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森田実著 『公共事業必要論』出版記念講演会

平成16年7月2日(金) 13時
於・キャピトル東急ホテル「真珠の間」
企画 自民党政策グループ「新しい波」
    森田実著『公共事業必要論』出版記念講演会

<出版記念講演会の開催に寄せて>

〇「言うべきは言わずして過ごしなば我が損なるべし」   神坂次郎(作家)

〇「国土の経営は国家そのものの責任」     大石久和(国土技術研究センター理事長・前国土交通省技監)
                  

<出版記念講演会次第>

司会・・・・・・    西川太一郎(前経済産業副大臣)

〇主催者代表挨拶    二階俊博(衆議院議員・「新しい波」会長)

〇来賓祝辞
     
    1、 伊吹文明(衆議院議員、元労働大臣、元国家公安委員長)

    2、 竹内良夫(工学博士、初代関西国際空港株式会社社長

    3、 白石真澄(東洋大学経済学部助教授)

    4、 上田清司(埼玉県知事)

〇挨拶・・・・・・・・・・泉信也(参議院議員、経済産業副大臣)

〇記念講演・・・・・・・・森田実(政治評論家)

「言うべきはいわずして過ごしなば我が損なるべし」

  神坂次郎(作家)

 例年にない厳しい暑さの中、7月2日午後1時という時間帯に、おおぜいの皆さんの参加のもと、「森田実先生の出版記念講演会」が盛大に開催されました。実行委員の一人として、心から感謝申し上げます。
 私の生まれた家は、紀州有田の江戸時代からつづいた材木問屋でありました。私自身、作家になる前、土木技師として熊野などの工事現場で二十余年働いた経験を持っております。この経験から近ごろ、特に地方の建設業が希望を失いかけている姿を見るにつけ、心から寂しい思いをいたしております。
人間は一人では生きることができません。助け合って生きていかなければなりません。地理的、地形的、気象的に極めて厳しい国土を有する我が国では、古来、集落と集落を結ぶための道路を作り、地震や津波や台風などの自然の脅威や猛威から守るための生活インフラを築き、叡智を絞り、多様な文化を積み重ねてまいりました。公共事業というのは人類社会の発生とともに存在した文明の営みであり、文化や、歴史や、伝統の源であります。
 ところが昨今、構造改革の名の下、経済性・効率性のみが優先され、公共事業が持つ社会的、歴史的意義はややもすると忘れられ、過小評価の結果、日本の地方、また日本全体が元気を失う事態を招いております。私は、このことこそ日本の本当の危機だと思います。
この時に、世論の逆風等をものともせず、堂々と「公共事業必要論」を出版された森田実先生の勇気と見識を大いに評価するとともに、森田先生の哲学的・歴史的な深い洞察力に非常な感銘を受けた一人であります。
 森田先生はこの本の中で、曹洞宗の改組、道元の「言うべきは言わずして過ごしなば我が損なるべし」の言を引用し、地方は地方活性化のために、土木建設業者は土木建設がいかに大切なものであるかを、国民の皆さんに知ってもらうために立ち上がることを促されております。私も作家として、またかって建設業界に身を置いた一人として、我々の生活、そして子々孫々の生活にとって、人間の営みとしての公共事業がいかに大切であるかを国民の皆さんにあらためて正しく理解して頂くための努力をしたいと考えております。
 最後に今一度、どうした日本、元気を出せ日本!と、心ある同志の皆さんの奮起を祈る思いや切であります。(談)


「国土の経営は国家そのものの責任」

                        大石久和(国土技術研究センター理事長)
                  (前国土交通省技監)

 
 森田実先生が、親しい友人からの「君の評論活動はお仕舞いになるのではないか。マスコミから干されな
いことを祈るのみだ」との忠告も有りうべしとの予感があるなかで、あえて「公共事業必要論」を上梓され
たことに対し、公共事業に携わる一人として、大いに感謝申し上げ、また敬意を表する次第であります。
 いかにも品のない評論家が、テレビを中心に根拠のない「害論」をまき散らしている状況を憂い、「上品で、信念の人である」森田先生が、多くの格言、箴言を駆使しながらの「正論」を、この著書においても、このご講演においても、主張されました。多くの人々の心に訴えることの多い実体のある論述であり、ご主張でありました。
 本来、われわれは、先祖から引き継いだ社会資本遺産の恵沢のもとに生活を成り立たせており、したがって、次世代に続く子孫のためにも、よりよい社会基盤を形成して残していかなければならない現世代の責務があるにもかかわらず、これらの一連の努力を、かっこ付きの「公共事業」の世界に押し込め、公共事業費さえ削減していけば、財政も再建され、効率分野への雇用転換が進むなどした「妄論」の跋扈に、堂々と反論し抗されたのであります。
 社会資本の充実を通じて、国土を経営するのは国家そのものの責任であり、政治の責任でもあります。だからこそ諸外国も、特に中国などは、国家の責任において、競争力ある国土を作る為に、厳しい国家財政のなかでも努力を続けているのであって、われわれがその努力を怠れば「国際的な競争力の喪失による国益の遺失」をもたらすのは当然のことであります。
 森田先生の示された方向をしつかりと受け止め、後世に禍根を残したくないものです。

「森田実・出版記念講演会実行委員会

 石川 好・伊吹文明・井上 孝・神坂次郎古賀 誠・白石真澄・竹内良夫・前野 徹・二階俊博

【森田実・「公共事業必要論」出版記念講演会】

               
                平成16年7月2日(金)午後1時〜

キャピトル東急ホテルB2「真珠の間」

≪司会―西川太一郎前経済産業副大臣≫

皆様、お暑うございます。大変なしかも週末の午後1時という時間、業務ご多端にもかかわらず沢山の方にお集まりいただきました。ご覧の通り、この「真珠の間」一杯でございます。別の場所にサブ会場をつくらせていただきまして、モニターで今日の模様ご覧いただくようになっておりますが、そちらも300人を越える方がおつめかけをいただいております。
申しおくれました、今日の司会を仰せつかりました前経済産業副大臣を努めました西川太一郎でございます。どうぞよろしくお願いいたします。
今日、私ども自由民主党政策グループ、二階俊博衆議院議員を会長といたします「新しい波」が呼びかけ人として、有識者おおぜいの皆さんにおおぜいの人に発起人をお引き受けいただき、森田実先生がこの度渾身の力を持って著された「公共事業必要論」、これを多くの皆さんに是非ご愛読をいただき、宣伝をしていただこう、こういうことで大阪で6月21日、2,000人を超える方々に、あの台風の中、お集まりをいただきました。また、和歌山県内でも各所で講演をし、好評をいただきました。その森田先生に本日は東京でおおぜいのご関係の皆様方に是非ご参加をいただき90分間、丁度大学の授業の一コマに当る訳ですが、是非、先生からお話を親しく聞いていただきたい。こんな企画を立てました所、このようにおおぜいの皆さんにご参加いただきました。心から御礼申し上げます。本当に皆さん、今日はありがとうございました。
それでは早速ではございますが、この会を発起人代表として企画をいたしました元運輸大臣、只今申しました自由民主党政策グループ「新しい波」の会長であります二階俊博衆議院議員からご挨拶を申し上げたいと存じます。二階先生よろしくお願いいたします。

≪二階会長挨拶≫

大変お忙しい所、多くの有識者の皆さんにお集いいただきまして森田実先生がこの度出版なされました「公共事業必要論」、この出版を記念するとともに、先生から直接お話をうけたまわって私たちも私たちなりに勉強をさせて頂きたい。こういう気持ちで皆様にお呼びかけをしました所、このように多くの皆様にお集い頂き誠にありがとうございました。
只今、参議院選挙をやっている真っ最中でありますが、それでも、だからこそ私たちは参議院選挙後の新しい政策の展開に際して、我々は今、日本に何を必要とするかということをしつかりとこの選挙期間中にも私たちの心に刻んでおかなければならないと思っております。
司会者の西川太一郎先生からお話がありました通り、今日の先生の出版に際しましては、本日、この席に伊吹文明先生、竹内良夫先生、白石真澄先生を始め、古賀誠先生、今丁度選挙の応援で今日は古賀先生は大阪の方にお出かけになっておりますが、そんなメンバーで、この森田先生の出版会を催させていただきました。各界の皆さんに協力をいただきました。これからおそらく先生の著書はベストセラーとして、またある意味では歴史に残るような本になるのではないか。私は一読さしていただいてそのように思っております。皆さんもそれぞれ日頃から公共事業の必要性、あるいは日本の政治で中央と地方の問題、大企業と中小零細企業の格差の問題等について、我々は深刻に、真剣に考えなくてはならない多くの課題が横たわっていることは、皆さんもご承知で自らが体験されていることだと思います。
そうした課題について、森田先生が日ごろから「歯に衣を着せぬ」というか、信念を貫く政治評論家として有名でありますが、先生がズバリ切り込んで日ごろのご主張をお書きいただいている。是非、皆様にご一読いただくとともに、またお仲間の皆さんにお伝え頂き、この本を回していただいたり、また皆さんで購読していただいてできるだけ多くの同志を募って、我々は新しい時代の政策転換を導いていきたいと思っております。前に大阪で先生が講演されておられるのを丁度良い日に当りまして、私はお話を承っておりましたら先生は最後にこうおっしゃいました。「まもなく参議院選挙が始まります」。当時はそういう時期でありました。「公共事業についてキチンとした考えを持っている候補者に皆さんが支援されるということが日本の政治を変えていくことにつながるんだ」ということを明確におっしゃっておられました。私はその通りだと思います。そうしたことに物を言うのもこの頃は勇気がいるようなこういう情けない世の中になってしまいました。自らその業に打ち込んでいながら、何となく世の中の風潮におされてしまって言いたいことも言えないような状況になっている。果たしてそれで良いのか。そういうことはやはり改める良いチャンスだと私は思っております。どうか限られた時間ではありますが、先生からいろんなお話を伺い、またご質問等、活発に展開していただき、折角のお時間、有意義にお過ごしいただきますように心からお願い申し上げ、ご協力いただきました皆さんに重ねて御礼を申し上げ開会のご挨拶にさせていただきます。

