ホーム プロフィール 著書など ニュース ライブラリ 明日のふるさとを考える青年の会

 

 

八月二十九日興国寺における
谷耕月老師に想う

2003年8月29日講演内容

衆 議 院 議 員
二 階  俊 博

 
 おはようございます。皆さんも、今日は、大変清々しい思いで第十九回の興国寺の夏期講座に出させていただいたものと存じます。私もいつもこの時期というのはいろいろな催しものがありまして、なかなか思うようには行かないんですが、出来る限りお伺いして老師のご講話を拝聴するとともに、熱心にお集いいただきこの興国寺の、亡き谷耕月老師以来、皆様がこの夏期講座に熱心にご参加頂いている姿に接しまして、その度に、これまた深い感銘を覚えている次第でございます。

 先ほど門前で第十九回という看板を拝見いたしまして、ああもう十九回になったんだなぁという感慨一入のものがあります。と申しますのは、私が初めて衆議院選挙に臨むに際しまして、当時私の東京の友人たちのご紹介や、興国寺の寺田泰山先生のご紹介で谷耕月老師にご面接の機会を与えられました。そして、いよいよ選挙に臨むというのはちょうど今から二十年前のことでございます。老師は私の当選祈願のために緋の衣を着てこられて、朝六時から必勝祈願をして頂きました。それはなにも私にその場へくるようにということでもなかったのですが、日程を調整すれば朝六時にこの興国寺さんにお参りをして、そこから出発すればその日の日程に食い込むこともなくできると判断してお伺いしました。

 私がお伺いしたときにはもう当選祈願が始まっておりまして、老師は私が後ろにおることは全然お気づきにならないで、一生懸命お経を唱えていただいておりました。もったいないような気持ちでその背後に私は座らせていただいておりました。すると、祈願を終えて後ろを振り向かれたときに、私がその場にいたので老師は大変驚いて、その後何回も何回もこのことを言ってくださるのですが、「どうせ御札をいただきにくるのは誰か代理が来るだろうと思いこんでいた。しかし本人がやってきた。これなら当選間違いない」まあ老師さまもその道の大家であると同時に、なかなか世間のことと言いますか、下世話のことにも通じておられる。しかもいつもユニークな発想でいろいろ私たちに教えてくださるわけです。私が老師からいろいろ承ったお話の中でも、やはり一番印象に残っていることは、「困ったときにはしめたと思え」と、こう言われるわけです。皆さん、困ったときにしめたと思えますか。困ったら困ったと思うのが凡人の私たちみんなそうだと思うのです。それを私が政治活動の中で、ピンチに陥ると、老師は「二階さん、あれだよ」「あれてなにですか」「困ったときにはしめたと思えといつも言っているでしょう、あれですよ」と言って、私を励ましてくださったことを覚えております。

 岐阜に私がまいりましたときに、岐阜県のいま知事をしている梶原さん(全国知事会会長)という方がおられます。梶原さんが、建設省の都市局長をしておられて、次の知事ということを約束されて副知事として岐阜県に赴任されておりました。もともと岐阜の方であります。私は谷老師と二人でお食事をする際に、「一人友人を呼んでいいですか」ということを訊いたら「どうぞ」と言われるので、私は梶原副知事をお誘いしました。しかし、副知事がいろいろ応答する姿を見ておって、「これはまだ谷老師を充分理解している様子ではないな」という感じがしたのです。時が移っていよいよ知事選挙になりました。私は岐阜にお伺いして、私の知っている範囲の岐阜県中のいろんな友人たちに百人ほどお集りをいただきまして、その中に谷老師も来てくださいました。その時の様子ですが、お集りをされている各界の有名な方々が老師に対して大変な尊敬の眼差しで、一語一語お話をお聞きになっている様子、そしてそのときの知事候補の梶原さんの姿はすでに谷老師に心酔しておられる様子でした。私は失礼ながら、これなら当選するなという、感じがしたわけです。その後も今日まで立派に知事を勤めておられますが、谷老師のことを時々梶原さんとお会いする度に話し合うわけです。あまりにも早いご逝去に対していまあらためて皆さんとともに心から哀悼の意を表したいと思います。

