象深く焼きついています。
 私の選挙戦の第一歩は白浜ハマブランカにおける私の「明日への挑戦」=(題字田中角栄先生)の出版記念パーティが開かれました。
 中央から村岡兼造前自民党総務会長、県内から妙中先生がゲストとしてお越しを頂き、幸先の良いスタートを切らせて頂いたものでした。その本の表紙の帯に妙中先生は次のような推薦文を寄せてくれました。
『二階君とは、お父さん(故 俊太郎先生)と二代にわたって親しくお付き合いを頂いている間柄です。従って私は、二階君が故遠藤三郎代議士の秘書時代から、よく知っております。
「明日への挑戦」は年は若いが、豊かな政治経験と鋭い洞察力、積極果敢な行動力によって、文字通り足でかせいで書いた貴重な県政レポートであり、二十一世紀への本県の進む方向を示す提言の書でもあると思っています。
 県議会においては、目下、関西国際空港特別委員長として重責を背負って、またスポーツ活動等にも人一倍多忙な身で、これだけ立派な本をまとめ上げ、県政浮上にかける、燃えるような情熱に心から敬意を表したいと思います。是非ご一読をおすすめします。』と推薦の言葉を述べてくれました。
 今あらためて、天国におられる妙中先生に、私が衆議院議員に初当選したことも、その後和歌山県民の皆さんのご支援のお陰で今日まで国政の場で働かせて頂いていることも、お世話になった妙中先生にはお伝えする方法もありませんが、先生がこよなく愛し、情熱の限りを尽くされた和歌山県の発展に尽くすことが、先生のご恩に報いる道であると考える昨今であります。
妙中先生どうか私たち後輩の政治活動を見守って下さい。
 心からご冥福を祈る次第であります。

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