≪司会≫
発起人を代表されまして二階俊博衆議院議員からご挨拶を承りました。三人のご来賓をお招きしております。順次ご祝辞をいただきます。
始めにご紹介申し上げますのは、既に皆様ご承知の自民党のニューリーダーの一人でございます。伊吹文明先生は労働大臣をお勤めの後、国務大臣、国家公安委員長をお勤めになりました政界の重鎮の一人でございます。それでは「いずみ」、あ大変失礼いたしました。つい参議院選挙で「泉しんや」のことで頭が一杯でございまして、「い」で始まると「いずみ」とこう言ってしまいます。失礼をいたしました。伊吹文明先生どうかよろしくお願いいたします。

≪祝辞―伊吹文明先生≫

 皆さんこんにちは、ご紹介いただきました伊吹文明でございます。二階先生のご依頼を受けて発起人の末席を汚しております。今日はお昼間、こんなにおおぜいの皆さんにご参加をいただきました。森田先生のご書物のお値打ちもあるでしようが、仕掛け人である二階さんを始めおおぜいの方々のご努力に心から敬意を表します。
 私は二階先生と当選が同期でございまして、今から20年前に当選をいたしました時に議席が二階先生と並んでおりました。その後二階先生が家出をいたしまして、今回、戻っていただいて大変心強いんですが、また議席がご一緒になりました。「森田先生のすばらしい本があるんで出版記念をするんだが「お前発起人になれよ」ということでした。後ほどお話をしますが私、森田先生とは二階先生よりも早くからの付き合いであり、喜んで発起人にならせていただきました。幸い、千葉に選挙応援の日程が昨日ございましたので、今日は是非出席したいと思ってやってまいりました。
 二階先生は深謀遠慮の人でして、じつくり考えて果断に行動されますが、必ずいろんな仕掛けがございます。もちろん今日の主役は森田先生ご本人なんですが、今、司会者がおっしゃったように、後ほど泉さんがご挨拶に来られると思います。二階さんのグループで泉さんは比例区で一生懸命選挙を戦っております。たぶん二階先生のお気持ちを忖度して言えば、一つ泉さんのお話を良く聞いてやっていただいて、是非11日には「泉しんや」と書いてやっていただきたいなあーというお気持ちもあるんだろうと私は思っております。どうぞよろしくお願いいたします。
 さて森田先生のことですが、政治家も、政治評論家も、どうしたら大衆に受けるのか、我々の言葉で言えば「票が入るのか」に気を取られ勝ちです。ために我々で言えば、政策を判断する政治理念とか尺度を持たないままに、パッチワーク的に一つ一つの事柄について、大衆受けするんではなかろうか、これをやれば選挙に有利ではないか、という発言をしがちです。それは人気が出るかもわからないけれども、トータルシステムとして、日本を預かつている立場からすると、必ずしも統一的な判断ができないという残念な結果を生じる。評論家の方も同じでして、ここでこいつをやっつけるとテレビで大受けするなとか、何か反論すると「ここでコマーシャル」とか言って打ち切られるとか、いろんなことがあるんですが、森田先生は終始一貫して、政治評論家としての価値基準というか尺度を変えにならずに発言をしておられると私は思います。そのことを私は大変尊敬をし、20年来、森田先生にご指導をいただき、ご厚誼を賜っております。
 この本を私も頂戴いたしまして、「公共事業必要論」という題は、森田先生の今までのご主張と必ずしも合わない表題かなと一見思いました。これを良く読んで見ますと、公共事業を話題にしながら、政治家あるいは一国を担う宰相とはいかにあるべきかをおっしゃつている本だと私は読みました。人間の歴史を振り返りますと、ローマの昔からあるいは大昔の中国もそうでありますけれども、繁栄をした国家とか王朝とかは必ず衰亡の時を迎えます。衰亡を迎える大きな理由の一つは、やはり物質的に豊になったなかで、その王朝、その国を物資的に豊にした人間の力が、豊饒の中の精神の貧困とでも言うか、衰えてくるということです。日本も今残念ながらそういう状況にあります。額に汗して働くことが一番大切なことであって、他の人に世話になることは基本的に恥ずかしいことだ。しかし、勝ったからと言って偉いんではなく、弱い者を抱えながら一緒に調和して社会を動かしていく、これが人間力、値打ちだと思います。さて、今の日本はどうかということです。高度成長からバブルまでの間に、日本も肥満体質、糖尿病体質になり下がった。人間力は低下し、不必要なことをやる、贅肉をつけた社会システムができあがったと思います。これをそぎ落として、肥満体質をスリムにし、あるいは糖尿病を治すために小泉さんがやっていることは競争原理を入れ、競争の中で効率を図っていく、贅肉をそぎ落としていく。この時代認識は決して間違ってはいないと思います。
 しかし、そこで止まってしまうと総理大臣ではなく、日本経団連会長になってしまう。我々政治家が預かっているのは国民の幸福であって、利益や売り上げの極大値を預かっている訳ではない。効率的ではあるけれども、それだけで人間は幸福なんだろうか、ということを政治を預かる者は常に考えておかなければならない。国や地方自治体がやっている仕事は、国民から強制的に頂戴した税や保険料で賄っているのですから、税や保険料を最小限にして、ある目的を達成するというために効率化を図らなければならない。ある目的とは何なのか。それは利益ではなく、売り上げの極大化でもない。やはり国民の幸福だと思います。後ほど経済学が専門の白石先生がお話するかも解りませんが、例えば、きれいな水、あるいは澄んだ空気、仲良く暮らしていける雰囲気、日本国民として同じ憲法のもとで、同じ租税体系のもとで生きている限りは、同じ便益を受ける権利、それは全国民に公平に与えられねばならない。調和がとれている社会というものは、経済のメカニズム、経済学的に言うと価格システムにはのらないけれども、インビジブル・ソーシャル・ベネフィツトとでもいうでしようか、見えざる社会的な暖かさ、暮らしやすさ、調和のとれた社会、こういうものを政治家は考えていくべきだと思います。
 規制緩和、競争原理、民営化の中で、利益が上がれば、儲かればいいんだという風潮があります。この社会風潮が日本人が伝統的に守ってきた人間力を低下させている現実は、上場企業の多くで法令の遵守さえできない、ましてや法令を遵守しても、品性のある会社としてやってはならないことが、利益と売り上げを大きくするために平然と行われている。そういうことへのこの本は警鐘だろうと思うんです。無用な公共事業は一つもありません。しかし優先順位の低い公共事業は多くあります。談合とか社会的に許されない行為によって無駄があるということを私は否定はいたしません。しかし、公的部門の効率化と利益の拡大化を誤解してしまったために、日本国として守っていかなければならない目に見えない伝統、規範、地域社会、きれいな水、皆んなで仲良く暮らしていく雰囲気、こういうものがなくなった時に、政治は何をしたんだろうか。こういうことを良く考えろよということを、森田先生は二階先生や私たちに詰問されているんだなという気持ちでー私はこの本を読んでおりました。
 特に最後の二章を皆さんに読んで頂きますと、私の申し上げたいことをご理解いただけるんではないかと思います。我々に対し厳しいご批判の本だと受け止めております。力を合わせて良い日本を作るため、司会をしている西川先生もできるだけ早い機会に我々の仲間に戻って頂くことを期待しています。ありがとうございました。

≪司会≫
 ありがとうございました。伊吹文明先生から大変貴重なお話を承りました。竹内良夫先生をご紹介したいと思いますが、竹内先生はご案内のように元運輸省港湾局長をお勤めにになり、関西空港株式会社の初代社長をお勤めになったことは既にご承知のとおりであります。ここには関係者の皆さん、後輩の方々がおおぜいつめかけております。先ほどお伺いしましたところ鬼頭平三現局長と20年先輩に当られるそうであります。それでは公共事業の世界の良識あるリーダーの一人であります竹内良夫先生からご挨拶をいただきたいと思います。

≪祝辞―竹内良夫先生≫

 只今ご紹介のありました竹内でございますが、今日、ここに立ってお話しするということは今始めて聞いてビツクリした訳であります。言わんとすることは、今、二階先生や伊吹先生のおっしゃつたことと全く同じことを言いたいたいと思います。そこの所は繰り返しませんが、また後で泉信也君が来て、ああ来ていらっしゃいますか、早速変ってもらいたいのですが、ただ森田先生のの本を拝読しまして、政治、公共事業について、「中庸」が大事であるというようなご主張、ご示唆ではないか。最後のところで老子の思想というものを高く評価されました所に非常に感銘をいだいたものでございますが、その辺の所を政治にも是非生かして欲しいことを念じましてご挨拶に変えたいと思います。どうもありがとうございました。

≪司会≫
ありがとうございました。竹内良夫先生でございました。それでは白石先生、東洋大学で社会システム論、特にバリアフリー問題では日本の草分けのお一人の学者であります。ニツセイ基礎研究所という日本を代表するシンクタンクの主任研究員から東洋大学に移られまして、今、社会保障全般、年金問題を含めてご論議の先頭に立っておられます。白石真澄先生をご紹介申し上げます。