 私はその後、岐阜の正眼寺で行われました老師の七回忌に、お伺いさせていただきましたときに、そこでびっくりしたといいますか、はじめてあの広い境内の中で私は一人のご婦人にお目にかかりました。そのご婦人がさっと私の側にお寄りになって「私は田中でございます。古賀さんがいつもお世話になっております・・・・」こう言われました。正眼寺の森閑とした境内の一隅で私は直ちに、「この方があの有名な田中六助元自民党幹事長の奥様だな」と、次の瞬間にわかりました。自民党元幹事長の古賀誠先生が人生の師として仰ぐ田中六助先生――そんな関係で、自民党の中で私の最も信頼する政治家である古賀誠先生から、田中六助先生のことや奥様のことについても、かねてからもよく話を伺っていました。谷耕月老師、田中六助先生、そして古賀誠先生そして、この私と結ぶ不思議なご縁、―――自・自連立が成立した日、私はふとこの耕月老師を中心とする見えざる糸で結ばれたご縁について、古賀誠先生と語り合いました。皆さんもご承知の方も多いと思いますが、田中六助先生は最初の選挙に立候補する際には、日本経済新聞の辣腕の記者としてその名が知れ渡っておりまして、新聞記者として、有名な賞を次から次へとお取りになりまして、当時の池田内閣総理大臣の秘蔵っ子の総理秘書官として選挙に立候補されました。新聞記者ですから見識というか、目の高さというものはかなりのものですから、選挙なんかはそう大したものではないと、簡単に自分なら通るだろうと思って立候補されたに違いありません。

 それだけに落選されたときの落ち込みというものは激しいわけです。そこで当然本人は自信を失います。そのさまよっている最中に、読売新聞の社主であられた正力松太郎さん、この方に呼び止められて「田中君、いまは君は暇があるんだから岐阜の正眼寺を紹介するから、行って少し修行してきてはどうか」と。早く言うと「坐禅して来なさい」と、こういうことです。正力松太郎さんは紹介状をお書きになって、それを持った六助先生はもう矢も盾もたまらず、行こうと決まったら一直線で、東京からタクシーに乗って岐阜の正眼寺へ駆けつけたそうであります。そして、タクシーを待たせておいて、正眼寺にお伺いした来意を告げると、その応対に出られたのが若き日の谷耕月老師の姿でございます。

 谷老師は「今日はお訪ねの梶浦大老師は出張中だ」と。「従って今日はだめだから、明日またいらっしゃい」とこういわれた。表にタクシーを待たせていますが、明日来いといわれてもどうにもなりません。そこでまた田中先生がねばってお願いすると、「普通はそういうわけにはいかないが、今日は私の独断でお寺の一室に泊めることにする」ということで、泊めていただいたそうです。翌日から山篭りをすることを許されて、谷耕月老師の直弟子として働いた。老師が田中六助先生になにを教えたんですか。「何も教えない。朝から風呂焚き、庭の掃除、いろんなことを、私はこの寺の中のことを一切やらなければいけないが、いい弟子を見つけたと思ってこき使ったんだ」と。そしたら四十日ぐらい経ったある日に「それじゃこれから大老師が新幹線に乗って旅行されるから一緒に車に乗りなさい」ということで、谷老師が運転して岐阜羽島駅へ向ったそうです。

 そしたら四十日おってなにも特別なことは教えてもらってはないんですが、朝から晩まで掃除をしたり、雲水の皆さんと一緒になって修行を積んでいる中で、最後に大老師が車の中で「あなたは池田さんを信じて政界に入ろうということを考えたんでしょう。それなら迷ってはいけません。ずっと池田さんを信じ続けなさい。池田さんの声も池田さんの考え方も、池田さんの話しぶりも自分で会得するようにこれから努力して頑張りなさい。あなたは必ず成功する」こう言って、「もう教えることはないから、自分は新幹線で大阪の方へ行くが、あなたは東京へ帰りなさい」そういうやり取りを車の運転しながら谷老師はじっと聞いておられたそうです。