≪祝辞―白石真澄先生≫

 皆様、こんにちは。東洋大学の白石真澄でございます。壇上からのご挨拶、大変、失礼を申し上げます。私と森田先生とは、木曜日朝のスーパーモーニングという番組で時々ご一緒させていただいております。私事ではございますが、私の父は今から丁度、15年前に亡くなりまして、もし存命しておれば、森田先生と同じ年頃に当ります。もし父が元気で生きていたなら、こうして色々と話ができるのになあという風に、いつも森田先生のお姿に亡くなった父の姿を重ねております。森田先生は、私のような若輩者に、さらにテレビ局の若いスタッフにも気さくに声をかけて下さる方でございます。
 さて私は今日、東京駅からここまでタクシーで参りました。私は日頃、タクシーを利用すると、運転手さんと景気や社会問題、様々なことを話題にいたしますが、今日はたまたま運転手さんが「どこにいらっしゃるんですか」とお聞き下さいましたので、「今日は政治評論家の森田実先生の講演会があって、キャピトル東急に参ります」と申し上げました。そうしますと、タクシーの運転手さんが「あの方はいいですよね!」とおっしゃるんですね。「どういったところが良いのですか」とお聞きしてみました。「まず信念の人だね。それから上品だね」とおっしゃり、東京駅からここに着くまで約10分間、運転手さんの森田さんに対する賛辞を拝聴させていただきました。今更ながら森田先生のフアンが多いことに驚きました。降りるときに、「森田先生のお仕事に行かれるんだったら本当は1220円だけど、1000円でいいよ」ということで,私は森田先生の恩恵に預かってしまいました。森田先生、ありがとうございます。
 さて私もこの本を拝読いたしまして、ます、「公共事業必要論」というタイトルですが、公共事業に大きな逆風が吹いている時に、何と過激な、何と発言するに勇気を要するタイトルだろうと思いました。「公共事業の無駄を削れ」という発言のごとく、公共事業に大きなプレッシャーがかかっているこの時期、あえて公共事業が必要だと言ったら、世間からどういう批判が出てくるでしょうか。さきほど、伊吹先生もおっしゃいましたように,この本はたしかに「公共事業の必要性」について説かれています。ただ、それだけでなく、森田先生はこの本の中で、このようにおっしゃりたかったのではないかなと感じます。「地方に無駄な公共事業はいらない」、「公共事業の採算性」、「都市の税金を地方にばら撒くな」、こうした一部の大衆迎合主義的な意見に呼応するのではなく、公共事業の必要性をキチンと政治の場で議論をし、地方の声も吸い上げる仕組みにしていかなければいけない。国家の根幹を成す、インフラ整備や国づくりについて、議会制民主主義の基本に立ち返って、もう一度多くの人に考えて欲しい。地方が地方独自の力や個性を発揮できる、都市住民と同じ利便性を享受できる公正な社会にしていく、公共事業を例に、政治や社会の仕組みに斬りこむ、こういうことをおっしゃりたかったのではないかと感じました。
 さて、私もいろいろな機会を得て地方にお邪魔することがございます。若干、民間の努力で景気が回復してまいりましたが、まだその影響は都市や大企業の一部だけでございます。地方の建設事業者の方の状況などは惨憺たる状況でございます。公共事業の件数も受注額も減り続け、収益は上がらない、業界も疲弊している。こうしたなか、有能な技術を持った人を正規の社員として雇用し続けられない、さらに、これから年金負担が大きくなるので、厚生年金を支払わねばならない正規の雇用者から、会社側が13,000円程度の国民保険料を給与に上乗せするから、パートや契約社員として働いて欲しいというような状況もあつて、建設事業に携わる方の雇用状況は非常に不安定になっております。
日本の中の就業者の1割が建設事業者でごさいます。この方たちは技術に誇りを持ち、私たちが生活で安心・安全な生活の恩恵を受けている日本の社会資本整備の基盤をつくって下さった方でこざいます。
 小泉さんのおっしゃる構造改革とは、人材が余っている産業から必要な産業に人材を移していく、規制緩和によって教育や福祉といった新しい産業をどんどん創出し、建設業界などから余剰人材を新規産業に移転することです。しかし、実際はいったん、職を失った建設業界から、どこに人が流れているかと申しますと、同じ業界が最も多く、建設業界自体が受け皿となってきた。しかし、もはや、特に中小の規模の事業者はさらに業績が悪化し、人材の受け皿となりえない。建設業に携わってきた多くの方々はこのようにおっしゃいます。「私たちは技術や自分たちの仕事に非常に誇りを持っている。日本の社会資本整備を支えてきたのは私たちだ」と。今後、高度成長期につくった高速道路や橋梁など、ストックの更新時期が参りますが、建設業が疲弊すると、日本の土木建設技術の発展が望めない、人材が育たないといった問題が出てまいります。中長期的な国づくりをどうするのか、今のような構造改革のあり方で良いのか、これを問い直すべき時期がきているのではないかと思います。
さらに、私は日頃、学生たちと接しておりますが、今、大学を卒業しても6人に1人の割合で、卒業時に職を得ることが出来ておりません。7、5、3といわれるように中卒者の7割、高卒者の5割、大卒者の3割が3年以内に職を離れ、フリーターや無業者となっております。一度仕事を離れても、第2新卒として新しい機会を得て仕事を得られればいいわけですが、一度正規のルートから外れてしまった人達には、再就職のチャンスがなかなか巡ってこない、こういう状況でございます。50社、60社、就職先にトライをして、落ちてきている学生に再度、立ち上がってがんばって来いと申さねばなりませんが、彼らは十分に努力しても、不況のなかで採用枠が縮小し、採用されない。
こういう状況下で、学生たちの状況を見ていますと、彼らは失望感とあきらめに包まれている。生活はそこそこ豊かだけれど、日本の社会に明るい希望が見出せず、何のために働くのか、学ぶ意味、生きる意味も見出せない。努力しても報われないし、責任も負いたくない、自分さえよければいい、人の立場にたって考えられない。親も子どもを囲い込んでいて、自立させない。どこか社会のタガが緩み、社会全体がおかしくなりはじめています。
戦後、50年間以上が経過しました。私は戦後生まれでございますが、国や社会は大きく発展を遂げ、豊かな生活が出来るようなりましたが、何かが音を立てて崩れ始めている。戦後、得たものもありましたが、日本人や日本社会がなくしてきたものも多くあると思います。時間の針を過去に戻すことはできませんが、国の姿、社会の基軸、家族や地域社会、権利だけではなく個人が果たすべき義務について、もう一度見つめ直す時期に来ているのではないかなと思います。こうした時期に森田先生のような歴史観のおありになる方、信念の方に是非、さらに大きな役割を果たしていただきたい。
森田先生のご著書の後半部分にこういう記述がございます。「良き金言、警句はどの時代にも食事と同じように滋養を与え、何世紀にもわたって生き続けるものである」。この言葉はまさにこれまでの、そして、これからの森田先生のご活動に当てはまるのではないかと思います。今までの森田先生の多くのご経験や金言が、これからの日本の社会に大きな示唆をもたらすものと確信してやみません。
甚だつたないご祝辞でございましたが、森田先生の益々のご健康とご発展を祈念しまして私のご挨拶にかえさせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。

≪司会≫
 ありがとうございました。白石真澄先生でございました。実は公務多端の中を上田清司埼玉県知事がお見えになつております。1分間スピーチを埼玉県知事からいただきたいと思います。

≪祝辞―上田清司埼玉県知事≫

 森田先生の「公共事業必要論」、実は私も埼玉で一般的に言うと公共工事不要論みたいな話があるのですが、必要な所に沢山だそうといつも言っております。出さなくて澄むところには出さない。しかし出す所に沢山だす。特に道路なんか誰も作ってくれません。採算が合えばテニスコートも温泉も作ってくれますが、しかし道路だけは引き込み線以外は作ってくれる人がいませんので、これは公共の仕事だと私は思っております。そういう意味で公共工事、あるいは公共事業不要論が盛んな時にあえて一石を投じていただいた森田実先生のある意味での慧眼に心から敬意を尽くしたいと思い、また本を読む苦労より、話を聞く方が楽だと思って伺いました。どうもありがとうございます。おめでとうございます。

≪司会≫
 埼玉県上田知事ありがとうございます。
 実は今、参議院選挙の真っ最中であります。一刻も早くおおぜいの皆さんにお目にかかりたい。こういう気持ちで全国を飛び歩いてここにおいでいただきました泉信也候補を紹介したいと思います。泉さんは三期目に挑戦の実績を積んでいる現職の参議院議員であり、そして前の国土交通副大臣をお勤めになり、現在は経済産業副大臣でいらつしゃいます。泉信也候補をご紹介申し上げます。

≪幕間演説―泉信也候補≫

 ご紹介をいただきました参議院議員の泉信也でございます。今日は森田実先生の「公共事業必要論」の出版会に私も先生のご高説を拝聴させていただきたいと思って思ってまいりましたところ、ご挨拶の機会をいただきましたことに心から感謝を申し上げます。
 今、地方を回らせていただきますと、疲弊しきった各地方がどうやって生きていくか、公共事業を通じどうやって必要な施設をつくっていくか、津波に対してどうやって地域を守っていくか。こんなことを一生懸命考えていただいている方が沢山いらっしゃいます。こんな時に「公共事業が必要なんだ」ということを論理的にまた高い見識の下にお書きいただきました森田先生のご主張が、全国津々浦々に広がってまいりますよう、私も選挙のお願いの時間をさいて、この出版の内容を皆様方にお伝えさせていただいている所でございます。
 社会資本整備に対していろんな意見がございますが、かって「すべての道はローマに通ず」と言われたこの言葉、ある方は「すべての道はローマに発す」と言いなおし、まさにローマ帝国の国家戦略に基づいて道路はつくられてきたと主張しています。この事実を私は大変重いものだと思っております。
 これからの社会資本整備はまさに国家戦略、地域戦略に基づいて必要な施設をつくり、子や孫のために残していく大切なものだと思っているところでこざいます。一時的な血迷い的な発言で公共事業不要論、公共事業を叩くことによって、何か正義の味方みたいな考え方をすることに私は与してはならない。政治の場でこのことをしつかりと主張してまいりたいと思っているところでございます。
 我が国は大きな曲がり角に直面しております。再来年からは人口が減っていくことになります。50たちますと人口は1億人になるといわれております。さらに50年、今世紀の末には現在の人口の半分、6,500万人になると言われております。このことは日本の歴史始まって以来、私たちが始めて経験する日本の国土にかわってくる大問題であります。こうした時代を想定する中で私たちが子や孫に残す社会資本は、公共事業はいかにあるべきか、もっともっと真剣に議論していかなければいけないと思っているものであります。
 7月11日の参議院選挙まで残された期間はわずかでございます。多くの皆様方のご支援をいただき、国づくり、地域づくりのために全力で全国の皆様方にお願いをしてまいりたいと思います。「泉しんや」どうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

≪司会≫
 泉先生、厚い中でのご奮闘、ご健康に気をつけてどうぞ頑張ってください。皆さん、もう1回、激励してあげて下さい。お願いいたします。ありがとうございます。
 さて大変お待たせいたしました。今日、入り口で皆様に配布いたしました封筒の中に先生のご経歴を入れさせていただきました。素直にこれを読み上げさせていただき、ご紹介にかえさせていただきたいと存じます。

森田実先生(政治評論家)略歴
1932(昭和7)年静岡県伊東市生まれ。東京大学工学部卒業。
 日本評論社出版部長、『経済セミナー』編集長などを経て、
1973年から政治評論家として独立。著作・論文を著す一方、
テレビ、ラジオ、講演などで評論活動を行っている。
【テレビ出演】
フジテレビ、テレビ朝日、TBS、テレビ東京などで政治解説
【執筆活動】
『四国新聞』特約コラムニスト(「森田実の政局観測」)
『経済界』(「森田実の永田町風速計」)
『先見経済』(「森田実の温故知新」)など
【主な著書】
『公共事業必要論』 (日本評論社 2004年6月刊)
『森田実 時代を斬る』(日本評論社 2003年7月刊)
このほか著書・論文多数


 それでは早速、今日の知友新である森田先生の講演に入らせていただきたいと存じます。お時間を90分間頂戴をいたしております。皆さん、ゆっくりとゆったりとそして真剣にお聞きいただきたいと思います。どうもありがとうございます。それでは先生よろしくお願いいたします。


≪森田実先生記念講演≫

 本日はこのような盛大な出版記念の会を催しいただきありがとうございます。主催者と参加者の皆さんに対し深く感謝いたします。今回上梓した『公共事業必要論』は私にとっては35冊目の著作なのですが、こんなに大きな出版記念の会をもっていただくのは初めてのことです。恐縮に存じます。
 実を申しますと、私は神仏に対してあまり敬虔な人間ではありませんが、自宅には神棚と仏壇があり、毎日、形だけですけれど拝むことにしております。これは私の子供の頃からの習慣です。私の母は30年も前に亡くなっていますが、子供のときから母からは絶えず「自分を抑えて生きなさい」「控え目に謙虚に生きなさい」と教えられてきました。今、このような晴れやかな舞台に立って頭に浮かんだのはこの母の言葉です。こんなに大きな出版記念会を開いていただくことは、母の教えにもとるのではないかという思いがいたしました。講演に入る前に、ここであの世とやらにいる母に「ごめんなさい」と謝ることをお許しいただきたいと思います。
 こういう盛大な会合を催していただきました二階先生、古賀先生、伊吹先生をはじめとする発起人の皆さん、本当にありがうございます。私にとって生涯最大の感激であります。このたびいただきましたご厚情、決して忘れません。
 本書『公共事業必要論』が発売されたのは6月21日です。本日で11日が経ちました。版元の日本評論社によりますと、地方の書店に並んだものはすぐに売れてしまっているとのことです。多くの方々のご協力をいただいてそうなっているのだと思いますが、私への報告によりますと、個々人の方が買いにみえられ、本が完売しているとのことです。日本評論社の社長からは、「今、地方の書店は長引く不況のために本の売れ行きが不振で苦しんでいますが、この本を通じて地方の書店が少しでも活気づくならば、こんな嬉しいことはありません。今後頑張ります」という手紙が届きました。版元は、当初から、「森田はこの本によって東京においては総スカンを喰うかもしれないが、しかし、地方では支持されるであろう」というリサーチにもとづく予測を行いまして、きめ細かく地方紙に私の本の広告を出しています。地方に力を入れていることがそういう結果につながっているのだと思います。ともかく、このような報告が私のもとに届いています。

 「公共事業必要論」に対する三様の反応

 私は講演活動を中心に言論活動を行ってきました。講演のため1年のうち半分以上は地方にまいります。東京だけではなく地方の実情をよくみるようにしておりますが、最近の日本は、東京と非東京地域の二重構造になっています。同時に、意識も二重構造になっているのではないかと思います。たとえば、地方の感覚でいえば、公共事業は必要だというのは常識だと思います。当然のことだと思いますが、東京においては、公共事業は必要だと言いますと、異常なことを言っているように聞こえるようです。『公共事業必要論』を上梓したことについて、かなり多くの友人からそういう声が寄せられています。「タイトルをみてびっくりした。これで君の評論活動はお仕舞いになるのではないか。マスコミから干されないことを祈るのみだ」という内容の手紙が何通もきています。
 ところが、地方の方々からはまったく正反対の声が届いています。私の知り合いの四国地方のある市長さんがこの本を読んでくれまして、こんな手紙を寄せてくださいました。この方は有名な市長さんで、手紙の内容は紹介してもかまわないと思いますが、了解をとっておりませんので固有名詞は伏せます。この手紙にはこう書かれていました。「地方のこと、公共事業のことをこんなに真剣に理論づけて考えておられる方がおられたことに驚きと感動を覚えました」という書き出しで、「小泉内閣による三位一体改革は、改革の名を借りた地方つぶしの以外の何物でもありません。地方は贅沢や無駄使いをしているといわれますが、私どもの市では、市長を含む特別職の報酬のカットや、職員の給料まで5%カットをするなど、身を削る対応をしてようやく16年度の予算編成ができました。しかし17年度以降まったく先の見えない状態がつづきます。このような状況では、今後30年の間に40%の確率で起こるといわれる南海地震・津波に備える防災対策でさえ、とても手が回らないという実情にあります」とあり、最後に「先生の理論に勇気づけられましたので、あらゆる機会を通じて今の地方つぶしの実態を説明し訴えてまいりたいと考えております」と結んでいます。
 次にご紹介するのは鳥取県の税理士・公認会計士をしている方からの手紙です。私の知らない方で、書店で買って読んでくださった方です。手紙にはこう書かれています。「この度の『公共事業必要論』は衝撃でした。今まで騙されていたことを思い知らされました。わが地方も公共事業の急激な減少で町は疲弊しています。公共事業は悪玉であると脳に刷り込まれていただけに、何ら打つ手が見つからず、顧問をしている中小企業にコストダウンを呼びかけるほかありませんでした。これからは先生の助言を携えて、中小企業経営者の力を結集し、つくられた地方の不景気を打破できるよう頑張りたいと思います」。
 このような力強い手紙が地方から私のもとに数多く寄せられています。
 一般の方からの声も届いています。ある地方の方の手紙を紹介します。「かつて私どもの周辺や知人の土建業者が――ここは汚職事件が起こったようです――、行政サイドと癒着し、暴利をむさぼり、思い上がり、人を人とも見ない生活ぶりの実態を数多く見てきました。絶対に許せないと思い、公共事業諸悪の根源説を信じていました。今回、先生のご著書を読ませていただくと、利権追求のみを求めるような市長、村長は淘汰されているとのこと。このことを信じようかなと思います。環境対策、食の安全対策、防災などがこれからの公共事業のテーマだというのであれば、公共事業必要論は理解できると思うようになりました」。
 その他、相当数の声が私のもとに届いていますが、大別すると三様です。一つは東京の知識層たちを中心にした「こんなことを書いて森田は自爆するつもりか」という声、二つめは地方自治体の市長さんや経営者の方々からの「(私の本を読んで)勇気づけられた。われわれは立ち上がります」という声、三つめは「公共事業の必要性について再認識した」という一般の方の声です。
 私はこの本の中で「言うべきを言わずして過ごしなば我が損なるべし」という永平寺を開いた日本曹洞宗の開祖・道元が残した箴言を紹介して、地方は地方活性化のために、土木建設業者は土木建設がいかに大切なものかを国民に皆さんに知ってもらうために立ち上がることを促しました。この道元の言葉の意味は、「言うべき時に言うべきことを言わずに過ごせば生涯悔いが残るであろう。生涯悔いが残るようなことをしないためには、言うべき時に言うべきことを言わねばならない」ということです。
 この私の呼びかけに応えるかのように、高知県の西南地方から私のところに「周辺の市町村を総結集して『地域経済危機突破決起大会』を8月に開くことを企画している。ついては基調講演をしてほしい」という依頼がありました。他の県からも似たような依頼がきています。各地から「われわれは立ち上がります」と言ってきています。今はまだ静かですが、この動きは秋にかけて広範に起こりつつあるように私は感じています。
 ある地方の建設業者からは次のような声が寄せられました。「新聞もテレビもマスコミは〈公共事業=諸悪の根源説〉を流しつづけている。これまで〈無駄な公共事業がある〉といわれていたのが、今や〈公共事業は無駄である〉といわれるようになり、子供は小学校で土建屋の息子だと馬鹿にされ、差別され、いじめられるようなことまで起きています。こういう風潮に、われわれ土木建設業者は疲れ、怯えて、これまで沈黙を守ってきました。しかし、森田さんのこの本を読んで勇気づけられました。われわれはこれからは言うべきことを主張します。立ち上がります。今度の参院選では、地方が元気になるためには公共事業が必要性だということをきちんと認識している人のために動きます」。
 地方の自治体関係者、土木建設業者、商工業者、一般市民の方々からの反応には熱気があります。本書を私が出版した目的は、地方の人たちに元気になってもらいたい、という点にあります。政府の姿勢やマスコミの報道に怯え、諦め、引っ込んでしまうのではなくて言うべきことを言ってほしいということを訴えることにありました。この私のメッセージは届いたかなと感じています。この11日間の反響に私は大いに勇気づけられています。民主主義国においては自分たちの意見をはっきり言い、自分たちの集団の要求をはっきり打ち出すことは必要なことです。時にはプレッシャーグループとして行動することは国民の当然の権利です。その国民としての当然の権利を行使するうえの一石になれば、と思ってこの本を書いたのです。今、私はやらねばならないという気持ちを地方の方々と共有するようになっています。私は、今、恵まれざる地方の人々とともに行動する決意です。