 私が衆議院に初当選のときに、時の自由民主党の幹事長だったのが田中六助先生でした。田中六助先生が初当選組の私達といろいろな話をしているときに、私はすぐ側におりました。そして田中六助先生自身から「自分の今日あるのは谷先生のご指導をいただいたことが一番大きかった」という話をされるので、私も「谷老師」、「正眼寺」だと聞いた瞬間にひょっと目を幹事長の方に向けましたら、「二階さんは谷老師や正眼寺のことを知っているか」と言われるから、「いや、幹事長ほど知っているわけではありませんが、実は谷老師は私と同じ和歌山県のご出身なんですよ」ということを申し上げましたら、今度は自分の座布団をぱっとこっちに向けて、座り直して私に一生懸命お話しになる。その田中先生が私にお話しなさったことと、谷老師が私にお話しなさったこととが全く一体なんです。普通は大体Aという人が「あれは私の弟子だ」とこう言ったら、今度はこっちはまた「あれはむかし、私が学生のころに面倒をみてやったやつだ」と言って、両方どっちが偉いかわからんように張り合うのが普通でしょう。それがこのお二人の話はぴったりしているところに、私は見事なものだなぁと思いました。

 後に田中先生はご承知のように大平内閣の官房長官になられました。大平総理の精神的支柱を谷老師にお願いし、大勢の皆さんがこの谷老師の教えを受けながら、大平総理大臣その人の政治の、あるいは精神的な指南役としてご活躍いただいたことも、期間が短くてお互いに残念でしたが、あったようでございます。耕月老師は「東京へ出て来られる際に時間があったら、朝でも夜でも一緒に食事をして話をしよう」ということで本当に私も可愛がっていただきました。あるときに、ちょうど竹下内閣ができる前でしたが、私はふと大平さんの精神的支柱ということを思い出しました。竹下さんも日本の国の総理大臣として働くようになった場合には老師のような方の教えをいただくのがいい。そのためには当時七奉行とかいって竹下さんの側近が七人おりました。私からすればはるかに兄貴分の先輩議員の皆さんであります。そういう皆さんをお招きして谷老師と一夜をともにし、いろんな人生のこと、政治のこと、世間話を交わしたこともつい先頃のことのように思えてならないのです。

 その谷老師がこの興国寺においでになりまして、興国寺の再興を計られるとともに、ここに岐阜の正眼寺の方でおやりいただいている夏期講座を、そのまま和歌山にもってこられたわけでございます。それを皆さん方の大変なご協力によって今日第十九回目を迎えるということ、私もこの夏期講座のスタートの時から知っているというか、伺っているものとして大変うれしく思います。いま「心の時代」ということが言われるわけでありますが、殺伐とした世の中ではありますが、この老師の教えを我々お互いに咀嚼しながら、これからの人生をみんなで豊かな実りの多いものにしていただきたいと思うものでございます。今日はこうして皆様にお目にかかる機会を得まして大変光栄に思います。どうかこれからも正眼寺、そして興国寺、これも言わずとも知れた日中間の長い長い歴史の中でも、燦然と輝くこの興国寺でございます。金山寺味噌や醤油が中国から伝わってきたというのもこのお寺でございます。そのことが日中の大きな歴史、これはもう七百年以上も前のことでありますが、この地域の湯浅町にしましても、由良町にしましても、私の生まれた御坊市にしましても、この味噌、醤油が今日までこの地域の産業としてずっと栄えておりますのも、七百年以上前に高僧が中国で学んできたからです。それがこのお寺を通じて周辺の繁栄につながっている。そうしたご縁を思いますときに、私ども自分の目の前に、日頃気がついてないようなことが大きくは日中の交流、また地域の産業にも大きな影響力をもっているということを、ともに感謝をいたしているものでございます。皆様のますますのご健勝とそしてご繁栄、興国寺の一層のご隆昌を心から祈念を申し上げご挨拶を終わらせていただきます。ありがとうございました。

検索語   検索ガイド