マックス・ウェーバーの言葉

 本日のこの出版記念講演会にあたって、二階先生、伊吹先生、古賀先生の3名の政治家の方々が発起人として名を連ねてくださいました。率直に言います。勇気と義侠心のある方がまだ日本の政界にはいると私は感動しています。義侠とは「強きをくじき弱きを助けること」(広辞苑)です。私は30数年間いろいろな方々との人間的に付き合いの中で政治評論をつづけてきましたが、その人間的なお付き合いをいただいた政治家の方々の根底にあったものはある種の義侠心だったと思います。私はお会いした政治家の方々に対して歯に衣を着せずものを言ってきました。耳に痛いことも多々あったと思います。しかしお目にかかった多くの先生方は、私の言うことをよく聞いてくださいました。そういう信頼感にもとづいた人間付き合いの底にある義侠心が日本の政界に依然として健在だということを強く感じています。私はこのことを胸に刻んでいきたいと思っています。この会の発起人になってくださった三先生に対し、深く敬意を表します。
 ここで思い出しす言葉があります。マックス・ウェーバーの『職業としての政治』の最後に書かれた一節です。『職業としての政治』は自由主義政治家のバイブルであり、この締めくくりの言葉は有名ですから皆さんも知っておられると思います。これを改めて読み上げるというのもどうかと思うのですが、お許しいただきたいと存じます。読みます。
 「政治は、情熱と観察力とを併せ持ちつつ、堅い板を力をこめて徐々に穿って行くことを意味する。〈中略〉自分が世間に捧げんとするところのものに対して、世間は(自分の立場から見て)余りにも愚鈍であり、余りにも卑劣である場合にも、それに挫けず、凡てに対して、『それにも拘わらず!』と言い得る確信のある人、そういう人だけが、政治に対する『天職』を有するのである」(清水幾太郎訳)。
 これが、東京のマスコミ界ではまったくの少数派、言ってみればはぐれ者のごとき言論人の私が本を出版したことに対して一肌脱いでくださった先生方3人に対して私が思い出した言葉です。三人の先生方は政治家としての「天職」を有する政治家だと思います。
 われわれ言論人についても同じことが言えます。大勢がこうだからその大勢に順応していこうという生き方は、言論人としてとってはならない生き方だと私は思っています。大勢順応は言論人として恥ずべき生き方だと思っています。自らの哲学なり信念なりに従って発言し、時には利あらず、ほとんどの人が「君は間違っている」と言う時にも、自らの考えを主張し続けるということができない軟弱な精神の持ち主は、言論界で生きるべきではないと私は考えます。言論人としての「天職」を有しない者だと思います。
 この意味では、今日の日本の言論界はどうかしているのではないかと思います。ほとんどが「大勢順応病」に罹ってしまっていると思います。大勢に順応し、「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」というような生き方をして言論人の責任が果たせるのかと私は言いたいのです。今の言論界やマスコミに対しては強い不信感と不満を持っています。誤った固定観念を振りまき、人に迷惑をかけても痛痒を感じないというようなことでよいのかと考えています。これが本書を書いたもう一つの動機であります。「社会の木鐸」という本来果たすべき役割を忘れたマスコミの存在ほど有害にして無益なものはありません。
 私は申年です。誕生日がくると72歳になります。人生総決算の時期が近づいているのですが、今日の日本の堕落したマスコミを立て直すために、これからも微力を尽くしたいと思っています。

郷土愛こそが政治の原点

 本書を執筆するに至った動機を具体的に申し上げます。昨年秋、飛行機の機中で二階先生と隣り合わせになり1時間ほど話をしたことがあります。
 二階先生はご承知のとおり和歌山県のご出身です。昨日、和歌山県の高野山・熊野古道が世界文化遺産に指定されることが決まりました。二階先生、本当におめでとうございます。和歌山県は歴史的な文化遺産があり、自然に恵まれたところです。
 機中で話したとき、二階先生は「もう少し道路網を整備すれば、多くの人が和歌山の文化遺産に接し、豊かな自然を満喫することができる。観光事業というのは単なる営利事業ではない。それは歴史を伝え、文化を伝え、自然を大切にする心を育む最大の教育事業でもある。そう思って私は社会資本整備と観光の問題に取り組んでいる」と言われました。
 二階先生のこの国と郷土を思う迸るような気持ちを聞いて、本書を書く決意を固めたのです。私も地方出身者です。二階先生の厚い郷土愛に大いに啓発されたのです。郷土愛と郷土愛を基礎にした国を思う情熱――これが保守政治家の根本思想だと思います。日本において保守政治が革新政治に負けなかったのは、郷土愛において勝っていたからだと私は考えています。
 個人の話は人前ですべきではないと私は親きょうだいから教わってきましたから、ここで私の過去を話すことには多少ためらいを感じるのですが、私が中学1年の時に戦争が終わりました。私の長兄は中国で戦死し、私の周辺にいた多くの人が帰らぬ人になりました。この時、私は戦争に憎悪を抱きました。戦後、中学2年の時にはマルクスの『共産党宣言』や『賃労働と資本』、レーニンの『帝国主義論』や『国家と革命』などのマルクス主義の文献を読み漁っていました。東京の大学に行っていた姉が帰郷した時にそれらの本を持ってきて本立てに残していく。私の出発点はマルクス主義だったのです。1952年に大学に入学した直後に私は共産党に入党しました。しかし、やがて私の信念と行動が共産党と両立しないようになりました。私は当時の共産党指導者ときびしく対立しました。共産党中央委員会は私を除名しました。これとともに私は共産党と訣別しました。
 その後、私は自由人となり、一時出版者の社員になった以外、すべての組織から自由に生きてきました。出版界にいた頃は、仕事上、革新系の学者や政治家と接触していました。その間、自民党の政治家との接触はほとんどありませんでした。1973年に政治評論活動を始めたあと、自民党の幹部とも知り合うようになりました。
 その当時、日本の政治の構図は保守対革新でした。私は保守勢力のことを全国を回って研究した結果、革新は保守にはかなわないなと思いました。というのは、革新が依拠しているのは、社会民主主義といおうが、社会主義といおうが、共産主義といおうが、ヨーロッパで生まれ育った舶来の思想です。その思想を国民の間に広めることによって勢力を伸ばし、やがて政権を狙うというのが革新勢力の戦略でした。これに対して保守の政治家は、もちろん自由主義が根底ですが、主義主張にとらわれることなく、現実の国民生活を向上させることに取り組みました。
 保守政治家の根底にあったのは郷里を思う気持ちだったと思います。革新陣営は労働組合や農民組合など革新勢力を支持する勢力のために戦いましたが、保守勢力は郷土の発展のために努力したのです。ここに大きな差がありました。舶来の主義主張よりも郷土愛の方が強かったのです。この結果、自民党は今日まで政権を維持してきたのです。ただ、私は率直に申しますと、今、自民党は本当の危機に直面していると思います。というのは、これまでの自民党は、郷土愛をもって郷土のために全力を挙げてきました。時にはマスコミから自分の郷里のためばかりに政治をしているではないかとの批判を受けても、ひるむことなく、郷土のため、国のために働いてきました。
 ところが今、そのことを公然と言い、公然と実行する政治家は少なくなりました。二階先生のように毅然として郷土のために努力しておられる政治家は、そんなに多くいるとは私には思えません。多くの政治家とくに若い政治家は、マスコミの顔色ばかり窺っているようなところが見られます。東京の空気、東京のマスコミに同調し、その主張から外れないように気を使い、マスコミの記者に良く思われたいとフワフワと浮ついた行動をしている人が非常に増えたように思います。自分の郷里のために、たとえば、この堤防を直さなければ来年また決壊して被害が出る、人命すらも危機に立つという時に、そのためにどんなに苦労してもやり遂げるという力強い情熱をもった政治家が少なくなったように思います。私は、すべての政治家が二階先生の郷土愛を見習ってほしいと思います。
 あえて言えば、私は政治家の根本にあるべきは郷土愛だと思います。郷土愛を根底にして、国を思い、国のために働く――国全体の発展のために、あるいは平和を守り、国の独立を守るために全力を尽くすということが、政治家の政治家たる本分だと思います。さもければ、国民は安心して政治家に自分たちの未来を託すことはできないと思います。政治家の真面目な郷土愛を東京のマスコミが「地元の利益優先」と非難するのは間違っています。郷土のために働くことが政治家の責務であり責任だと思います。繰り返しますが、政治家の原点は郷土愛にもとづく国を思う心なのです。
 ところが近年、都知事選挙などでは、「東京都民が納める税金は東京都だけで使うべきだ」というような主張する候補者が出てきます。私流にいえば、「東京エゴイズム」です。十数年前まではそんな主張は通りませんでした。そんな視野の狭い主張をする者は支持されませんでした。ところがいまやかなり多くの人が「東京エゴイズム」に喝采を送るようになりました。それは何故か。
 東京に住んでいる人の半分は東京生まれ東京育ちの人たち、半分は地方から東京に出てきた人たちです。これは戦後の時代の大きな流れの結果です。地方から出てきて東京に住んでいる人たちは、東京で働き、東京で税金を納め、東京でいろいろな社会的貢献をしていますが、その間、絶えず生まれ故郷のことを考えておりました。そして、自分が納めた税金が自分の郷里のために使われることを心の底では喜んでいました。ところが今や、そういう主張はマスコミから馬鹿にされ、一蹴されます。最近、地方を蔑むような発言をする政治家が目立つようになりました。大マスコミがこの種の政治家を応援しています。
 しかし、こういう風潮は反省されるべきだ、と私は思います。地方を蔑むようなことは人の道にはずれるということです。このことは私がこの本のなかで言いたかったことの一つのです。

中庸のすすめ

 ここで私がこの本で述べていることのキーワードを申し上げます。
 第一は、「常識」と「中庸」です。先ほど竹内先生はじめいろいろな方が「森田の考え方の底にあるのは、極端は排すべきだ。中庸が大事だという考えだ」と言ってくださったことは大変ありがたいご指摘でありまして、常識と倫理の同心円の上に成り立っているのが人間社会なのだと私は思います。歴史の中には時として国民が常識に飽き、非常識を支持することもあります。とくにマスメデイアが一斉に非常識を支持した時には、常識が排除され、非常識が勝つことがあります。歴史上、そういう事例は数多くあります。しかし、非常識が長引いた時には国民は不幸になります。非常識が爆発した時、できるだけ早く常識に立ち戻ることのできる知恵をもつ国民は、早く蘇ります。国民が過去に飽き、過去を否定したいという誘惑にかられ、マスコミもその風潮を助長する時、政治は過去の否定に向かいます。しかし、これは危険です。それをとどめるのが政治指導者の役割だと思います。政治がその流れに引きずられることもありますが、しかし、その流れをできる限り早く克服し、常識のレールの上に戻すことが政治のやるべきことではないのかと思います。
 例えば、「公共事業はむだだ」というのは明らかな過ちです。わが日本列島には毎年台風がきます。どこかで地震が起こります。どこかに災害が起こります。それらの災害から国民を守るのは政府の最大の責務です。公共事業一般の否定は政府の役割の否定です。これは間違いです。
 昭和29年に防衛庁設置法、自衛隊法が成立し、同年7月1日に施行されました。ちょうど50年前のことです。この時、参議院は自衛隊の行動を日本の領土・領海内に限るとの決議案を可決してから自衛隊法を議決したのです。この自衛隊法は、自衛隊の行動範囲について、第一に防衛出動、第二に治安出動、第三に災害派遣であると規定しています。このことは何を意味するか。わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つためにつくられた自衛隊の三大任務の一つが、災害時に国民の生命と財産を守ることにあるのです。すなわち、災害対策は国が責任をもってなすべきことなのです。われわれは常にそういう危機に対する備えをしていなければなりません。これに通貨の安定と警察を加えた五つが、国家として責任をもつべき最重要課題だと思います。政府がこの責務を放棄したら無政府状態になります。
 以下は、先日、北海道に行った時に聞いたことです。昨年の台風災害時に決壊したいくつかの堤防が完全に修復されていないそうです。決壊した堤防はただちに直して再び同じようなことは起こさない――これは、金があろうとなかろうと、政府および地方公共団体がなさなければならないことです。修復されないままの個所がいくつかあるというのは、本当に情けない話です。防災の観点から言って公共事業は当然のことなのです。公共事業はやめた方がよいなどというのは非常識な議論なのです。非常識な議論がまかり通っている状態を早く終わりにさせ、常識が常識として通る状況をつくらなければならないと思います。
 これは、私が言うところの不均衡の克服という問題でもあります。現在の東京は、地方から見ると、これが同じ日本かと思うような華やかな状況にあります。雨後の筍の如くビルが次から次へと建てられています。名古屋や大阪でも建築中の高層ビルを見かけますが、それはほんのわずか、東京の比ではありません。その他の地域はもっと深刻です。たとえ災害を受けたところでも工事の音が聞こえないのです。
 それは何故か。二つの要因があります。一つは10年前に比べて公共事業は半分になっていること、もう一つは地方自治体の財政が非常に苦しくなっていることです。地方財政は、先ほど紹介した四国の市長さんの言葉に見られるように、来年度予算が組めないというところがほとんどです。蓄積したものは今までにほとんど取り崩したと言っています。
 とくに来年からは大変です。終戦後、復員された方々が結婚し、家庭が復活しました。そして昭和22年から25年までの間に大量の生命がこの世に誕生しました。第一次べービーブームです。このいわゆる団塊の世代が成長するごとに戦後の日本社会を変革していきました。団塊の世代の成長と戦後日本の成長は軌を一にしているのです。
 この団塊の世代の人たちが定年退職の時期を迎えます。地方自治体にも団塊の世代は多いのです。ところが、それらの人たちに退職金を払う金がないという話を多くの自治体から私は聞いています。地方自治体関係者の話によると、大阪府は労働組合に対して退職金の分割払いを求めて、今、団体交渉のテーマになっているという話です。なお、この話は大阪府当局に直接確かめていないことをお断りしておきます。多くの地方自治体は、職員の給与や福祉関係費など優先的に出さなけれものを出すだけで精一杯なのです。そのくらい各地方自治体は財政難に苦しんでいます。そのために公共事業にまでとても手が回らないのです。地方の公共事業の多くは中央と地方が費用を分担し合う仕組みになっていますから、地方がその費用を出せないという状況であれば、国の直轄事業以外、公共事業はできません。
 そういう状況の中で何百万の土木建設労働者は非常に苦しんでいます。経営者も苦しんでいます。日本のマスコミ界の中にはには「土木建築業者はわが世を謳歌した時代があった。だから今、苦しむのは当たり前だ」というようなことを言う者がいますが、冗談ではないと私は思います。冷たすぎます。これまで数多くの不祥事が起こったことは事実です。私はそれを大目に見ろと言っているのではありません。しかし、現実を見れば、ほとんどの土木建築業者は、爪に火を点すが如く、ものすごい苦労をしながら生きているのです。ほとんど人たちは繁栄期においてすら真面目につつましく生きていたのです。大部分の人たちがそうなのです。誰が何と言おうとも、私はこのことは言わねばならぬと決意しています。長い歴史の中で社会の土台を築いてきたこれらの人たちが不幸になることに対して、あたかも「それみろ」と言わんばかりのマスコミの冷酷な議論を私は承服しません。
 私はいくつかの地方において次のような話を聞きました。最近、廃業する土木建築業者が増えています。その主な理由の一つとして、「子供が学校でゼネコン・土建屋の子供と言われて肩身の狭い思いをしている。今まで歯を食いしばって頑張ってきたが、そんなことならばもうやめたい」という土木建設業者が増えているそうです。しかし、廃業したくとも廃業できない業者はこう言うそうです。「あの人は借金がないから店を畳むことができる。私は借金があるから畳みたいと思っても畳むことができない」、と。
 何があろうとも人を差別したり、職業に貴賎をつけたりということはあってはならないことです。人間として、してはならないことです。いわんやマスコミがそういう風潮を助長するがごときは許されざることだと思います。
 このような話を聞くにつけ、今の政治はこれでいいのかと私は思います。「改革」の名のもとに行われる政治によって、社会の階層化が進み、貧富の差が拡大し、不幸になる人が増えていく――これが現実に起こっていることです。こんなことを政治が放置していていいのかと、私は言いたい。
 不均衡の拡大を放置する政治は間違いだと私は思います。市場経済が競争であることは認めます。知恵比べであることも認めます。競争に勝った人が負けた人よりも得をすることも認めます。ですが、政治が優勝劣敗を奨励して、敗者をおろそかにするようなことは、政治のあり方として許されるべきではないと私は思います。競争社会であるからこそ、政治が競争の敗者に手を差し伸べ、不幸な人が出ないように配慮することが重要だと思います。弱肉強食を推進する政治を止めなければならないのです。
 数カ月前、アメリカから来日した友人に、その人がアメリカを離れる直前に行われたブッシュ大統領を囲む討論会の模様を聞きました。この討論会において、自由主義市場経済は最適だという議論が繰り返しなされた後、会議の締めくくりで、ブッシュ大統領は「競争に負けた人はどうなるんですかね。死ぬしかないんですかね」と発言したというのです。この意味についてその友人は、「ブッシュ大統領は、競争に負けた人は社会的にこの世に生きていけないということをわかっていて自由競争を言っているのでしょう。だからブッシュ大統領は、医療だけはみんなが受けられるようにしてくれと言っているのでしょう」と言っていました。
 この話を聞いての私の率直な感想を申し上げます。ブッシュ大統領が医療改革だけで不均衡と不平等を救済できると考えているとしたら、ブッシュ大統領は世の中のことを何も理解していないのです。不均衡と不平等の是正は、失業者をなくし完全雇用を実現する以外にはできないのです。
 「徹底的な自由競争の社会にする。その結果どうなるか、それは自己責任だ」という論理は、負けた人間に対して「あなたはこの世に生きている価値がない」と言っているに等しいことです。今の政治の大勢は「自己責任論」です。これは競争に負けた人は自殺しなさい、と言うに等しい非人道的なことなのです。
 それで政治は済むのか。政治はそれでいいのか。この世に生を受けた者のうち、ある人たちは貧しく、ある人たちは恵まれている――これは仕方のないことです。それはそれぞれが背負っている運命かもしれません。ですが、政治が主導する自由競争に敗北した人たちに対して、政治が「それは自己責任だ」と突き放していいのか。われわれ日本国民はそういう冷たい政治を許していいのか――これが私が問いかけていることなのです。そして、「マスコミの諸君よ、そんな政治を支持していていいのか。それで君たちは天に恥じないのか」と私が言いたいのです。その意味で、私は「常識の復権」「中庸の大切さ」を訴えているのです。
 年をとると、誰もがみな――誰もがといっては言いすぎですが――中庸論に傾くような感じがあります。例えば、孔子は初めは官僚でした。やがて政治家になり、政治の革命を目指しますが敗れ、その後、放浪の生活を送ったあと郷里に帰って思想家・教育者になりました。孔子は三つの人生を歩んだのです。孔子は『論語』の中で「中庸の徳これ至れるかな」――中庸の徳はあらゆる徳の中で最高の徳なのだという有名な言葉を残しています。「過ぎたるはなお及ばざるが如し」、これも孔子の言葉です。孔子は中庸主義者なのです。
 もう一人例を挙げますと、西欧近代科学の祖と言われるアリストテレスは、『ニコマコス倫理学』――編纂したのが息子のニコマコスですから『ニコマコス倫理学』といわれます――の中で、「徳は、超過と不足によって失われ、中庸によって維持される」と言っています。アリストテレスはわかりやすく次のような例を挙げています。「人間の徳の中で忍耐は非常に重要な徳である。忍耐という徳が少なすぎると短気になる。多すぎると無気力になる。自分の胸の中の怒りをもちながらそれを抑える。その均衡に忍耐の意味がある。中点すなわち中庸が重要なのだ」と言っています。金の使い方についても、ケチでも放漫でもいけない、そこの中点にお金の正しい使い方があると言っています。著名な翻訳者である高田三郎さんは、これを「寛厚」という言葉に訳しています。
 今、私は21世紀の政治を構想する道標として老子思想が役立つのではないかと主張しているのですが、老子も「沖」(ちゅう)という言葉で、中庸の大切さを説いています。極端は避けなければなりません。極端に針が振れたら、早く中点に戻さなければいけない。その知恵をわれわれは持たなければなりません。この意味で、私は政治において中庸の大切さを主張しているのです。

 政治が基本とすべき老子の教え

 もう一つのキーワードは、老子の「上善水の若(ごと)し」です。「最高の善は水のように下へ下へと流れて全体を潤すものである」という意味です。
 今、日本の富は地方から中央に集められています。地方の優良企業は本社を東京に移しています。全国の富が東京に集まる流れがますます強くなっています。また、金融機関は、金融庁の指導のもと、不良債権処理の名で貸付金の取り立てを非情なほど遮二無二強行しています。貸出残高の減少といえば聞こえは悪くありませんが、取り立てられた金は中央銀行たる日銀に集められています。この国民から情け容赦なく搾り取った金はドル買いにまわり、米国債を買う資金の一部に使われているのです。こんなことをしていては中小零細企業は生きていけません。
 財政面を見ても、小泉内閣による緊縮財政によって、地方財政は来年度予算が組めないほどの苦境に立っています。やり方が強引すぎます。また、速すぎます。これでは草の根の国民生活は干上がってしまいます。
 老子が説くように、水のように下に下にと流れて下を潤すのが政治の根本だと私は思うのですが、現実に行われていることはその逆のことです。富が中央に集中し中央が繁栄を謳歌する一方で、地方・地域は衰退する一方です。
 この流れを変えなければなりません。地方の活性化こそが日本再生の第一歩です。血液が全身に回らなければ人間は健康な肉体を維持できないように、地方が衰退したままでは日本は健康体になり得ません。そのために必要なのが適切な公共事業の推進だと私は主張しているのです。
 さきほど話しました高知県西南地域が8月中旬に開催する「地域経済危機突破総決起大会」を、ほとんどすべての新聞社、テレビ局が後援します。文字どおり、地域が草の根から立ち上がるのです。私もこの基調講演のため、あの四万十川がある中村市にまいります。私の今回の著書『公共事業必要論』によって生まれた縁です。
 この「総決起大会」のような地方から小泉内閣に対して政策転換を求める動きは、今後、全国各地に広がっていくと思います。全国各地を回っていて、私は、小泉構造改革に対する地方の不満・不信の強さを実感しています。地方の怒りが爆発する時期が近づいてきていると私は思っています。
 最近、私は全国各地での講演の中で百年前に徳富蘆花が言った「国家の実力は地方に存する」という言葉をよく引用します。これは徳富蘆花が『「思い出の記』の中に書き残した有名な言葉です。国にとって地方は大切なのです。この箴言のとおり、地方が元気でなければ日本は元気になれないと私は思います。
 1945年8月15日、私が中学1年の時に戦争は終わりました。その後、外地へ行っていた何百万人もの人たちが引き揚げてきました。復員した方々の姿は私の脳裏に焼き付いています。私は伊東から熱海経由で小田原の中学に通学していましたが、熱海から小田原までの東海道線は復員の人たちで一杯でした。私たち中学生は復員兵の間でもみくちゃになりながら通学しました。
 戦後の焼け野原に帰ってきた方々には、もちろん職はありません。その当時、政府発表の失業者数は600万です。この人たちを受け入れたのが地方でした。故郷でした。故郷を拠点として生活の場を築き、そして戦後復興、高度経済成長の過程で大都市に移住して、「奇跡の復興」といわれる戦後日本の発展を築き上げたのです。地方・地域の懐の深さが戦後日本の発展の原点だったのです。強い地方があったればこそ、戦後日本の発展はあったのです。この地方が、小泉構造改革のもと、切り捨てられ疲弊しているのです。この事態を政治が放置することは犯罪に等しい行為です。
 地方の疲弊について一例を挙げます。80年代末に大店法が改正されました。便利なスーパー、コンビニが全国各地にできました。他方、地域社会を根底で支えていた家族経営の弱小の小売店は廃業に追い込まれました。ところが、90年代後半の長期不況の中で採算の取れないスーパー、コンビニは撤退していきました。私は中国地方を車で移動していたあいだ、廃墟と化したコンビニをいくつか見ました。ガラスは壊れ、ドアは風に吹かれてパタンパタンと音を立てている。周囲は草ぼうぼうでした。悲しい風景です。私は1980年代前半に見学した自動車の街デトロイトを思い出しました。当時のデトロイトは日本車に押されてあたかも廃墟と化していました。
 小売店がつぶれ、コンビニがなくなったところでは、日常品や食材を買うことすらできなくなっているのです。非常に不便な社会ができつつあるのです。大店法の改正は、その時に良かれと思ってやったことが、長期的に見た時には失敗だったということの代表例だと思います。大店法の改正は「日本の米国化」の第一歩でした。これは失敗でした。東京はいまだに「米国化」に浮かれていますが、地方は「米国化」が不幸をもたらすことに気がつきました。
 今の日本、目先のことにとらわれて、将来を見据える洞察力を失いつつあるのではないでしょうか。とくにマスコミがひどい。もう少し長期的にものを見る目を養う必要があると思います。孔子は「遠慮なければ近憂あり」という有名な言葉を残しています。ここでいう「遠慮」は、われわれが日常使う控えめにするという意味ではなく、遠くを慮(おもんばか)る、将来を展望するという意味です。将来を展望することなく目先のことに拘泥すれば必ず禍が起こるという孔子の教えです。そういう姿勢を政治は取り戻さなければいけません。公共事業というのは事業期間が長い。そのため、目先のことばかり考えた時には多くはムダに見えるのかもしれませんが、公共事業こそは長期的展望を持って取り組んでいかなければならない国の責任です。
 私は財政学者とか財政当局の幹部とか経済ジャーナリストと話し合うたびに異常な思いを持ちます。というのは、彼らは口を揃えて、「財政赤字をこのままにしておいたら国がつぶれる」と言うのです。政府の審議会のメンバーになっている人たちも「財政赤字で国がつぶれる」と著作などで盛んに強調しています。多くのマスコミもそういう論陣を張っています。大新聞の社説などは、公共事業を少しでも増やしたら国がつぶれるような極端なことを書いています。たしかに財政赤字は良いことではありません。直さなければならないことです。
 ですが、「財政赤字で国がつぶれる」という言い過ぎです。間違っています。大新聞は矛盾しています。アメリカのためにイラクに金を出すこと、北朝鮮に大金を使うことについては沈黙していながら、地方と公共事業に予算を使うと「国がつぶれる」と言って大騒ぎしているのです。どちらも国の金に違いありません。ひどすぎます。
 歴史上、戦争に負けて国がつぶれた例はあります。借金を返せずに領土の一部を債権国である大国に取り上げられた例もあります。しかし、自国内に貯蓄があり、政府がなすべき仕事をするためにその貯蓄から借金し、その結果、GDP以上の借金ができたからといって、国がつぶれたという例はありません。政権が替わることはあります。今、わが日本国民は福祉政策などのために国が借金していることを、決してよいと言っているわけではありません。たぶんやむを得ないと思っているのが平均値なのかもしれませんが、しかし、咎めてはいません。財政赤字を重視して、これを咎めていれば、自民党政権はとうの昔に替わっているはずです。日本国民は依然として自民党政権を支持しているのです。国民からの借金を今すぐ返せと言っているわけではないのです。
 また、日本の場合、韓国、インドネシア、フィリッピンなどのようにIMFから金を借り、そのためにIMFの管理下におかれ、IMFの――つまりアメリカ流の――グローバルスタンダードを受け入れざるを得ないというケースとも違うのです。日本はIMFから1銭も借りていない。ですから、アメリカ流のグローバルスタンダードを無批判に受け入れるなどというのはとんでもない愚行だと私は思います。
 ともかく、貯蓄性向が非常に強い国民が蓄えたお金を借りて――国債を発行して――国家予算を組む、建設国債を発行して公共事業を行うということについて、「それでは国がつぶれる」と国自身が大騒ぎするのは行き過ぎています。あまりに異常です。常識に反することです。私はそういう不正確な話はやめてもらいたい、政府自身が日本国の信用を自ら失墜させるようなことはやめてもらいたい、と言っているのです。
 借金はよいことではありませんが、これを直すには歳入増をはかるしか道はないのです。国民全員で働いて、経済成長をはかり、税収を増やすことを考えるべきなのです。これしかないのです。節約は必要ですが、「角を矯めて牛を殺す」がごとき愚行はやめるべきです。

 横行する不正確な偽りの議論
 もう一つ、辻褄が合わない議論が行われています。それは公共事業をやめれば財政再建ができるという議論です。そういう議論は文章化されてもいます。しかし、今年度予算編成にあたって三十数兆円発行された国債のうち、建設国債が占める比率は18%です。たとえ建設国債をゼロにしても、残り82%の国債は発行せざるを得ないのです。つまり、私が言いたいことは、建設国債をゼロにすれば国の財政は健全化するというのは偽りの議論だということです。私は、財政再建が非常に重要であることを承知の上で、不正確な偽りの議論はやめようではないか、と言っているのです。
 国民の皆さんは財政のことはあまりよくわりません。それをいいことに、「財政赤字で国はつぶれる。つぶさない方法はただ一つ、建設国債をなくすことだ。公共事業はもうやめるべきだ」というのは、国民を欺くペテンだと私は言いたいのです。私は講演など機会あるたびにこのことを指摘してきました。このたび出版した『公共事業必要論』のなかでも書きました。私はこのことについて、財政学者や財政当局者と議論を戦わす場があれば、何処へでも出ていって議論したいと思っています。偽りの論理を弄ばれて誤った方向に導かれては国民は浮かばれません。議論をしましょう。論争しましょう。
 さらに言いたいことがあります。現在の外需主導による景気回復は、それはそれで悪いことではありません。「中国特需」で日本経済が蘇生するなら結構なことです。アメリカ、中国の景気の良さに引っ張られて輸出が増えた、外需によって全体の指標としては景気がよくなったというのは、それはそれで歓迎すべきことです。
 しかし、政府がこれを「財政支出なき景気回復」というのは明らかな間違いです。あえて言えば嘘です。どれだけの大金を為替安定のために使っているのか、日本の輸出産業のために使っているのか。何十兆円の金を政府・日銀は為替安定という名目でドル買いに使っているのです。これは事実上、輸出企業への補助金です。そして買ったドルのかなりの部分が米国債の購入に充てられているのです。これがブッシュ政権の減税政策の原資となり、米国経済の繁栄に資しているのです。言い換えれば、小泉政権はブッシュ政権のために大金を使っているのです。繰り返しますが、これは換言すれば、日本の輸出産業に対する保護政策です。為替市場にそれだけの莫大な資金を投入しながら、「財政支出なき景気回復」というのは、これまたペテンの議論です。
 ところが最近、「財政支出をしなければ民間は自助努力を始める。それによって景気はよくなる」「緊縮財政を徹底させ不良債権処理をすれば景気がよくなる」という極論がマスコミによって宣伝されています。それだけではありません。「政府が公共事業等にお金を出すから景気が悪くなる。政府が金を出さなくなれば景気はよくなる」というような、あたかも太陽が西から上がるがごとき倒錯した論調すら現れてきました。
 これはあまりにひどすぎる議論です。政府・日銀は為替市場に大量の国の資金を投入しているのです。ドル安・円高を防ぐことによって日本の輸出産業を保護しているのです。買ったドルの多くは米国債の購入に充てられ、減税政策の原資になり、アメリカ景気を支えているのです。このために財務相は日銀からの借り入れを増やしています。これは世界周知の事実です。ところが、政府は「財政支出なき景気回復」という混乱した認識のもとに、緊縮財政をさらに推し進めようとしています。非常に危険だと私は思います。
 私が今、非常な危機意識を持っていることがあります。それは、"景気はよくなり始めた"という判断をもったときに政府の政策上の間違いが起こることが多々あるということです。
 参院選後、そういう誤った認識のもとでの政策を正し、政府の責任において公共事業をレールに乗せ、地方の苦しみを中央政府が共有して地方対策を充実させ、全体として日本経済を成長軌道に乗せるという政策転換をはかってほしいと私は心底願っています。政府は謙虚に現実を見てほしいと思います。
 今年度の税収が少し好転しそうだというニュースが流れましたが、これによって小泉政権発足以来の税収の下落が止まったわけではありません。このことは注意しておかなければならないことです。日本全体の景気が回復するということは税収が増えるということです。税収増こそが財政難を克服する唯一の道です。この3年の間に9兆円近い税収減がありました。税収減ほど国の財政にとって痛手はありません。税収を増やすよう、少なくとも減らないよう、政府は常に鋭意努力を払う責任をもっていると思います。
 参院選を目前に控えて発言には注意を払わなければなりませんが、つい最近まで国民全体に投票に行きたくないという空気が覆っていました。6月末に参院選が始まった頃は、私は史上最低の投票率になるのではないかと憂慮していたのですが、ここにきて空気が変わり始めました。政治不信で固まって選挙に無関心だった空気が少し変わり始めたような感じがします。なによりも地方が動き始めました。その結果、投票率はそれほど絶望的な数字にはならないのではないかという気がします。この参院選で国民がどのような審判を下すか、注目されるところです。政党指導者やマスコミは、争点は「年金」と「イラク」と言いつづけてきましたが、地方が動き出した結果、各政党と政治家は地方の低迷をどう打破するか、明確な回答を出すことを迫られていると思います。この地方問題が、参院選後、政治の最重要問題になることは間違いないと私は思っています。

 地方の活性化が日本再生の第一歩
 二階先生はこれまでも地方活性化のために力を尽くしてこられましたが、これからも地方活性化のためにその先導役を務められるに違いないと私は確信し期待しております。
 地方の活性化のために何をなすべきかと言えば、それは第一に公共事業だと私は主張します。均衡ある国土づくりのために公共事業は不可欠のものです。道路網の整備は地方の活性化のために必要不可欠です。東京エゴイズムの視点から「これ以上の公共事業は不必要だ」という議論は暴論です。社会資本整備にかかわる公共事業費を海外と比較し、「日本の公共事業費は高すぎる。海外の先進国レベルにとどめるべきだ」という意見があります。政府関係機関の報告書にもその種の意見が盛り込まれています。しかし私は、これはわが国の地理学的・地勢学的な事情をまったく無視した妄論だと思います。日本は地震国であり、毎年台風の来襲をうける国です。平地が少ない国です。災害に対する備えを怠ってはならない国なのです。誰がどんな意見をもとうとも、それは個人の自由です。しかし、巨大な権力をもっている政府やマスコミが、地方の実情を知らないまま、「東京眼鏡」で「これ以上の公共投資はムダだ」というのは大いなる過ちです。
 小泉構造改革は、国民に対して改革の着地点を明示していない「初めに改革ありき」の誤った政策だと私はとらえています。今、「改革の着地点を明示しない」と申し上げましたが、もう少し正確に言った方がよいかもしれません。小泉構造改革を推進している人たちが描いている将来の日本の姿が「アメリカ流の競争社会」であることは明らかです。アメリカがいくつかの点で日本よりすぐれていることは認めます。しかし、日本には日本固有の文化、風土、習慣があり、歴史があります。そのもとでわれわれは生きているのです。これを無視して、米国流グローバルスタンダードに同化することが日本の生きる道だというのはまったくの錯誤だと私は思います。日本という国と社会を知らない者の暴論だと思います。
 「たとえ自分がどんなに醜い人間だったとしても、だれも自分自信から逃げることはできない」――初期キリスト教会最大の思想家といわれるアウグスティヌスの言葉です。私は日本を「醜い国」だとは思っていません。たしかに直すべきことは多々あり、いくつかの点で日本がアメリカに学ぶべきであることは素直に認めます。しかし総合すれば、日本はどの国にも劣っていないと思っています。ですから、私は、日本は日本固有の伝統的な文化、風土、習慣にもとづいて日本独自の生き方をすべきだと言いたいのです。
 もう一つ、私が最近議論を戦わしている問題の一つとして雇用に関する問題、つまり「働く」ということに関する問題があります。私のもとに最近、「君は雇用問題を重視し、政府は雇用問題にもっと力を注ぐべきだと主張しているが、私は単なる失業対策には反対だ。基本はあくまで自助努力だ。雇用問題重視を訴える君の主張には同意しかねる」という手紙が届きました。「働く」ということは人間の基本的な営為だと私は思っています。その「働く場」が失われていることに対して、そんな冷たい態度でいいのか、日本はそんな冷たい社会になってしまったのか、と私はつくづく思います。
 人間は「働く」ことによって社会と繋がるのです。社会学者アードレイは、「働く」ということについて、「一に生きがい、二に刺激、三に安楽(所得)」と言っています。この三つの目的のために人間は働くのです。この「働く場」を与えることは政府の最大の任務の一つです。最近、政府は雇用情勢は好転しているという統計を発表していますが、フリーターが約420万人という状況をそのままにしておいて、雇用情勢はよくなったというのは「冗談もほどほどにしてほしい」という類の話だと私は思います。国の指導者である政治家や指導的役人やマスコミが、自分さえよければいい」という考えに固まったら国は滅びます。
 今、日本は核家族化が進んだ結果、かつて家庭内で行われていた教育が失われました。かつての日本の家庭は、父母のみならず、一緒に住んでいる祖父、祖母から人間として生きるモラルを教えられ、兄弟姉妹が何事にも助言を与えるという教育の場でもありました。「我が身をつねって人の痛さを知れ」――これは私が物心ついた時から家族に言われていた言葉です。昔の家族は、人としてきちんと生きる常識と知恵を教える人間教育の場でもありました。核家族化が進んだ結果、そのような家庭内での人間教育は失われましたが、代わって人間教育の役を担ったのが企業です。企業は雇った人たちを一人前にするために一所懸命、企業内で教育を施しました。先輩は後輩を教育しました。それによって人々は一人前の社会人になっていたのです。
 ところが、今、企業内教育が衰退しています。固定的な勤め先をもたないフリーターが激増しています。彼らには社会的にどう生きるべきかという教育をきちんと受ける場がないのです。彼らはかつて企業内で受けていた人間教育をほとんど受けていません。このような人たちが増えていった末の日本がどうなるか、私は本当に懸念しています。その意味でも、私は雇用対策を重視することを訴えているのです。「衣食足りて礼節を知る」――菅子の言葉です。働く意欲をもつ人々にその場を与えることによって、社会は安定するのです。雇用が安定しない限り、社会は安定しません。税収も安定しません。
 私たちは今、歴史の教訓を学び、その教訓のもとに謙虚に生きることを真剣に考えるべき時だと思います。そして今、われわれにとっての緊喫の課題は地方の活性化です。地方の活性化なくして日本の再生はあり得ません。地方が繁栄し、多くの若者が地方で希望をもって生きられるようになれば、子供を生むことができます。子供を育てることができます。地方経済活性化のためには公共事業が必要なのです。このことを繰り返し強調して私の話を終了します。二階先生はじめこの出版記念講演会の主催者の皆さんに重ねて感謝申し上げます。ご清聴ありがとうございました。

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